安全保障に関する日本国憲法上の自衛権の限界と今後の展望

林彥宏

概要

本論文は、日本国の安全保障に関わる問題の中でも中心的な争点となっている⑴集団的自衛権としての武力行使、⑵安全保障の問題に焦点を合わせ、その法的論点の整理を行うことを目的とする。戦後60数年間、日本国における安全保障の法的論争は、道義的・情緒的な議論が先行し、冷静に基本的概念を理解し整理しようとする努力に欠けていたといわなければならない。政府もこれまで、国会においてその場凌ぎの答弁を重ね、従前の答弁との辻褄合わせに終始してきたため、その見解は「蟻地獄」の様相を呈しているといってもよい[i]。日本国における安全保障論議で最も深刻な問題と思われるのは、それが国際法の常識と余りにも大きく乖離していることである。平成20624日、安倍内閣総理大臣(当時)の下に設置された「安全保障の法的基盤再構築に関する懇談会」の最終報告書が福田内閣総理大臣(当時)に提出された。この懇談会は、時代状況に即した安全保障の法的基盤を求めて議論してきたが、その議論の焦点の一つが集団的自衛権の問題であったことはいまなお記憶に新しい。報告書は、従来の憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認するような政府に求めている。

以上のような問題意識の下に、特に国会審議における関連の政府答弁を参照しながら、集団的自衛権と安全保障の問題点を取り上げ、若干の考察を加える。

 キーワード:集団的自衛権、安全保障、国際法、日本国憲法

Key Word: Collective Self-defense, National Security, International Law, Japanese Constitution

 1. はじめに

日本国憲法の前文や第982項は国際主義・国際法遵守を宣明しており、日本国は常に(国内における「法律による行政」の原則にならって言えば)「国際法による外交」を志向しなければならない。その意味で、安全保障に関する論議においても、国際法と国内法との距離を可能な限り縮めていく努力が何よりも望まれる。憲法をはじめ自衛隊法・国際平和協力法等、安全保障関連の国内法の解釈に当たっては、「国際法協調の解釈[ii]」が要請されている。

国際社会には国内の「最高裁判所」のような司法機関は存在しない。しかし、国際司法裁判所その他の国際裁判所の判例は、国際法における有権的解釈のため基準を提示し、各国に対して、対外的な行動基準を示すものである。対外関係の政策決定に際し(現実に国際裁判に係属する可能性は少ないとしても)、政策担当者はいわば「影の国際裁判所」を常に意識して、「もしこの案件が国際裁判に係った場合、どのように判断されるか」を考えながら行動しなければならない。武力行使、自衛権、法執行活動、平和維持活動といった問題については、コルフ海峡事件(1947年)、国連経費事件(1962年)、ニカラグア事件(1986)をはじめ、核兵器使用の合法性に関する事件(1996年)、サイガ号事件(1999年=国際海洋法裁判所)、イラン油井事件(2003年)、パレスチナ分離壁事件(2005年)など関連の国際判例がある。

日本国の国家安全保障及び国際平和活動については、もとより憲法第9条との関係を抜きにしては考察し得ない。したがって、憲法第9条については、かつてのような過度に理念的な論争を避け、あくまでも実証的な問題の所在を検証すること肝要がある。すなわち、情緒的空論ではなく、現実の国際社会における安全保障・軍事的事態を踏まえた議論が望まれる。

 憲法第9条については、これを直ちに憲法改正に結び付けて、あるいは逆にこれを改憲阻止と結び付けて、議論されがちである。しかし、本論文では憲法改正問題は取り扱わない。本論文の目的は、あくまでも現行憲法の下で、いかなる解釈が妥当であるかを考察することである。

 2. 集団的自衛権の行使

2.1. 集団的自衛権の「保有」と「行使」

周知のように、国連憲章では第51条で、各国が個別的及び集団的自衛権の固有の権利を有すると規定しているが、これまで日本国では、憲法第9条の下で、個別的自衛権のみが認められるとされてきた。集団的自衛権に関する政府の答弁は、日本国憲法制定期から、日米安保条約改定期を経て、現在に至るまで、一定の変遷が確認される[iii]。しかるに1970年代以後、政府の見解は、日本国が国際法上、集団的自衛権の権利を「保有」していることは主権国家である以上当然に認められるが、この権利を「行使」することは、憲法9条で許されないという形で統一されてきている。ここに言う、「保有」するが「行使」できない、とはどのような意味であろうか。

問題の核心は、集団的自衛権行使の制限が、法的判断のレベルか(憲法解釈説)、それとも政策的判断のレベルか(政策説)という点である。集団的自衛権について、「保有」するも「行使」し得ないとの政府の解釈が固まるのは、19725月から10月にかけてである。この問題については従前から政府部内で見解の相違があった。すなわち、集団的自衛権の不行使を、「憲法解釈説」で固めようとする内閣法制局と、「政策説」の立場をとる外務省との間の見解の相違である。佐藤栄作内閣末期、19725月の国家審議で、水口宏三議員はこの点を鋭く突いた[iv]。審議の末、同委員の要求で政府が提出した19721014日付政府見解「資料」は、政府部内の相違を調整し統一したものといわれるが、実は基本的なアプローチの対立は止揚されてない。この「資料」は、次のように記されている。

「国際法上、国家は、いわゆる集団自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており、……我が国が、国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。ところで、政府は、従来から一貫して、我が国は国際法上いわゆる集団自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界を超えるものであって許されないとの立場に立ている[v]」。

この文章でも、結局、日本国は集団的自衛権を「保有」しており、したがってこれを行使しないのは「政策的に」抑制しているにすぎないとする見解と、その行政は「憲法上」認められないことを強調する立場とを、曖昧なまま混交させているのである。集団的自衛権については、政府として最終的「不行使」を確認した1981年「答弁書[vi]」においても、同様に、この憲法解釈説と政策説が並存している。

この「保有」と「行使」の関係を、我々は如何に考えたらよいか。筆者は、「憲法解釈説」では集団的自衛権の制限をとらえる根拠には乏しく、やはり「政策説」が妥当と考える。何故ならば、憲法第9条は自衛権については何ら規定しておらず、個別自衛権についてはこれを容認し、集団的自衛権についてはその保有を認めつつ行使を認めないという点について、少なくとも規定上からは何らその根拠を見いだすことはできないからである。内閣法制局もその根拠を全く示していない[vii]。したがって、集団的自衛権の行使を認めないのは、やはり「政策的に」これを抑制しているものと考えざるを得ない。国家が自国の有する国際法上の権利(あるいはその一部)について、政策的に「権利行使の一方的停止」(suspend)、ないし「権利放棄」(waive)をすることは自由であり、そのこと自体は、特に珍しいことではない。例えば、どの国家も、自国民が外国で被害を受けた場合、外交的保護を行う権利を「保有」するが、その権利を実際に「行使」するか否かは、相手国との関係等を考慮し、国家が独自に、政策的に、判断するのである。国家が国際法上認めている権利の行使を控えることは、安全保障の分野でもよく見られる現象である。例えば同盟を結ぶ権利は国際法上どの主権国家にも認められているが、中立の地位を条約上(スイスの場合)、あるいは憲法上(オーストラリアの場合)の義務として、これを受け入れている国の場合には、法的に中立を維持する義務を負い、同盟権について、権利能力はあるが行為能力は制限される。しかし、こうしたスイスやオーストラリアの場合と異なり、スウェーデンをはじめ非同盟中立主義を掲げる多くの国々は、「政策」として中立政策をとっているのである。この場合は、同盟の権利からみれば、単にその権利を、政策として、放棄ないし停止しているにすぎない。

集団的自衛権に関する日本国の立場も、この後者に類似していると考えられる。憲法第9条には、個別的自衛権はもとより、集団的自衛権についても、これを禁止するという規定はない。また、日本国は条約で、そうした制約を受容しているわけではない。すなわち、日本国は集団的自衛権については条約上・憲法上でその放棄を規定されているわけではないのである。集団的自衛権を保有するか否かが争われているのであれば、それはもとより「憲法解釈」の問題となるが、その権利「保有する」ということが前提として受け入れられているのであれば、それを「行使」するか否かは、あくまでも「政策」レベルの問題として存在しているものと考えるべきであろう。

政府・内閣法制局がこれまで(特に冷戦期において)集団的自衛権の「不行使」という政策を堅持してきたことは、それなりに理由があったものと思われる。しかし、いつまでもそうした政策を維持することが妥当かどうかは別問題である。したがって、国際情勢の大きな変化に伴い、日本国がミニマムの集団的自衛権の行使を必要とする場合があり得るか否かについて、従来の政策を見直すことに(もとよりそれは、国の基本政策に関わる重大な問題であるから、国民のコンセンサスがなければならないことは言うまでもないが)、憲法上の問題はないというべきである[viii]

 2.1.1. 憲法学説と政府解釈の狭間

日本国憲法自体は、自衛権については、特に触れてない。そこで、この点については、(a)国際法上、主権国家には固有の権利として「自衛権」(個別的自衛権)が認められており、憲法第9条は自衛権(個別的自衛権)については否定していないとする説(肯定説)と、(b)日本国憲法は自衛権概念を放棄し、「平和的生存権」を根拠に、国民の生命財産等を守る安全保障の方途を示していると解すべきであるとする説(自衛権放棄説)がある。このうち、(a)の肯定説が一般的であり、最高裁も砂川事件判決において、「憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではなく」主権国家に固有の自衛権は否定されていないとし、肯定説の立場に立つことを明らかにした。

村瀬は憲法第9条は自衛権について何ら規定していないので、個別的自衛権を容認する一方、集団的自衛権についてはその「包有」を認めつつ、「行使」を認めないという解釈は、憲法の規定に根拠を求められないと論ずる。そして、内閣法制局もその根拠を示しておらず、「行使」の禁止は政策上のものに過ぎないと主張する[ix]。この議論をする際、村瀬は大石真の論文の参照を求めているので、次に大石の議論をみてみたい。

大石は、「今日、おそらく一番広く読まれているだろう代表的な憲法書」として芦部信喜の『憲法』取り上げ、そこには、「自衛権には、個別的自衛権と国連憲章で新しく認められた集団自衛権の二つがあるが、後者は、他国に対する武力攻撃を、自国の実体的権利が侵されなくても、平和と安全に関する一般的利益に基づいて援助するために防衛行動をとる権利であり、日本国憲法の下では認められない。日米安保条約の定め相互防衛の体制も、日本国の個別的自衛権の範囲内のものだ、と政府は説いてきている」とある。ここに言及された政府の見解を考えるとき、内閣の補助機関として法令審査事務のほかに意見事務を担っている内閣法制局がどのような憲法解釈を示しているかは、既に示したように決定的に重要であるが、集団的自衛権と憲法の関係を論じた内閣答弁書は次のような述べている。

「政府としては、従来から、憲法第9条は、外部からの武力攻撃によって国民の生命や身体が危険にさらされるような場合にこれを排除するために必要最小限度の範囲で実力を行使することまでは禁じていないと解しており、他方、集団的自衛権とは、国際法上、一般に、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止することが正当化される権利と解されており、その行使は憲法上許されないと解してきたところである[x]」。

これに沿って形で防衛白書が記述されていることは、改めて言うまでもない[xi]。この後に、「個別具体的な類型に即し、集団的自衛権の問題を含めた、憲法との関係の整理につき研究を行うため、内閣総理大臣の下に『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会』を開催することとした」旨も記されているが、ここに注意すべきは、内閣法制局の立論が前記学説のように、集団的自衛権は「日本国憲法の下では認められない」とする立場とは異なり、その権利を前提としつつ「その行使は憲法上許されない」とする点である。この点については、防衛法制専門家から、「我が国は憲法上、集団的自衛権を有するか」という「最も重要、かつ根源的な性格」を持つ問いに対する吟味を内閣法制局はしていない、「なぜ最重要論点をバイパスするのか」という手厳しい批判が寄せられている[xii]

芦部の教科書において「根拠が説かれていない」ことには十分な理由があると思われる。芦部は、日本国憲法も国連憲章第51条の認める個別的自衛権までも放棄したわけではない述べつつも、92項の「戦力」解釈との関係で、いわゆる「武力なき自衛権論」をとるとこを明言している。「武力なき自衛権論」とは、芦部によれば、「自衛権はあるといっても、その自衛権は、外交交渉による侵害の未然回避、警察力による侵害の排除、民衆が武器をもって対抗する群民蜂起、などによって行使されるものにとどまる[xiii]。このような「武力なき自衛権」の考え方を集団自衛権にまで拡張することは全く無意味である。ならば、日本国憲法の下で集団的自衛権が認められないのは、芦部においては当然の帰結だったと解される。

山内も述べるとおり、憲法に集団的自衛権を明示的に否認した規定が見当たらないのは、わざわざ規定するまでもないからである[xiv]。同様に、非武装平和主義解釈をとる憲法学者が教科書レベルの記述において集団的自衛権の違憲性について十分な説明をしないのは、わざわざ説明するまでもないからであろう。

他方、政府解釈が根拠薄弱にみえるのは、浦田も指摘するとおり、「全体として憲法9条の規範内容や積極的意義を説明しないまま、一方で憲法第9条によって自衛力がどのように制約を受けているかを論じている」からであろう[xv]。そのため、政府解釈を擁護する場合でも、第9条の規範内容や積極的意義を説明しておきさえすれば、「政府の憲法解釈は非常にシンプルである」と断言することは可能である[xvi]

以上の考察をまとめてみよう。非武装平和主義解釈をとる憲法学説は(教科書レベルでは特に)集団的自衛権の違憲性については十分な説明しない。他方、政府解釈は第9条の規範内容や積極的意義への言及を欠いたまま、自衛隊の海外派遣を含む第9条との整合性が疑わしい軍事法制の展開を精緻な議論で正当化するため、その根拠はますます不明確になる。「政府解釈は根拠薄弱である」、学説の説明も不十分である」論法は、このような「憲法学説と政府解釈の狭間」を問題化することで、集団的自衛権行使の解禁に道筋をつけようとする論議であると評価できる。

 2.1.2. 9条の法規範性

そもそも憲法第9条は裁判規範たり得るか、すなわち、「第9条の法規範性」(裁判規範性)の問題について触れておくことにする。このような第9条の法規範性については、ほとんどの学説はこれを肯定する。しかしながら、一部に、これに疑問を呈する者もあり、これは以下の2説に分けられる。

⒜第9条は「政治的マニュフェスト」であるとする(政治的マニュフェスト説)。具体的には、「国の進むべき基本的政策、直ちには実現することのできない理想をかかげる」ものであり、「侵略戦争を再びすべからずという、国民に呼びかけた宣言であり、国外にたいしては、」「各国とも戦争を放棄し、非武装でいくことが、世界平和の実現への唯一の途であるということを示す世界的宣言」であるが、「政府を拘束する意味の規範としては、第二項の規定は、潜在的な自衛権」という「不文の基本原理」の前に「姿を消すことになる」とする[xvii]

⒝第9条は「政治的規範」であるとする(政治的規範説)。具体的には、「高度の政治判断を伴う理想がこめられた9条は、裁判規範としての性格がきわめて希薄であり」、「結局、九条は、国の政治過程に向けられ、主権者である国民の政治意思の決定の基礎となる規範としての性格が強く」、すなわち、9条は「政治規範」として、「民主主義の政治過程において拘束力をもち、法令や政府の行為が9条違反か否かは、主として、国会、選挙その他政治的な場において検討され決定される」ものであるとする[xviii]

  さらに、つぎのような説もある。すなわち、⒞憲法制定後の事情の変化により9条の意味が変わった、すなわち、9条について「憲法の変遷」があったとする(9条変遷論)。具体的には、憲法制定後の「国際情勢および我が国の国際的地位」や「国民の規範意識」の著しい変化により、「9条の意味の変遷を認めざるを得ず」、「憲法規範もまた人類の社会生活の規範の一つであるから、事実の世界を無視して文字のみを解釈すべきではない」とする[xix]

 2.2.    日米安保条約と集団的自衛権

従来、政策的とはいえ、憲法第9条の下では個別的自衛権しか認められないということを日本国政府自ら前提としてきたために、日米安保条約における共同防衛の法的根拠についても、日本国側の個別的自衛権と米国の集団的自衛権との同時行使といった不均衡な形でこれを説明せざるを得なかったし、同条約の下での具体的な支援の在り方についても、非戦闘地域、後方支援などの概念の援用によって米軍の武力行使と「一体化」してとらえられないよう努めてきた。もとよりこれらは、それぞれの時代における具体的な国際環境と政治状況の下で、憲法の理念と日米安保体制との整合性を確保しようという努力の結果でもあった。しかし、今日においては、次第にこうした規制が、現実との乖離の前に、再検討を迫られる状況に立ち至ってきているようにも思われる。

2.2.1 想定事例

⑴平時の共同軍事訓練において、米軍艦船への攻撃があった場合、日本国の海上自衛隊がこれに対する防護措置をとることができるか。このような場合、公海上での軍事訓練は、公海自由に関する他国権利に妥当な考慮を払い(国連海洋法条約第872項)、通常、特定された訓練水域・時間帯等を関係国に通知して行うことになっている[xx]、訓練水域内・時間帯内に攻撃が行われる場合には、複数の参加国による個別的自衛権の共同・同時行使で対応が可能と考えられるからである。

⑵平時ないし周辺事態において、弾道ミサイル警戒のため展開中の米軍艦船に対し攻撃があった場合、これについて日本国が防護措置をとることは、法的どのような評価されるか。仮に米イージス艦が国籍不明の潜水艦によって攻撃を受けた場合、これに対する日本国の反撃行動は、日本国本土の防衛目的展開として個別的自衛権で説明するか、それとも米国の防衛のためとして集団的自衛権で説明する必要がある。

⑶周辺事態における米軍艦船への攻撃に対する防護の場合はどうような措置を取るか。政府の答弁は「理論的には、我が国に対する組織的・計画的な武力の行使と認定されるかどうかという問題」であって、「我が国領域外における特定の事例が我が国に対する武力攻撃に該当するかどうかにつきましては、個別の状況に応じて十分慎重に検討すべきものであると考えております[xxi]」となっている。

⑷周辺事態・後方地域支援における米軍艦船への攻撃に対する防護について、政府の答弁は我が国武力行使するという状況はあり得ないので、我が国が集団的自衛権を行使するに至る可能性はない、という回答をし[xxii]。しかるに、近年においては日本国本土に対する事態が発生していない段階で、公海において米艦が攻撃された場合、どんな手段をとるか政府の答弁は変化しつつある[xxiii]

⑸武力攻撃に近接した事態における米軍艦船への攻撃に対する防護については、政府は明確に、武力攻撃が、「我が国に対する組織的・計画的な武力の行使と認定される場合には」、共同対処の一環として米艦防衛をすることもあり得ると答弁している。しかし、この場合も、集団的自衛権ではなく、組織性・計画性を基準として、あくまでも個別的自衛権での対応が可能、というのは政府の立場である[xxiv]

 

以上のような事例を想定し、以下の図表に表す。

 1:事例想定、個別的自衛権と集団的自衛権の関係

事例想定

個別的自衛権

集団的自衛権

平時共同軍事訓練おける米軍艦船への攻撃

平時訓練ないし周辺事態おける米軍艦船への攻撃

周辺事態における米軍艦船への攻撃

周辺事態・後方地域支援における米軍艦船への攻撃

武力攻撃に近接した事態における米軍艦船への攻撃

:可。

:ケースByケース、個別的自衛権と集団的自衛権の間。

:組織的計画的な武力の行使と認定される場合。

✖:不可。

(出所:筆者作成。)

 2.2.2 弾道ミサイル防衛

日本国は、2003年、弾頭ミサイル防衛システムの整備等に関する基本政策を策定し[xxv]2005年、弾頭ミサイル等の破壊装置につき自衛隊法を改正して第82条の2を追加した。しかるに、日本国の対応装置としては規定された内容は、個別的自衛権でさえない。すなわち、自衛隊法第82条の2の規定[xxvi]によれば、①その発動要件は、弾頭ミサイルなどの飛来のおそれ、及び、国民の生命財産保護の必要性が認められる場合であり、②発動対象は、該当ミサイル等が「我が国に向けて」、かつ「現に」飛来するとき、そして、③措置をとる場所は、我が国領域又は公海の上空とされる。

詳しく見れば、この規定の下でとられる措置は2段階に区分されている。第1段階は、飛来するミサイルが、事故や誤射、あるいは人工衛星打ち上げ等の可能性もあって、日本国に対する武力攻撃か否かの判断が困難であるため、自衛権行使としてではなく、国民の生命財産の保護及び公安秩序維持の観点からの「警察権の行使」(海上警備行動や対領空措置[xxvii]に類似)として、とりあえず、ミサイルの空中爆発措置をとるというものである。第2段階で、当該ミサイルが日本国に対する武力攻撃であることが認められたとき、はじめて「防衛出動」の枠組みで自衛権行使に切り替えるということになるという[xxviii]

日本国では、個別的自衛権のみが行使可能ということになっているから、自衛隊法第82条の2でも当該ミサイル等「我が国に向けて」、かつ、「現に」飛来するときのみ、これに対応するということになっている。また、これを迎撃して撃ち落とすのは、日本国の領域上空(領空)又は公海(排他的経済水域を含む)上空であって、相手国領域内の基地に対して直接攻撃を加えることは、一切考えていないとされる[xxix]。ミサイル発射の段階では、当該ミサイルがどこに向けて発射されようとしているのが判断できないから、個別的自衛権の範囲を超えるものと認められる。また、他国に向けて発射されるミサイル等について、我が国に飛来する蓋然性がない場合には、日本国の自衛隊がこれを撃ち落とすということは、集団的自衛権の行使となるため、もとよりこれは考えてないとされる[xxx]

日本国近隣の国(たとえ北朝鮮を想定)から発射された弾頭ミサイルが、日本国以外の国に向けられたものである場合には、日本国の領空を通過せず(領空と大気圏外の境については、国連宇宙平和利用委員会法律小委員会等で審議が継続しているもののいまだ国際的な合意に達していないが、おおむね上空100kmから150kmと考えられる[xxxi])、例えばグアム向けの弾頭ミサイルの場合は、日本国上空とはいえ、高度700km以上の大気圏外を飛行するものと考えられるので、緊急避難(すなわち自衛隊法82条の2による警察権)の措置はもとよりそこまで及び得ないし、個別的自衛権でもそれに対する対応は不可能である。

したがって、日本国以外の国へ向けてミサイル等が発射された場合にこれらを阻止しようとすれば、結局のところ、集団的自衛権によらざるを得ないであろう。すなわち、①米国向け(特に日本国「上空」を飛行するグアム、ハワイ向け)の弾頭ミサイルの場合、同盟国としてそれを阻止することは必要かつ技術的に可能であるならば(現在はその能力を具備していないが)、集団的自衛権の行使として対応すべきであろう。②その他の国(豪州などの友好国)に向けて発射された場合は、集団自衛権の発動には、事前の「要請」が必要ということになろう(包括的な要請でもよい)。これらに対して、③発射された弾頭ミサイルの目標が不明な場合は、そもそも集団自衛権発動の対象とはならないものと思われる。

 2.3. 自衛隊の海外派遣に関する論争

第二次世界大戦終了後まもなく始まり、20世紀後半の国際政治の基本的な枠組みとなった東西冷戦構造が、1989年崩壊し始めたことを契機として、国連の役割が大きく変化するようになった。世界各地で発生する地域紛争などの解決に、国連が中心的な役割を担うようになり、それとともに各国連加盟国が国連の平和維持活動(PKO)などに積極的に参加することが求められるようになってきた。日本国においても、憲法9条との関係での激しい議論があったが、平成4年(1992)年には、自衛隊法の改正、ならびに「国連平和維持活動等に対する協力に関する法律」(PKO法)の制定が実現した。こうした自衛隊の国連協力といった問題について、憲法との関係ではどのように考えるべきであろうか。日本国憲法の制定当時、わが国民は敗戦後の焦土の上で「憲法よりメシ」を求めてその日その日を懸命に生きていたのであり、そのような時代にあっては、再軍備・国連加盟・経済大国といったその後の日本の成長は夢想だにできないことであった。日本国憲法前文において日本国は国際社会において「名誉ある地位を占めたい」(全文第二段)と願ったのは、国連のつくる当時の国際社会において民主主義という価値観を共有する国家として国際社会の承認をえること、すなわち国際連合に加盟が認められる国家となること、という程度のことであった。日本が積極的にPKOに参加することが「名誉ある地位」を占めることである、といった主張がなされる時代の到来を誰が予想しえたであろうか。もとより憲法の予想するところでなかったことは言うまでもない[xxxii]

同法成立の際には、PKOお業務の性質によって武力行使を伴う場合がありうることが問題となった[xxxiii]。そのため、PKOに参加した自衛隊が身を守るために行う「武器使用」が、「武力行使」にあたらないかということが論争の焦点となった。しかし、憲法第9条が禁じているのは、個別国家としての日本国による「国際紛争を解決する手段として」の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」であって、国連等が国際平和の回復・維持のために行う集団安全保障や国連PKOとは次元を異にするものであり、これへの参加は憲法で禁止されていないと考えるべきである。もとより、国連憲章が本来予定した、国連軍の創設を含む形での集団安全保障体制が実現しておらず、また、安保理決議に基づく平和活動にも種々の段階があり、それらが単なる個別国家の活動でないとしても、国連の関与の度合いに差があることも事実であるので、このような平和活動への参加については、個々の場合について政策的に慎重な検討が必要である。しかしながら、少なくとも、国連PKOの国際基準で認められた武器使用が国連憲章で禁止された「武力の行使」に当たると解釈している国はどこにもなく、したがって、自衛隊が国連PKOの一員として、駆け付け警護や妨害排除のために国際基準に従って行う武器使用は、憲法第9条の禁ずる武力行使に当たらないと解すべきである。

2001年に米国で発生した911同時多発テロに対し、NATOは集団的自衛権の発動を決議し、米英軍はアフガニスタン攻撃を開始した。日本国はテロ対策特別措置法を急遽成立させ、自衛隊をインド洋に派遣して米軍の後方支援にあたらせた。次いで2003年のイラク攻撃と占領に際しては、日本国はイラク復興支援特別措置法を制定して占領地に自衛隊を派遣した[xxxiv]。これらに対しては、安保条約や周辺事態法の枠を超えるものであり、国連決議に基づく後方支援または復興支援という形をとっているものの、実質的には「米国の軍事行動への支援協力」であるという批判がある[xxxv]

以上のように、PKO法の制定をめぐって揺れた湾岸戦争以後、第9条をめぐる憲法論議として、自衛隊の海外派遣の是非が大きくクローズアップされてきた。他方で、日本国の防衛という見地から既存の自衛隊や安保条約と憲法規範との整合性をいかに確保するかという問題は、厳然として残っている。国際平和と日本国民の安全に寄与するための海外派遣と、日本国と国民を守る自衛ということとは、本来区別されるべきものである。その二つが不可分のように議論されるのは、政策的に自衛隊と日米協力体制がその各々に密接不可分に関わっているからであろう。

 3.結び

21世紀における安全保障の特色として、核兵器などの大量破壊兵器やミサイルの拡散・移転、国際テロリストのネットワーク化など、脅威は多様化、複雑化してきていることを指摘することができる。そして、これらの新たな脅威に対して、国際社会が共同して対応している。日本国憲法ができた65年前の状況とは一変している。日本国自身も大きく変わり、それを伴う責任と役割を国際社会で果さなければならない。従来のいわば消極的平和主義観から脱して、積極的な平和主義観を形成しなければならない。ここでいう積極的平和主義観というのは、国際的な平和構築のためには傍観者になっていてはいけないということである。まず日本国憲法の許容する範囲内ででき得ることを行うということである。

新テロ対策特措法を延長してインド洋での給油活動を継続させるべきでするし、自衛隊の海外派遣については、一般法(恒久法)の制定を急ぐべきである。国際社会での平和協力活動は自衛権とは違う次元の話である。集団安全保障体制のなかで考えていくべき問題である。その意味で、自衛隊が国連平和維持活動(PKO)に参加するならば、国際基準に従って行動していくことが求められる。現行法では、自衛官の武器の使用は、自己の管理下に入った人の生命・身体を防衛する場合に限定されている。国際基準では可能とされている任務遂行妨害者に対する武器の使用は認められていない。その他、政府向きの解釈によって、二重、三重の制約が付さており、自衛隊には十分な平和協力活動が期待できない。従来の政府答弁は、多分に、冷戦期の状況や思考を前提として、集団的自衛権行使容認や国際平和活動への関与により、日本国が他国間の武力衝突に巻き込まれる危険性を回避しようとしたものと考えられ、政府としても自らと慎重にならざるを得なかったことは理解できる。しかしその後、政府の答弁は国際関係の変化に対応できないまま、内容的にも多くの矛盾を抱えて、既に破綻していると言うほかない。政府解釈の見直しが求められる所以がここにもある。

しかし言うまでもなく、日本国の安全保障をめぐる状況には、従来の議論の前提とは大きな隔たりが生じてきている。冷戦終結後の現代においては、少なくとも次の三点において、国際情勢に根本的な変化が見られる。第一には、弾道ミサイルや国際テロリズムのような新たな脅威が出現してきたこと、第二には、国連の集団安全保障がその機能を回復し、安保理による多国籍軍の容認やPKO活動の多機能化大規模化という大変容を遂げてきていること、そして第三には、日本国の国際的地位と役割が飛躍的に増大していること、などである。こうした歴史の変化を真正面から受け止めつつ、日本国と世界の安全保障の問題を主体的に検討することこそ、今日の政府、国家のみならず、国民全体突きつけられている契緊の課題である。



[i]高橋和之(2004)「憲法9条の過去・現在・未来」、ジュリスト1260号、p.15

[ii]村瀬信也(2002)「国際立法国際法の法源論」、東信堂、pp.129—140

[iii]自衛権と憲法9条の関係に関し、憲法制定期における吉田総理の答弁は、一般的に自衛権否認を示唆させるような内容であった。すなわち、「戦争放棄に関する本条の規定は、直接には自衛権を否定はして居りませんぬが第9条第2項に於て一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛隊の発動としての戦争も又交戦権も放棄したものであります」【昭和21626日衆議院本会議吉田茂総理答弁】。「国家正当防衛権に依る戦争は正当なりとせらるるやうであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思ふのであります。……近年の戦争は多くは国家防衛権の名に於て行はれたることは顕著なる事実であります、故に正当防衛権を認むることが隅々戦争を誘発する所在であると思ふのであります」【昭和21628日衆議院本会議吉田茂総理答弁】。もっとも、この答弁はその後、事実上修正される。すなわち、「[昭和21628日に答弁で]、しばしば自衛隊権の名前でもって戦争が行われるということは申したと思いますが、自衛権を否認したというような非常識なことはないと思います」【昭和261018日衆議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会吉田茂総理答弁】。苟も国家である以上は、独立を回復した以上は自衛権はこれに伴って存するものである」【昭和25131日参議院本会議吉田茂総理答弁】。日本国が占領下にあった時期と、主権国家として独立を回復した時期とでは、事情が根本的に変化したと考えられ、政府答弁の変更は妥当なものであったと思われる。安保条約改定期において、岸総理は、集団的自衛権につき、「本体」部分とその他の部分に区分した上で、次のように述べている。「いわゆる集団自衛権というものの本体として考えられておる締約国や、特別に密接な関係にある国が武力攻撃をされた場合に、その国まで出かけて行ってその国を防衛するという意味におけるとう……集団的自衛権は、日本国憲法上は、持っていない」【昭和35331日参議院予算委員会岸信介総理答弁】。「要するに外国の領土において外国を援助する、……武力行動を外国においてやる、そういう意味のいわゆる集団的自衛権の行使、これは日本国憲法にいう自衛権の範囲に入らないということである」【昭和34316日参議院予算委員会林修三法制局長官答弁】。このように、集団的自衛権の下で、自衛隊の「海外派兵」を行わないということは、この時期において明確化されている。しかし、若干の曖昧さを残しつつも、それ以外の集団的自衛権の行使は憲法に違反しない限り許容されるというが、政府の立場であったと思われる。阪口規純(1996)「集団的自衛権に関する政府解釈の形成と展開サンフランシスコ講和から湾岸戦争まで()()」外交時報1330号、pp.70—981331号、pp.79—99

[iv]水口議員の議論は次のような要約される。第1に、高島外務省条約局長は集団的自衛権は権利として保有しているが行使できないだけだと言い、真田内閣法制局第一部長は憲法解釈上から行使できないという。前者は政策論で後者は憲法論であり、政府の立場がどちらなのか曖昧である。第2に、個別的自衛権と集団的自衛権との間に自衛権としての差異はないはずであるから、個別的自衛権で武力行使できるなら集団的自衛権でも武力行使ができるはずであり、固有の権利を憲法解釈論で行使しないのならそれは政策論との混同である。第3、集団的自衛権が憲法で禁じられているのなら、なぜサンフランシスコ平和条約や日米安保条約、日ソ共同宣言でこの権利を確認したのか、むしろこの権利を持たないと明記すべきではなかったが、等である。これに対する政府側の答弁は、高島真田両政府委員の間で歩み寄りが見られるが、依然として強調点の差は残されている。【昭和47512日参議院内閣委員会江崎真澄防衛庁長官、高島益郎外務省条約局長、真田秀夫内閣法制局第一部長の各答弁】。水口議員は、その後、518日及び914(参議院決算委員会)でも同様の質問を行っている(本間剛「集団的自衛権にかんする現政府解釈の成立経緯とその影響」東京大学大学院公共政策専修コース研究年報「20023月修了」「http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~jjweb/research/MAR2002/ honma_tsuyoshi.htm参照」。本間氏は、高島外務省条約局長が19725月の国会審議において、それまでの政策説の立場を放棄したとしているが、必ずしもその根拠は議事録に見いだせないし、その後政府が10月に発表した「資料」は、政策説の見解を依然として部分的に受容している。なお、水口議員は質疑中しばしば、彼が属する社会党に見解として、憲法は自衛権をすべて個別的自衛権も集団的自衛権も含めて認めているが、「それを武力で行使することは認められない」との立場表明している。これはいかにも観念的な見解であり、解釈技法として有効性原則(条文は「有意味に」解釈すべし)に反しよう。さすがに今日では「武力なき自衛権」(武力攻撃には外交手段で反撃する)などといった議論をする人は圧倒的少数になったように思われる。

[v]参議院決算委員会提出資料(昭和471014)。阪口前揭注()pp.89—91等参照。なお、浦田一郎「政府の集団的自衛権論̶その射程と限界」杉原泰夫先生古稀記念 (2000)21世紀立憲主義現代憲法の歴史と課題』勁草書房、pp.249-266は、政府の見解を簡便な内閣法制局編『国会答弁抄』でのみフォローしている(他は『防衛白書』等)ためか、注4で示したような政府見解が形成される過程を看過している。やはり国会議事録に直接当たって調べるべきであろう。

[vi]「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているものとされる。我が国が、国際法上、このような集団自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている。」【稲葉誠一衆議院委員の「憲法、国際法と集団的自衛権に関する質問主意書」に対する】【昭和56529日付け政府答弁書】。なお、この答弁書で政府が集団的自衛権の行使が許容されない理由を「必要最小限度の範囲を超える」という「数量概念」で説明しようとしたことは、行使の「態様」と「限度」の問題を混同しており、論理的には我が国の防衛にとって「必要最小限度」であれば集団的自衛権の行使も許容されることなるなど、矛盾が露呈している。佐瀬昌盛(2001) 『集団的自衛権 ̶̶論争のために』、PHP研究所、pp.124—210

[vii]大石真(2007)「日本国憲法と集団自衛権」ジュリスト1343号、p.42

[viii]浦田一郎(2001)「国会に役割に期待すべきか」浦田賢治ほか編『いま日本国の法は̶君たちはどう学ぶか[3]』日本国評論社、pp.182—183

[ix]村瀬信也(2008)「安全保障に関する国際法と日本法()—集団的自衛権および国際平和活動の文脈で」ジュリスト1349号、p.95

[x]平成19424日鈴木宗男議員が提出した「自衛権に関する質問主意書」に対する511日付け内閣答弁書。

[xi]参照、防衛省編(2007)『平成19年版日本の防衛』、p.93

[xii]参照、佐瀬、p.178

[xiii]芦部前注、PP.59~61

[xiv]山内敏弘、太田一男(1998)『憲法と平和主義』、法律文化社、pp.64—65

[xv]浦田一郎(2004)「戦後憲法政治における9条の意義」ジュリスト1260号、p.51

[xvi]阪田雅裕(2007)「集団的自衛権の行使はなぜ許されないのか」世界、9月号、pp.41—42

[xvii]高柳賢三(1963)『天皇憲法9条』、有紀書房、pp.84—88

[xviii]伊藤正己(1995)『憲法(3)』、弘文堂、p.169

[xix]橋本公旦(1980)『日本国憲法』、有斐閣、p.431

[xx] Churchill&LoweThe Law of the Sea 3rd.ed.Manchester University Press1999p.206、通報された共同訓練水域は「客観的制度」(objective regime)の一種としてとらえられることから、何らの国の艦船が攻撃されようと、その攻撃が参加各国に対する攻撃とみなして、それぞれ個別的自衛権を発動することが可能な状況と考えられる。

[xxi]【平成15516日衆議院安全保障委員会・福田康夫内閣官房長官答弁】。

[xxii]「後方地域を申しますのは、[新ガイドライン]法案ではっきりと定義しておりますように、『我が国領域並びに現に戦闘行為が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる我が国周辺の公海及びその上空の範囲』、こういうことでございますので、そういう後方地域内で行われるということであり、しかも事態は刻々と変化するわけではございますけれども、それに対応して実施区域の指定の変更とか活動の中断、一時休止についても規定している。したがいまして、そういう意味における後方地域内においてのみ行うということが現実にも確保、担保される仕組みになっている。このような仕組みのもとにおける後方地域支援と申しますのは、米軍の武力行使との一体化の問題を一般的に生ずるものではないということでございます。そういうことになりますと、我が国が武力を行使して武力攻撃を阻止するという部分が生ずる余地がないわけでございますから、我が国が集団的自衛権を行使するに至るという心配は一切生じないということは、これは詳しく説明すればだれでもおわかりいただけることではなかろうかと思う次第でございます。」【平成115 11日日米防衛協力のための指針に関する特別委員会・大森政輔内閣法制局長官答弁】。

[xxiii]日本の艦艇と米国の艦艇、これがもし米国の艦艇が攻撃をされたのが我が国の領海であれば、これは我が国に対する事態でありますから共同対処をします。しかし、これが公海である場合は、これはなかなか判断が分かれる。根っこから絶対にそれはできないということを今までの法制局も言っていないわけでありますが、それは非常に厳密に峻別されます。もちろん、我が国に対する事態が起こった後であれば、公海において米艦が攻撃をされた場合は我が国に対する事態としての個別的自衛権の延長線上で行きます。しかし、我が国に対する事態が起こっていない中でそういうことが起こったことがあったらどうかと。これは先ほどの久間大臣の例で言えば、友人と歩いているときに友人が殴られたのが私の家の中であればすぐ助けると。しかし、玄関から出たら、これはちょっとできませんねということになるわけでありまして、そこで果たして友情関係というのが保てるか。つまり、同盟関係というのは信頼関係であります。例えば、安保条約の五条に共同対処義務があるということを、それは確かにあるわけでありますが、しかし、ここはやはり、米国の若い兵士が日本のために身を挺して、これは日本のために戦うということになるわけでありまして、その基盤はやはり信頼関係がなければならないという中にあって、また、我が国のつまり安全のためにどうかと。つまり、それは先ほど申し上げました、久間大臣がおっしゃった個別的自衛権と集団的自衛権の間にあるものについて、いろいろと個別的なケースを当てはめていくことができるのではないかということを私は問題意識としてずっと持っていたわけであります。【平成181011日参議院予算委員会・安倍晋三総理答弁】。

[xxiv]「これは具体の状況により判断されるべきものと思いますけれども、お尋ねのような、我が国に来援のために向かっている米軍が公海上で攻撃を受けたという場合に、我が国としてどのような対応ができるかという問題は、そのような攻撃が自衛権発動の要件のうち、我が国に対する武力攻撃の発生に該当するかどうかということで決まるわけでございます。それで、理論的にはこれが我が国に対する組織的、計画的な武力の行使と認定されるかどうかという問題でございまして、個別の事実関係において十分慎重に判断すべきものでありますが、仮に当該攻撃が我が国に対する武力攻撃に該当すると判断されるということも法理としては排除されないというのが政府の考え方でございます。この場合には、我が国として自衛権を発動して武力を行使し、我が国を防衛するための行為の一環として当該米艦の防衛をすることもあり得る、法理的にはあり得るものと考えます。」

(小泉親司議員「これは重大な答弁で、そうすると法制局長官、例えば武力攻撃予測事態になった。よろしいですか。そうすると、米軍支援法、円滑法が働く、米軍が来援してくる、その来援したものが公海上において攻撃を受けると。それが、例えば政府がこれは連関していると判断したら日米共同対処をする、つまり個別的自衛権の対象として日本国の自衛隊が米艦を守ることがある、こういう見解なんですか。これは重大ですよ。」

「この点は繰り返しの答弁になって恐縮でございますけれども、結局は、その攻撃が我が国に対する組織的·計画的な武力の行使と認定されるかどうかという問題でございまして、そういうような認定をされました場合においては共同対処の一環として当該米軍の艦船を防衛することもあり得るということでございます。ただ、これにつきましては個別の事実関係において十分慎重に判断されるべきものであると考えるというのが政府の従来の考え方でございます。」

「いわゆる武力攻撃事態法の審議の過程におきまして、質問主意書に対するお答えとかあるいは委員会におけるお答えとかで申し上げてきたことと同様のことを今申し上げたわけでございます。それで、言うまでもなく、一般論として申し上げますれば、自衛権の発動の要件を満たしていない場合には我が国としては武力の行使はできないと、それから他方、我が国として自衛権発動の要件を満たしている場合には自衛権を発動して米軍と共同対処ができるというその原理を申し上げているだけでございます。」

(小泉親司議員「じゃ、武力攻撃予測事態でも同じようなことがあるんですか。」「予測事態と認定されているか否かを問わず、我が国来援のために向かっている米軍の艦船が公海上で攻撃受けた場合、これが我が国に対する武力攻撃の発生であると認定される場合には、法理として自衛権の発動をすることは排除されないということを申し上げているわけでございます。」【平成16610日参議院イラク人道復興支援活動等及び武力攻撃事態等への対処に関する特別委員会・秋山収内閣法制局長官答弁】。

[xxv]平成151219日安全保障会議及び閣議決定「弾頭ミサイル防衛システムの整備等について」では、「弾頭ミサイル攻撃に対して日本国国民の生命財産を守るための純粋に防御的な、かつ、他に代替手段のない唯一の手段であり、専守防衛を旨とする日本国の防衛政策にふさわしいもの」と位置付づけられている。

[xxvi]自衛隊法82条の2(平成17年追加)1項は、弾頭ミサイル等が、我が国に飛来するおそれがあり、我が国領域の人命財産への被害を防止するため必要があると認めるとき、「我が国に向けて現に飛来する弾頭ミサイル等を我が国領域又は公海…….の上空において破壊する措置をとる」と規定する。

[xxvii]田中石城(1997) 『スクランブル̶警告射撃を実施せよ』、かや書房、p.113。我が国ではロケットの突入にスクランブルをかけた例として1980年代末又は1990年代初めに少なくとも一例知られている。これは打上げ失敗のロケット本体又はブースターの燃え殻が日本国領空に入り(高度7ft、大気圏内)、自衛隊法の対領空侵犯措置の条項を根拠として第2航空団(千歳基地)戦闘機がスクランブルをかけたもの。戦闘機を追いつけず途中で断念したとされている。(本書は戦闘機搭乗員回顧録)

[xxviii] (ミサイルが日本国に向けて発射された場合)「そのような場合には(警察権の行使ととらえて)まず撃ち落とす、撃ち落とした後、そういう武力攻撃に対する自衛権の行使ということで、安保会議あるいは閣議を経て、あるいは国会の承認を経てという防衛出動ということになろうかと思います」【平成17325日衆議院安全保障委員会大野功統防衛庁長官答弁】。

[xxix]御巫智洋(2007)『自衛権と弾頭ミサイル防衛の法的根拠』村瀬編、東信堂、pp.101~102

[xxx]弾道ミサイルの発射後において、この武力攻撃が我が国に対するものであることがいまだ確定していない段階での対処についても、我が国を標的として飛来してくる蓋然性について相当の根拠があるという場合には、自衛権発動によってこれを迎撃することも許されるという答弁をいたしております。大陸間弾道弾というものを考えてみましたときに、これは、例えば地球儀を前に考えてみますと、それが我が国上空を通過するということは余りないのだろうと思っております。我が国を通過する、もうこれは実際論としてそういうことになるわけでございますが、蓋然性がない、我が国に飛来する蓋然性がないという場合には、先ほど申し上げました政府のお答えの逆のお話になるだろうと思っております。それは、政策論の当否は別にいたしまして、これは我が国としては、集団的自衛権は行使できないという立場をとっております。【平成15716日衆議院イラク人道復興支援並びに国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動等に関する特別委員会弁書石破茂防衛庁長官答弁】。

[xxxi] (加藤シヅエ議員による宇宙空間の範囲に関する質問について)「大体の概念といたしましては、これは宇宙空間というのは非常に最近の概念でございますので、法律上、地球から何キロ離れたところから宇宙空間であるというふうなことまでは申し得ませんけれども、大体人工衛星が地球の引力を離れて大気圏外に出てそこで飛行し得る部分の範囲のところは、明らかに宇宙空間、したがって、人工衛星も空気による摩擦のために燃えてしまうというふうなそういうところはつまり空気がある、つまり領空であるというふうな大体の概念がございます。ただし、従来80キロないし100キロと申しております。」【昭和42718日参議院外務委員会高島外務省条約局長答弁】日本国の政府の立場は、その後もこの答弁から変更はないものと思われる。

[xxxii]小林昭三(2009)『日本国憲法講義憲法政治学からの接近』成文堂、pp.54—55

[xxxiii]政府はすでに昭和55年、PKOとして編成された「国連軍」への参加に関する見解のなかで、その「目的任務が行使を伴うものであれば、自衛隊がこれに参加することは憲法上で許されない」。【昭和551028日衆議院議員稲葉誠一提出自衛隊の海外派兵日米安全保障の問題に関する質問に関する答弁書】。

[xxxiv]清水隆雄(2005)『シリーズ憲法論争7「自衛隊の海外派遣」』、国立国会図書館調査及び立法考査局、pp.12

[xxxv]松田竹男(2004.6)「自衛隊のイラク派兵と国際法」、法律時報、76(7)p.47

 

[引用・参考文献]

[01] 高柳賢三、『天皇憲法9条』、1963、有紀書房。

[02] 橋本公旦、『日本国憲法』、1980、有斐閣。

[03] 佐藤功、『日本国憲法解説[前訂第4]』、1991、学陽書房。

[04] 芦部信喜、『憲法学I憲法総論』、1992、有斐閣。

[05] 伊藤正己、『憲法(3)』、1995、弘文堂。

[06] 阪口規純、「集団的自衛権に関する政府解釈の形成と展開サンフランシスコ講和から湾岸戦争まで ()()」、1996、外交時報1330号。

[07] 田中石城、『スクランブル警告射撃を実施せよ』、1997、かや書房。

[08] 山内敏弘、太田一男『憲法と平和主義』、1998、法律文化社。

[09] 佐瀬昌盛、『集団的自衛権論争のために』、2001PHP研究所。

[10] 浦田一郎、「国会に役割に期待すべきか」浦田賢治ほか編『いま日本国の法は̶̶君たちはどう学ぶか [3]』、2001、日本国評論社。

[11] 村瀬信也、『国際立法国際法の法源論』、2002、東信堂。

[12] 高橋和之、『憲法9条の過去・現在・未来』、2004、ジュリスト1260号。

[13] 松田竹男、「自衛隊のイラク派兵と国際法」2004、法律時報、76(7)

[14] 浦田一郎、「戦後憲法政治における9条の意義」、2004、ジュリスト1260号。

[15] 清水隆雄、『シリーズ憲法論争7「自衛隊の海外派遣」』、2005、国立国会図書館調査及び立法考査局。 [16] 大沼保昭、『国際条約集』、2005、有斐閣。

[17] 高橋和之、『立憲主義と日本国憲法』、2005、有斐閣。

[18] 大石真、「日本国憲法と集団自衛権」、2007、ジュリスト1343号。

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[20] 阪田雅裕、「集団的自衛権の行使はなぜ許されないのか」、2007、世界、9月号。

[21] 御巫智洋、『自衛権と弾頭ミサイル防衛の法的根拠』、2007、村瀬編、東信堂。

[22] 村瀬信也、「安全保障に関する国際法と日本法()—集団的自衛権および国際平和活動の文脈で」、2008、ジュリスト1349号。

[23] 長谷部恭男、『憲法[4]』、2008、新世社。

[24] 小林昭三、『日本国憲法講義憲法政治学からの接近』、2009、成文堂。

[25] Churchill&Lowe1999The Law of the Sea 3rd.ed.Manchester University Press.

 

[参考URL]

[1] 防衛省HPデータベース「防衛白書の検索」(http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_web/)

[2] 国立国会図書館HP国会会議録データベースシステム(http://kokkai.ndl.go.jp/)

[3] 外務省記録公開文書検索(http://gaikokiroku.mofa.go.jp/)

 

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