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■台灣自古不屬中國 |
■歴史上、台湾は中国の属国ではない |
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編集:林茗顕(2004/12/20)
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訳者:瀧乃湯(2005/04/07)
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雍正元年,憲皇帝即位,詔曰:「台灣自古不屬中國,我皇考神武(即康熙帝)遠屆,拓入版圖。
--清‧魏源:【聖武紀略】的【康熙重定台灣記】
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雍正元年,憲皇帝が即位した。詔書にはこうある:「台湾は古来より中国に属したことはなかった。康熙帝の遠征により、ようやく版図に組み入れられた」
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自明朝以來,逋誅積寇,始克殄除。海外遐陬(指台灣),歷代未隸疆索,自茲初闢,悉入版圖。
--清‧施琅:【靖海紀事】的【封侯制誥】
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明朝以来海賊退治を重ね、ようやく海賊退治もめどが立った。台湾は歴代中国の図版に属したことはなかったが、これより全部図版に組み入れられた。
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臣竊見此地,自天地開闢以來,未入版圖。
--清‧施琅:【靖海紀事】的【壤地初闢疏】
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台湾は天地開闢以来、中国版図に組み込まれたことはなかった。
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台灣古無人知,明中葉乃知之。
--清‧藍鼎元:【鹿洲文集】的【平台紀略總錄】
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台湾は古くは誰も知るものはなかった。明中期にようやく中国で知られるようになった。
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台地宋、元之前,並無人知。至明中葉,太監王三保舟下西洋,遭風至此,始知有此一
地。
--清‧藍鼎元:【鹿洲文集】的【覆制軍台疆經理書】
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「台湾は宋、元以前には中国で知るものはなかった。明中期、航海に出た太監王三保が途中遭難し台湾に漂着したことで、ようやく中国でも知られるようになった。」
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1679年(康熙18年)清朝向鄭經提出最後的和談條件:台灣本非中國版籍,足下父子自闢荊榛,且睠懷勝國,未嘗如吳三桂之僭妄。本朝亦何惜海外一彈丸地。不聽田壯土逍遙其間乎。
--清‧魏源:【聖武紀略】的【康熙戡定台灣記】
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1679年、清朝は鄭氏政権の鄭経に最終的な講和条件を提示した:台湾は中国の版図外とする。鄭経父子…
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根據《大清一統志》(乾隆版),台灣自古以來,就是「荒服之地,不通中國」、明朝天啟中1621-27)為紅毛荷蘭夷人所據,屬於日本」。
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《大清一統志》(乾隆版)はこう言う。「台湾は太古の昔から「未開の地で、中国との交通手段はなかった」。明朝の時代(1621-27)オランダ人の占領するところとなり、その後日本(鄭氏?)に属することとなった」
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在1871年編纂的《重纂福建通志》,也持這種見解。清帝國第二代皇帝世宗,在1723年所頒發的詔書中,也說「台灣地方自古不屬中國,(清)皇考聖略神威,取入版圖」。
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1871年に編纂された「重纂福建通志」には、同様の見解がみられる。清朝の第2代皇帝世宗が1723年に発した詔書にこう記されている「台湾地方は古くから中国に属することはなかった。清朝の康熙帝の武略により、ようやく清の版図に入れられた」。
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蒙古帝國與明朝曾短期間佔有澎湖,也都放棄了它;明朝對荷蘭佔領臺灣的行為沒有異議。
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モンゴル帝国と明朝は短期間澎湖を占領したが、すぐ放棄してしまった。明朝はオランダの台湾占領に異議を唱えることはなかった。
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蒙古帝國在至元年間(元世祖1264-1294,或順帝1335-40)在澎湖置巡檢司,蒙古帝國在1367年敗亡。明朝在1372年(洪武五年)派遣部將湯信國進行海島攻略。可能在這一年占領澎湖島。湯信國以澎湖島民叛服無常,建議將他們遷往鄰近地區,於是,明朝便把澎湖所有住民強制移居中國大陸,並且廢止巡撿司,使澎湖成為廢墟,成為日本和明朝海盜的巢穴。
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モンゴル帝国(元朝:フビライ1264-1294、或順帝1335-40)は澎湖に巡検司を設置したが、モンゴル帝国は1367年に滅びてしまった。明朝は1372年部将湯信国を澎湖攻略に派遣した。澎湖の占領自体は1年以内に完了したが、島民の反乱は絶えることはなかった。そこで湯信国は島民の強制移住を具申し、明朝は澎湖の住民をすべて中国大陸に強制移住させ、巡検司も廃止してしまった。そのため澎湖は廃墟と化し、日本や明の海賊の巣となった。
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約在二世紀以後,1563年(明‧嘉靖四十三年)改置巡檢司。但不久,這也被裁撤。到了明末,澎湖也變成海盜的巢窟了。蒙古帝國與明朝雖都曾短期間佔有澎湖,也都放棄了它。直到17世紀鄭氏「東都」時代為止,臺灣與澎湖不是地理上的統一体,也非政治上的統一体。支那各王朝都是具「中原」心態、不重視航海的陸權封建王國,蒙古帝國和明朝都先後攻佔澎湖而非台灣,都證實大清帝國所說的「台灣古無人知,明中葉乃知之」、「台灣地方自古不屬中國」的論斷。
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それから2世紀後、1563年明朝は再度澎湖に巡検司を設置したが、またも撤退してしまった。そのため明朝末期には、澎湖はまたしても海賊の巣となった。モンゴルも明も短期間澎湖を占領したが、すぐ放棄してしまった。17世紀鄭氏政権による「東都」時代に至るまで、台灣と澎湖は地理的に一体化されてはいないし、ましてや政治的に一体化されたわけでもない。中国の各王朝は「中原」心理をもっていたので、大陸に権力基盤を置く封建国家となり、海洋進出をあまり考えなかった。モンゴル帝国も明朝も澎湖を攻略したが、台湾に遠征することはなかった。このことは、清朝時代の文書にある、「台湾は古代には知られておらず、明の中頃にようやく中国に知られるようになった。」「台湾地方は太古の昔から中国に属することはなかった」という記述に証明される。
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16世紀航行到東方的葡萄牙人發現這島嶼,驚嘆說:Ilha Formosa--美麗的島嶼。荷蘭在1622年(明,天啟二年)佔領澎湖。明朝對澎湖的統治消極,卻不容許他國占有,荷蘭因軍事上不利接受明朝要求,在1624退出澎湖,豋陸「台江」(今台南附近),佔領未入任何國家版圖的臺灣島。明朝對荷蘭佔領臺灣的行為沒有異議。
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16世紀に台湾東方を航行していたポルトガル人が台湾島を見て「Ilha Formosa--麗しの島よ」と称えた。1622年、オランダは澎湖を占領した。明朝は澎湖統治には消極的であったにもかからわず、澎湖が他国統治されるのを承認しなかった。オランダは軍事上不利だったこともあり、明朝の要求を受け入れ、1624年澎湖から撤退して台江(現在の台南)付近に上陸し、どの国家の版図にも入っていなかった台湾島を占領した。それに対し明朝は全く異議を唱えなかった。
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1630(?)年荷蘭人在「一鯤身」(現在的安平)建立熱蘭遮城(Zeelandia),在此設置臺灣政廳,派臺灣太守
(Governor and Director of the State of Tayouan and Formosa)。1652(?)年現今的台南建立赤崁城
(Provintia 或 Providentia),將政廳遷移到Provintia。
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1630?年オランダ人は一鯤身(現在の安平)にゼーランディア城を建設し、台湾政庁を設置して台湾総督を派遣した。1652年、オランダは現在の台南に赤崁城を建設して、台湾政庁を移転した。
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已佔菲律賓的西班牙人則佔領台灣北部,1626年西班牙人在雞籠(今基隆)社寮島(今和平島)構築聖薩爾瓦多城
(San Salvador),在此設置臺灣長官官署,置於馬尼拉總督的管轄之下,但其統治範圍只限於東北部的極小區域。
1629年在滬尾(今淡水)建立聖多明哥城(San Domingo)。1642年荷蘭人北征逐出西班牙人。
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フィリピンに進出していたスペイン人は、台湾北部を占領した。1626年、スペイン人は雞籠(現在の基隆)にある社寮島(現在の和平島)にサンサルバドル城を構築して、台湾長官事務所を設置しマニラ総督の管轄下においた。しかしその統治は、台湾北東部のごく狭い範囲に限られた。スペインはまた1629年滬尾(現在の淡水)にサンドミンゴ城を建設したが、1642年台湾南部からやってきたオランダ人により駆逐された。
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在臺灣,自從步入1910年代中葉以後,臺灣人的抗日運動,就由武力鬥爭轉向政冶運動,其中一派,即開始與中華民國部分的政冶家和民間人士聯絡。當時中華民國的一些政治家對抗日運動表示同情,並且支援這些抗日運動者。但是,即使是這些人,也未必有取回臺灣的念頭,反而是希望臺灣脫離日本帝國而獨立的。例如,國民黨的幹部戴天仇,雖然在黃埔軍官學校的演講中提到「臺灣民族為我等中國之民族,臺灣之領土亦即中國之領土」,但卻主張臺灣獨立。蔣介石任國民政府軍事委員會委員長,實際上成為 中華民國的最高權力者(制度上國家主席雖為林森,但林氏無權)之後,以及因918事變而成立滿州國後,始終都沒有與日本衝突的意思。
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台湾では、1910年代中頃より、台湾人の抗日運動は従来の武力闘争から政治運動へと中の一派は、中華民国の政治家や民間人と連絡を取り始めた。当時の中華民国の政治家の中には、台湾人の抗日運動に共鳴して支援する者も少数いた。しかし抗日運動を支援した政治家たちは、必ずしも台湾を中国に回復することを望んでいたのではなく、むしろ台湾が日本から独立することを望んでいた。その例として、国民党幹部戴天仇は黄埔士官学校でおこなった演説の中で「台湾民族がわれわれ中国民族というならば、台湾領土もまた中国領土であろう(実際、台湾民族と中国民族は別)」として、台湾独立を主張した。蒋介石が国民政府軍事委員会委員長として事実上中華民国の最高権力者になった(国家主席は林森であったが、有名無実の存在であった)後、満州事変で満州国が成立しても、日本と衝突する意思はなかった。 |
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1935年(昭和十年、民國24年),日本的臺灣統治機關臺灣總督府,在臺北舉辦日本帝國的「臺灣始政40周年紀念會」時,國府派遣福建省主席陳儀為祝賀使節,陳儀在祝賀大會席上的賀詞說:「臺灣人在日本帝國的統治下,過著幸福的生活」。這豈只是承認日本的領有臺灣而已,甚至還讚頌其統治政策?!
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1935年、台湾総督府(日本の台湾統治機関)が台北にて大日本帝国「台湾統治開始40
周年記念」という行事を開催したとき、中華民国政府は福建省主席陳儀を祝賀使節として派遣した。この席上、陳儀は「台湾人は日本統治のもと、著しく幸福な生活を送っている」と述べたという。このことはまさに中華民国政府が日本の台湾領有を認めるにとどまらず、日本の台湾統治を絶賛していた証左にほかならない。
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從1938年10月12日到14日之間,在中共黨擴大六中會中以「論新階段」為題的報告中,毛澤東說道:「為了讓日本之侵略戰爭失敗,必須中日二大民族之軍民大眾,以及朝鮮、臺灣等被壓迫民族聯合起來,堅強地共同努力,建立共同的反侵略統一戰線。」在當時,毛將臺灣人看成「臺灣民族」,想將他們編入打倒日本的戰線中。
--毛澤東《毛澤東救國言論集》,重慶,新華日報館,1939年,頁218-219。
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1938年10月12日から14日にかけて、中国共産党は「大六中会」を開催した。そこでの「論新階段」と題された演説の中で毛沢東はこう述べている「日本の侵略戦争を失敗させるためには、中国日本の軍人民間人大衆に加え、朝鮮人、台湾人など日本に迫害されている民族が連合し決起して、強固な反侵略統一戰線を形成しなければならない」。まさにこの当時、毛は台湾人を「台湾民族」とみなし、反日戦線に参加させることを考えていた。
--毛澤東《毛澤東救國言論集》,重慶,新華日報館,1939年,頁218-219。
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不但《毛澤東選集》沒有提及,甚至連1941年以前的任何由中國共產黨所編之中國共產黨史中,都看不出中國共產黨主張將臺灣以「中國」領土而「取回」。1936年,在延安的中國共產黨主席毛澤東,曾對史諾(Edgar Snow)言及中國共產黨支援朝鮮獨立,「同樣的立場適用於台灣」。此一發言,經過毛的校?,記述在史諾的The Red Star over China中。
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「毛沢東選集」では言及されていないが、1941年(太平洋戦争開戦)に至るまで中国共産党編纂の「中国共産党史」の中では、台湾は「中国」の領土であり「奪回」する必要がある、とは一言も書かれていない。1936年、当時共産党主席として延安にいた毛沢東と会見したエドガースノーに、毛は「中国共産党は朝鮮独立を支持する」と述べた後「台湾に対しても同じ立場をとる」と言明した。この発言は、毛自身の検閲を経た上で、スノー著「中国の赤い星」の中にこのように記されている。
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It is the immediate task of China to regain all our lost territories, not merely to defend our sovereignty below the Great Wall. This means that Manchuria must be regained. We do not, however, include Korea, formerly a Chinese colony, but when we have re-established the independence of the lost territories of China, and if the Koreans wish to break away from the chains of Japanese imperialism, we will extend them our enthusiastic help in their struggle for independence. The same thing applies for Formosa. As for Inner Mongolia, which is populated by both Chinese and Mongolians, we will struggle to drive Japan from there and help Inner Mongolia to establish an autonomous State.
(Source: Edgar Snow, Interview with Mao Tse-tung, quoted in "Red Star Over China", New York:Random House, 1948, pp.88-9)
我們立刻要做的是收回失土,而非僅僅保衛長城以南的主權。這意指滿州必須收回。這不包括曾是中國屬地的朝鮮,但是當我們中國失土恢復獨立時,如果朝鮮人民希望掙脫日本帝國主義的鎖鏈,對其獨立鬥爭我們願意給予熱誠的幫助。同樣的立場適用於台灣。對於中國人和蒙古人居住的內蒙古,我們將奮力逐出日本並且幫助內蒙古建立自治邦。
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中国は直ちに失地回復を始めなければならない。失地回復とは万里の長城以南を防衛するほか、満州を奪回することも含む。しかしながら、失地回復に朝鮮半島-かつては中国の植民地(属国)であったが-は含まない。将来中国が失地回復を達成した暁に、韓国人が日本帝国主義打破を望むなら、中国は韓国人の独立運動を熱狂的に支援するであろう。台湾もまた同様である。中国人とモンゴル人が住む内モンゴルについては、日本勢力を駆逐して、自治政府を樹立することを目指した闘争を行う。
(エドガースノー;毛沢東へのインタビュー「中国の赤い星」P88-89 NYランダムハウス刊)
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毛澤東在其1938年題名為《論新階段》的論文中,將臺灣人列為「臺灣民族」。此後,在中國共產黨文獻中,言及臺灣約有:1939年末,毛澤東及其同志,在延安共同著作而題名為《中國革命與中國共產黨》的論文。此論文也是將臺灣與朝鮮、緬甸等相提並論,只記載著這些自古以來就是中國的屬國並且是領土的一部分,都被日本等帝國主義大國所強奪而已,根本沒有提及臺灣要如何處理。於1928年,以做為「日本共產黨臺灣民族支部」而結黨並接受中國共產黨指導及援助的臺灣共產黨,由其綱領為「臺灣民族的獨立」、「臺灣共和國的建設」一事來看,可以說中國共產黨的臺灣政策,是朝著臺灣獨立的方向。這個政策至少到太平洋戰爭爆發之前並無變化。這一點,可從戰爭爆發那年,「臺灣獨立先鋒社」在中國共產黨的支持下,於延安成立的事實中窺見一二。
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1938年に発表された上記「論新階段」という演説の中で、毛沢東は台湾人を「台湾民族」と呼称している。その後も、中国共産党の文献には台湾につき言及している。1939年末、延安にて毛沢東は同志とともに「中国革命ならびに中国共産党」という論文を著した。この論文の中では、台湾、朝鮮、ビルマ(ミャンマー)などはまとめて古来から中国の属国で、その領土の一部分は日本帝国主義や他の西欧諸国により強奪された、とだけ記されているが、では台湾をどうするか、ということは一言も述べられていない。1928年「日本共産党台湾民族支部」が結党され、中国共産党の指導援助を受けるにあたり、綱領として「台湾民族独立」「台湾共和国建設」をかかげたことは、共産党も台湾独立を指向していたことを明らかに示している。この方向は太平洋戦争が始まってからも変わることはなかった。戦争勃発の翌年、中国共産党の援助により「台湾独立先鋒社」が延安で設立されているのはその例である。
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1945年8月15日日本投降,9月2日在美艦密蘇里號上,在投降書上簽字。九月二日聯合國最高司令官麥克阿瑟發出「一般命令第一號」,進行分配占領區域。對蔣介石有以下的授權:日本國在中國(滿州除外)、臺灣、及北緯十六度以北、法屬中南半島之前任指揮官,以及一切的陸上、海上、航空及補助部隊,必須向蔣介石統帥投降。
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1945年8月15日日本は連合国に降伏し、9月2日アメリカ戦艦ミズーリー号上で降伏文書に調印した。同日、連合国最高司令官マッカーサーは「GHQ指令第1号」を発し、日本占領地域を連合国に分配した。蒋介石の許には、満州以外の大陸での日本占領地域、台湾、北緯16度より北のフランス領インドシナの管理権が与えられた。当地の日本陸海空軍ならびに補助部隊は、蒋介石の許に投降することと定められた。
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孫文主張「驅逐韃虜,恢復中華」
建立中華民國,被尊稱為「國父」的孫中山主張「驅逐韃虜,恢復中華」,依據孫中山的說法,可以說清國並不是中國。1912年,中華民國成立時,台灣已經是屬於日本帝國的領土,並非中華民國成立時的領土,當然不得主張是中華民國的「固有領土」至為顯明。同樣的,1949年中華人民共和國成立時,台灣處於其統治之外,至今,台灣一直在中華人民共和國的主權之外,生存發展,所以臺灣並非中華人民共和國的固有領土。
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孫文のスローガン「タタール(モンゴル;清朝)駆逐、回復中華」
中華民国の「国父」孫文は「タタール駆逐、回復中華」というスローガンを唱えた。このスローガンによれば、清朝の領土=中国ということにはならない。1912年中華民国が成立した時、台湾はすでに日本領であった。このことを見ても、台湾は中華民国「固有領土」とは言えないのは明らかである。同様に1949年中華人民共和国が成立した時も、台湾に中華人民共和国の主権が及ぶことはなかった。以降今日に至るまで、台湾は中華人民共和国の主権外で生存発展を重ねてきた。このことはつまり、台湾は中華人民共和国の固有領土ではないという何よりの証明である。
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