| 『台湾青年』と共に四十年 |
| 羅福全/台湾駐日大使 2002年7月28日 原載 台湾青年 第500号 停刊記念号 2002年6月5日発行 |
『台湾青年』誌が東京で創刊されたのは一九六〇年、あの白色恐怖時代の台湾社会の息苦しさは、現在の台湾の若者にとって、理解することは不可能に近いであろう。 私は一九六〇年八月、留学生として日本に入国し、民主自由の空気に触れた開放感を今だに忘れられない。出国直前の一九六〇年六月十九日、私は蔡同榮、張燦鍙、侯榮邦、黄崑虎等四十三名が関仔嶺で開いた会合に参加した。いわゆる「関仔嶺事件」である。東京で最初に会った大学の先輩、郭嘉煕氏に事件の内容を伝え、それが『台湾青年』に掲載された。私は『台湾青年』の創刊号からの読者であるが、それが台湾青年社と直接にかかわる始まりであった。 一九六三年に私は、日本からアメリカへ渡った。留学先のフィラデルフィア(費城)は当時、アメリカにおける台湾独立運動の本拠地であった。「United Formosans for Independence 」(UFI)の陳以徳主席と知り合い、その活動に参加した。当時、全米各地で台湾人留学生の活動が活発になり、『台湾青年』もアメリカ大陸で配布されるようになっていた。一九六六年にUFIが全米各地の組織を吸収して、新しく全美台湾独立聯盟(United Formosans in America for Independence UFAI)がフィラデルフィアで成立、積極的に日本の台湾青年社と連携し、『台湾青年』を通じて、北米における啓蒙広報活動が一段と充実されていった。 一九六四年に台湾で彭明敏、謝聰敏、魏廷朝の三氏が投獄された。彼らが起草した「台湾自救運動宣言」を、台湾青年社が秘密裡に入手し、それに日文訳を添えて『台湾青年』一九六六年一月号に発表された。それに感動した私は、フィラデルフィアで蘇金春氏と漢文の「宣言」をアルミ版に焼き付けて、一万部以上印刷して全米各地に配布した。この「宣言」が六〇年代後半のアメリカで、もっとも影響力を及ぼす刊行物になったことは言うまでもない。 一九六六年、立派な一軒家が三万ドルで買えた時代に四千ドルを投じて、ニューヨーク・タイムズ紙の日曜版半ページに、「宣言」を政治広告として発表した。台湾は新しい独立国家であるべきだ、と主張するこの意見広告は、台湾、米国、日本、カナダ、ヨーロッパ、南米に散在する独立運動団体の連名で発表されたのである。これは、一九七〇年一月の世界台湾独立聯盟(World United Formosans for Independence WUFI)の誕生予告でもあった。 この四十年、『台湾青年』誌の幹部たちの中には、去った者もおり、王育徳先生、呉枝鐘氏、林啓旭氏など物故された方もいて、寂しい思いがする。しかし、諸外国の政治流亡者による刊行物の中で、『台湾青年』のように、中断することなき四十二年もの歴史を誇れるものは稀であろう。創刊当時はまさしく「台湾青年」であった黄昭堂、許世楷、周英明、金美齢、宗像隆幸、廖建龍、侯榮邦など諸氏の四十年を超える不屈の精神に、一読者として最高の敬意を表したい。 一九二〇年に創刊された抗日誌の初代『台湾青年』には、民族運動者の蔡培火、林呈禄、,呉三連、羅萬俥氏などの諸先輩が、台湾の為に情熱を注いだ。陳水扁総統の時代を迎えて、台湾の将来を二十一世紀の台湾青年の奮起を期待したい。 |
台湾独立建国聯盟ウェブサイト /WUFI Web-site
World United Formosans for Independence
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