トップぺージ
台湾民族論 <上>

台湾民族論 <上> <中> <下>

王育徳/台湾大学教授(訳:SweetPotato)  2002年5月20日

原載 台湾青年 第35号 1963年10月25日発刊


 台湾人はいまや中国人とは完全に異なる民族に生成発展した。台湾人は「民族自決の原則」にもとづいても、堂々と独立を主張できる資格をもつ。本論文は台湾民族の成立に関し、科学的根拠を与えようとする一つの試みである。

 それには「漢民族」の実質に対する考察から始め、一部の台湾人になお残る未練の由来をつきとめ、次に民族の定義を台湾人にあてはめて考え、最後に将来の台湾ナショナリズムの動向を展望しようとする。

「漢民族」は民族にあらず

まず、「漢民族」という言葉から入っていこう。中国人がそう自称し、台湾入もそれに属すると信ずる人がおり、日本人もまたそうよぴならわす。しかも、これには「4,000年の光輝ある歴史と偉大なる文化をもった」という、エレガントな形容句がつくのを常とする。しかし、その厳密な内容は何なのか。人は詳しく考えたことがあるのか。

そもそも漢民族の「民族」は何をさすのであろう。人種(race)?フォルク(volk)?それともネイション(nation)?

どうも人種の意味ではなさそうだ。人種は通俗的には白色人種、黄色人種および黒色人種等に分けられ、漢民族がそのうちの黄色人種に属することは誰もが認めるところだからである。

中国人がいついかにして自分たちが黄色人種であることに気がついたかわからないが、中国人が白色人種を「紅毛番」、黒色人種を「黒鬼番」と卑しみよんで、独自の区別法を立てたことは歴史の教えるところである。アヘン戦争(1840〜1842)以来、惨々に痛めつけられた結果、白色人種に対して別に畏敬の念を抱くようになった一方で、黒色人種が白色人種の奴隷にされていた地位がわかるにつれて、これにますます軽侮の情を強めたことも事実であろう。

同じ黄色人種になると、中国人の優越感はストレートである。日本人や朝鮮人や安南人は大抵は中国人の末裔であるし、また隷属民であったと信している。最近の「黄禍論」にしても、――これには幾分ヤユ的な調子が入っているのであるが――他の黄色人種なら、つまらないカングリはよせとムキになるところであろうが、中国人はいまごろわかったかと心のなかでニヤリとしているに違いない。私の臆測を人は虚妄というだろうか。もしそういう人がおれば、その人は中国人に対する認識がまだまだ浅いのである。中国人のもつ選民思想は常識では考えられないくらいに強いものがあるのだ。

むずかしくいえば、人種は遺伝的起源を有する身体的特徴の一定の組合せによって、人類を分類したときの概念である。分類のために用いられる遺伝的特徴には、目の色や形、頭髪の色や形、鼻の型、身長、頭蓋指数などがある。その結果、コーカサス人種(Caucasoid)、蒙古人種(Mongoloid)およびニグロ人種(Negroid)の三者が分けられたが、大体において白色人種、黄色人種および黒人種の通俗的分類にあてはまる(もっとも色の黒いインド人はコーカサス人種であり、アメリカ・インディアンやカナダ・エスキモーは蒙古人種が本当である)。もちろん、中国人は日本人、朝鮮人、安南人等とともに蒙古人種に属するのである。

一言つけ加えておきたいのは、遺伝的に不変と考えられてきた身体的諸特徴が、環境その他の影響によって変りうることが、例えばハワイにおける日本人移民の子孫に関する研究などで明らかにされたことである。従ってクログマン(W.M.Krogman)のいうように「人種は明確に定義された生物学的実在ではない。今日それは暫定的な定義を有するものと思われる。それは可塑的であり、柔軟性のあるものであり、時・場所・環境とともに変るものである」(1958年、東大出版会発行「講座社会学5 民族と国家」P.4〜5)のであって、ましてや人種偏見などありうるべきではないのである。

フォルクとネイション

それでは漢民族の「民族」はネイションの意味か。どうも大多数の人はそのつもりで使っているらしい。もしそうなら残念ながら間違いである。漢民族の「民族」は決してネイションではない。正しくはフォルクなのである。

フォルクは多くの人に恐らく初めて聞く言葉であろう。日本語では<基礎集団>と訳されるドイツ語から来た術語である。ただ一般的に生硬なため、原語が使われることが多い。さもなければ「民族」の訳語をあてるが、その場合はことわり書きをいれる。例えば、

 古代における民族の問題について申し上げたいのでありますが、その前に「民族』という言葉について一応御了解を求めておきたいと思います。今日私が古代及び中世にかけて「民族」という言葉を使いますがこれはいわゆるフォルクの意味であって、ナチオン(注:ネイションのドイツ語)の意味ではありません。ではなぜそのような区別をしながらも、なおまぎれやずい「民族」という言葉を使うか。これはこれまでの慣用語の不備によるのでありますが、次のような理由もあって、そのような民族という言葉を用いるわけであります。すなわちナチオンは資本主義以前になかった。こういうようなことをいうのは必要でありますが、現在の段階においては、むしろ以前に民族はなかったというよりも、以前にあったフォルクというようなものの構造変化としてナチオンをつかまえることが必要ではないか。ただ無から有が出てきたというより、以前あったフォルクというものが構造変化を遂げて、ナチオンに変化した、これが第一。第二番目は、ナチオンはいうまでもなく言語、地域、経済生活、文化の共通性の中に表われる心理的性格の共通を基盤として発生しているのに、このような条件において非常に恵まれていない、非常に分散性の強いフォルクがどうしてそれ自体のまとまりをもっておるか。それにはフォルクのまとまりのための努力あるいは行動こういうようなものがナチオンとしてのまとまりを作り上げるための一つの条件を与えるのではないだろうか。以上二つの問題は、フォルクとナチオンの異質性を明白にさせるとともに、その間の連関性をもはっきりさせることになります……(1952年、岩波書店発行、歴史学研究会編「歴史における民族の問題――歴史学研究会1951年度大会報告」所収、藤間生大:「古代における民族の問題」より)

藤間氏のような歴史学者でさえ、フォルクというべきところを民族といったってさほど不都合でないとしているのであるから、一般の人がフォルクの概念を知らずにネイションといっしょくたにしているのは無理も無いと言える。しかし、フォルクはあくまでもフォルク、ネイションはあくまでもネイションなのである。

ただフォルクとネイションの異質性と連関性は、藤間氏の言葉で既にアウトラインが示されたが、もっと詳しく説明を聞く必要がある。これも長い引用で恐縮であるが、よく納得がいくようにしたほうがよい。

 民族(nation)は基礎集団(volk)の長い間の拡大の過程の中に成立したのもである。人間が出生と共にその一員として運命付けられ、そのなかで彼の多くの欲求を充足し、その同じ仲間たちと共通の言語風俗習慣を通して意識的無意識的にそれと一体化の感情を有するような集団は、人間の長い歴史を通じて徐々に拡大してきた。いわゆる原始共同体的段階から、いかにして今日の民族の成立をみるに至ったかと言う具体的な拡大の過程とその原因については、なお多くの議論が対立しているが.......。

 中世の封建制社会においては、まだこんにちのような民族は成立していなかった。第一に封建という字の示すように、各地の領主諸侯を中心とした自袷自足的な地域に細分され、したがって人民もこれらの地域ごとに特殊性、封鎖性を強く保持していた。もちろん上層階級は互いに交渉をもっており、またキリスト教やラテン語はこんにちの民族の枠をさえ越えた普遍性をもっていたが、下層の大衆はそうではなかった。これと関連して第二に中世が身分性の社会であったために上層階級と下層階級との共同体的一体化の意識が不充分であった。もちろん中世の領主や武士と農民の関係は、奴隷制の社会のそれに比べればたしかに階級的接近を示してはいるが、上層と下層との間に見られる大きい社会的断層は両者を含んで、全体としての民族という集団意識をなお未発達の段階に止めていた。かくて「中世欧州は地域別および断層別に水平垂直両方而に区劃されていたが故に、民族的文化共同体はまだ成立し難かった」(1947年、「哲学研究」第362号所収 臼井二尚:「民族発達の諸段階」P.24)といわねばならぬ。

 このような段階にとどまっている、いわば未発達の潜在的な民族を一般にフォルクと呼ぶことが多い。フォルクはいわゆる部族的段階のあとをうけて、いくつかの部族を統合した形で成立したものであるが、そのなかに、かなりの方言的差異を含みながらも、これらの全体をまだ充分に明確ではないが、一つの共同の民族集団として徐々に融合統一して成立したものである。要するにフォルクは封建制の段階に対応する、未発達の民族として規定することができる。

 近代の歴史はこのようなフォルクがその地域的階層的な障壁を打破して明確な統一共同体として実現される過程である。封建的体制は資本主義的商品経済の発展によって徐々に崩壊の途をたどる。商品は従来の封鎖的な枠を越えてゆく。こういう状況に対応して、これまで名目的な存在にすぎなかった国王は新しく興った商人の要求とむすびついて領主諸侯の権力を抑え、統一的な中央集権国家を樹立した。経済的には国民経済(Volkswirtschaft)の範囲が之に相当する。かかる中央集権国家の成立によって、かつての地方的封鎖性は早晩とりのぞかれざるを得ない。地方的な税制や貨幣などは禁止されて、広い範囲の同一性がもたらされる。各地の方言的差異が止揚されて新しい国語が広く普及するのもこの時期である。………

 だがしかし、ここで忘れてならないのはかかる中央集権国家は絶対主義王朝をその実質的支配者としてもっており、人民はこの王朝もしくは国王の共通の被支配者たるにすぎなかったということである。………

 ミッヘルス(R.Michels)の指摘したように、「ルイ十四世の時代にかかる祖国の概念は民衆にとっては王朝的国家あるいは端的に王朝に対する愛の義務に還元されるのである」「朕は国家なり」(L'Etat、c'estmoi)という有名な言葉はその反映であり民衆はまだ自覚的な民族意識を欠いでいたというべきである。フォルクはまだ階層的もしくは垂直的な障壁を充分にとりのぞいていたとはいえない。

 この障壁を打破したものは、ほかならぬ民主主義の確立であり、その象徴的な出来事は、いうまでもなく、フランス革命である。絶対主義国家のもとで地域的同一化がかなり進んだといっても人民はまだ国王の臣民であり、人民相互はまだフォルク的な共属感情を懐いているにすぎなかった。彼ら自らによって形づくられる「われらの集団」としての民族的自覚は明確でなかった。「そのすべての子に対して同一の権利を認め、それゆえにまたそのすべての子から同一の愛を要求し得る父なる国」(R.Michels)という意識が浸透してはじめて階層的障壁がとりのぞかれたことになる。ここに広汎な地域に住むすべての住民が民族同胞として自覚される。

 かくてフォルクはナチオンに発展する。ナチオンとは未発達の潜在的民族としてのフォルクが中央集権国家の成立、民主主義の確立などによって自覚的となった民族のことである。「われわれ」という同胞意識と「われわれの集団」としての民族を積極的に支持しようという意識とがナチオンの特質である。……(前掲書「講座社会学5民族と国家」P.17〜20)

フォルクとネイションの異質性と関連性はこれでいよいよ明確になったと思うが、後は漢民族をこれにあてはめて考えてみればよい。そうすると、「4,000年 ……」というエレガントな形容詞がつくことは、とりもなおさず、漢民族の「民族」がネイションでなくて、フォルクであることを自ら承認したものとわかるのである。そもそも4,000年も前から成立し存在したネイションは歴史上どこにもないのである。もしあったとずれば、上に引用したフォルク→ナチオン論は根底から覆るばかりでなく、これまでの政治学、歴史学、社会学は完全にご破算にしなければならなくなる。しかし、実際は漢民族の「民族」をネイションと信じていた俗論が問違っていたのであって、学界で定説のフォルク→ナチオン論は中国に適用しても完全に通ずるのである。古典的な封建制は、周代に見ることができるし、封建諸侯を廃し郡県制度をしいて中央集権国家が確立されたのは秦代以降に見るこどができるのである。東洋史家が秦以前を上古、または古代、秦以降を中古または中世に分けるのは、この社会変革おての話であるが、中国史の持殊性は、この中世的中央集権国家時代が秦から清まで2,000年も続いて、容易に近代化しなかった。すなわち資本主義が発達してブルジョアジーを抬頭せしめず、民主主義が勃興して専制政治を覆えさせなかった――ところにある。換言すればフォルクとして最後の段階まで発達しながら、なかなネイションに脱皮できなかったのである。その原因がどこにあったかをさぐるのは、まことに興味深い間題で、いわゆるアジア的生産様式が一応の解答として出されているが、私は私なりの意見を後で出してみたいと思う。

では、フォルク→ナチオン論を他の国々にあてはめてみたらどうなるか。その最も典型的なケースはイギリスで、エリザベス女王(治世1558〜1603)時代に極盛に達した絶対主義はジェムス一世の処刑(1642)から名誉革命(1688)をへて立憲政治となり、18世紀後半の産業革命でブルジョアジーが主体勢力となってネイションを成立せしめるのである。フランスはもちろんフランス革命(1789〜1795)後に民族国家が成立したと見る。日本は2,000年の歴史をもつ「ヤマト民族」と誇称しているが、これは4,000年の漢民族云々の亜流であって、日本民族の成立は明治維新(1834年の天保改革から明治10年までの期間)以後と見るのが正しい。

民族の定義はまだ統一されたものがないとはいえ、比較的公正なものとして襲用されているのに、有名なマルクス主義的定義がある。「民族とは、四つの基本的な特徴の共通性を基礎として、すなわち、言語の共通性、地域の共通性、経済生活の共通性、および民族文化の固有な特質の共通性のうちにあらわれる心理状態の共通性、を基礎として生じたところの、歴史的に構成された、人々の堅固な共同体である」この定義では血縁的要素がことさらに無視されているが、もし正しい意味で血縁的要素を認め、この上に加えたならば、ほぼ完璧ではないかと思うのである(前掲書「講座社会学5 民族と国家」P.7)。

後で私はこの定義に従って台湾民族の成立の条件を逐一論ずるつもりであるが、その前に他のケースを概観しておきたいと思う。

民族の成立過程は、それぞれの歴史的条件と推進力の主体となる階級によって異なった内容を持つところに尽きぬ興味がある。今日世界の先進国となっている国々は大抵1870年代までにフォルクからネイションに脱皮して民族国家を成立させたのであるが、露土戦争(1877〜1878)の結果、強国の勢力均衡の保持の上から誕生したブルガリア、セルビア、モンテネグロ、ルーマニヤ等のバルカン諸国の例は、なるほど民族国家として独立する素地はあるが、主体となる階級が生れず、いたずらに封建的軍閥と官僚によって玩弄され、強国のカイライとなって国際紛争のタネをつくるだけであった。 20世紀に入って「民族は自ら独立国家を形成する権利がある」という民族自決の原則が国際的通念となり、特に第一次大戦後、多くの植民地が独立ないし自治を認められたことは周知のごとくである。ロシヤの場合は特におもしろい。 1917年に革命が起って共産党が政権をとるや、かれら一流の理想論から民族自決主義を承認したため、一時数十の独立国が出現した。ほとんどがソビエト連邦に復帰したが、ポーランド、フィンランド、バルト三国のように独立を堅持したのもある。第二次大戦後になると、植民地主義が一時に衰えたため、僅か十数年の間に六十以上の新興国家が独立した。その多くはタナボタ式に独立をかちとったものの、裏づけとなるネイションがまだ成立せず、未熟なフォルクの段階にあって、前近代的内部抗争に寧日ないありさまである。

ひるがえって中国の場合を見よう。いくら特殊な発展のしかたをしているといっても、そこはやはり世界史のなかの一環であって、他の国々がネイションヘの脱皮をとげるのに自分だけフォルクの段階にとどまっているわけにはいかない。いや、ネイションヘの脱皮は外圧によって清末から始っていたのであるが、ついに共産党の革命の成功によって、中国民族が成立したのである。

中国民族の成立はごく最近

中国における民族意識(ナショナリズム)の発生は、黄帝の時代でもなければ、漢代でもなく、太平天国の乱(1850〜1864)に起源が求められるのである。代表的見解として、著名な中国研究者竹内好氏のそれを紹介しよう。

 中国に民族意識がいつ発生したか。これは学問上未解決の問題だが、普通は太平天国の運動に起源を求める説が行なわれている。太平天国というのは、19世紀の半ばにおこった一種の貧民戦争である。清朝支配の打倒と、土地革命と、人権の確立を綱領とし、一部に反帝国主義の芽ばえをふくんだ革命運動である。民族運動が社会革命と結合してあらわれるという中国の基本的な型が、最初に打ち出されたのがこのときである。(1957年、岩波書店発行、「現代思想 民族の思想」所収、竹内好:「中国の民族主義」)

 その後の発展を具体的に見るに、次のごとくである。

 中国の民族解放運動(注:中国民族が成立する過程とほとんど同じ意味)はアヘン戦争以後、帝国主義の支配が全中国的に拡大されるに従って引起され、より一層激しいものとなってきました。この帝国主義の中国支配の過程で清朝専制権力の隷属化が行われ、その専制統治の根幹をなした官僚制度が帝国主義支配の機構に編成替えされてゆくのが見られますが、こうした官僚統治が根本的には中国社会の孤立分散性の上に、存立しえているものでありますが故に、そうした専制的支配を打破るためには、その孤立分散性の打破こそ急務でなければならなかったと思います。そこに秘密結社、或は資本主義の進展に伴い会館・公所から再編成されて生れでた商会等の、そうした大衆的結合の横のつながりが重大な使命を担う必然性があったと思うのです。

 太平天国革命・義和団の乱(1900)・辛亥革命(1991)など、これらはすべて秘密結社を中核として起されており、一方日清戦争以後の中国の資本主義発展への傾斜は同時に中国資本家階級の政治的発言権を強いものとし、立憲運動、利権回収運動、外貨排斥運動等がそうした商会に代表される勢力を中心に強力に起されてくるのがみら れます。なかんずく従来の地方的ボイコット運動が日露戦争以後、全中国的様相を帯びたゼネラル・ボイコットとして発展してゆく過程は、資本主義の発展に伴う中国人民の民族的結集の場として極めて重視すべきものがあります。それぞれの利害の上に立ちながらも反帝国主義の一線に全階層が結集する基盤が既に此処には準備されていることを見逃してはならないと思います。

 このような帝国主義支配の全中国的拡大と、満清王朝の隷属化に対する中国人民の民族的結集は、辛亥革命において初発的形態ではありますが全民族的な盛上りとなって発動してゆきます。全国各地にひきおこされた農民・手工業者の暴動を背景に、幼弱ながらも中国資本家階級の民主主義革命は封建的な満清王朝を倒壊せしめ、国内における全体制的な民族抑圧の機構を排除することができました。しかしながら封建体制に対する不徹底な闘争は軍閥・官僚の反革命勢力の抬頭を許しました。

 そうした反革命の基礎は既に太平天国当時の曾国藩・李鴻章等によって培われています。彼らの洋務運動といわれるものは、一に革命勢カ粉砕の武器を得ることにあったとみられます。その結果彼らは帝国主義へ従属することによって地方的権力を樹立することになったのであるます。その後こうした軍閥勢力の成長は帝国主義の勢力範囲設定の動きの中に培われてゆきます。特に袁世凱によって育成された北洋軍閥は、帝国主義から供与された武力をもってそうした勢力を結合する力として成長してゆくわけであります。

 中国資産階級が未だ地主であり、高利貸である性格を濃厚に残している限り、下からの革命的盛上りを利用すると同時に、またそれを一定の段階において抑圧し、支配勢力としての軍閥と妥協する可能性が生まれてきます。そうした彼等の妥協はブルジョア民主主義の実現を目指した辛亥革命を中途にして挫折させてしまいました。辛亥革命における革命的エネルギーは国民党を議会主義に閉じ込めることにとって、又右翼国民党員の買収によって、更にまた秘密結社の公然化と、その上層部の腐敗によって、一層その結集ずる環を見失ったとみられます。(前掲書「歴史における民族の問題」所収、野沢豊:「中国の民族解放運動」より)

 孫文はこの迂余曲折に富んだ中国ナショナリズムの形成過程で、どのような位置を占めるのであろうか。竹内好氏は孫文の革命の精神は太平天国のそれの復活したものと見ている。周知のように孫文は三民主義を唱道したが、もっとも重点がおかれたのは民族主義である。すなわち外に対しては、帝国主義からの解放、内に対しては、少数民族の自治を主張する。これは欧米先進国の民族主義が外に対しては他民族に対する不信と憎悪、一歩進んで領土侵略となり、内に対しては少数民族の圧迫となったのに比べて、平和的といえる長所をもっている。(当時の中国の事情がそうさせたのであるが。)しかし、実践運動になると失敗が多かった。

 鈴江言一氏(王枢之)は、「孫文伝」(1931年 改造社発行、1950年、岩波書店発行)のなかで、こう書いている。

 ……民主主義闘争における彼の実践とこの誠意とは、方向が一致しなかった。彼がデモクラシーのため中国の解放のためとひたすらに突進した方向は、常に反対に、デモクラシーと解放を益々混乱に陥らせるものだったのでる。

 辛亥革命の後、孫文は当然大衆的であるべき民主主義運動において、自ら非大衆的方向に隠れてしまった。彼の会党中毒は、ここに至ってその極度に達した。かくて彼は戦闘的民主主義者を代表する彼のグループを、完全に広東人及び海外移民の団体に制限してしまった。

 彼は終始護法の旗の下に闘った。彼は軍閥支配の混乱を、法律的方法と道徳的勧告との力で解決しようとした。お蔭で彼の闘争は常に軍事投機政治投機から脱却することが出来ず、しかもそのことのため、彼自身を軍閥混戦の一分子として大衆に面せしめた。

 孫文及び国民党は広東に二度政府を建てた。だが、この間において孫文及び国民党の目標は常に護法であり、手段は軍事投機であった。したがって民主主義者の政府としての、いかなる建設も行わなかった。………

 孫文の護法と軍事投機とは、必然に彼並びに彼の国民党を危地に導いた。北方中国の南方に対する新攻勢の一方において、大衆の政治闘争への発展は彼等戦闘的民主主義者を見捨てて、新しい出発を開始せんとしているからである。

 聡明な孫文は終にこの危機を発見した。(岩波版P.254〜255)

孫文はマーリンやッフェに会って闘争の基盤を拡大すべきことについての忠告を聞きそれを取り入れて国民党を改組して共産党の加入を許した(1923年11月)。孫文が北京で客死した後、国民党政府は共産党の協力を得て北伐の途に上ったが(1926年7月)、上海に接近し、買弁ブルジョアジーと対決を迫られたとき、国民党はこれと妥協して、共産党とタモトを分ったのであった。その後、蒋介石を代表とする四大家族が帝国主義者と手を結び、中国を半封建・半植民地の状態につなぎとめておいて、自己の利益を追求した過程はよく知られている通りである。これを中国研究者の幼方直吉氏は次のように述べている。

 旧中国における四大家族の植民地ファシズムは、かかる孫文の民族主義(注:他民族との平和共存を標榜した)を歪曲し、対外的には、民族の独立とは反対にレイ属化(買弁化)を促進し、対内的には官僚独占資本の抑圧と、少数民族にたいする同化政策(漢族を本家とし少数民族を分家とみなす大漢族主義への逆転)をとった。いいかえれば、それは近代的民族さえも形成し得ず、むしろ封建的分散性に帝国主義による分割を加え、強化し、促進した。(1961年岩波書店発行、倉石武四郎編「変革期中国の研究」所収、幼方・野原:「中国における近代民族意識の形成と民族間題」より)

四大家族の封建専制的支配が打倒され、外国勢力が払拭された後、はじめて中国の統一的近代民族が成立したのである。中共による中国民族の成立は、他の先進国が、封建社会→資本主義社会→社会主義社会(修正資本主義を含める広義のものと解釈すべきである)という歴史発展のコースをたどったのに対し封建社会→半植民地・半封建的社会からいきなり社会主義社会へ進もうとしているところに特殊性がある。なぜ中共は資本主義杜会を経過しないで、社会主義社会へ躍進できると見、またそうすべきであると考えたか。毛沢東の「中国革命と中国共産党」「新民主主義」「人民民主独裁について」等の論文にもっともらしく論じられている。そしてそれは、今日までのところ、かなりの成果を上げているように見える。

それゆえ、人が中共の歴史的役割を高く評価し、その規模の大と今後の発展の可能性に期待をかける意味で、「偉大なる中国民族」とよぶなら話はわかるが、その中国民族が4,000年前から厳然として存在したというなら、学問的に間違っていることは明白で、コケオドシも甚だしいといわねばならない。


台湾独立建国聯盟ウェブサイト /WUFI Web-site
World United Formosans for Independence

ご意見はwufidata@wufi.org.twあてにお送りください。
そのばあい〔言論広場〕に転載します。
お手紙を掲載されたくないばあいは、その旨を明記してください。
あなた様のご光臨とご支持に感謝します。