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植民地と文化摩擦――台湾における同化をめぐる葛藤
黄昭堂/台湾独立建国聯盟主席

はじめに

由来、「植民地に善政なし」といわれる。植民地支配が植民地人の合意によって出発することはありえるはずはなく、それゆえに支配者がいかなる政策をとろうとも、植民地人の瞼から「強圧的植民地支配者」の映像をとりのぞくことは難しいからである。

台湾にたいする日本帝国の植民政策と経済収奪や、台湾入の抵抗については、すでにいくつかの労作1) がそれらの解明に貢献しているので、この小論では台湾における支配者としての日本人と、被支配者としての台湾人とのかかわりあいを文化摩擦の側面から検討して、若干の問題を提起するにとどめたい。そのさい、本題ではないが、これらにまつわる弾圧と抵抗とに触れることもあろう。

植民政策は大きくわけると二種類ある。そのひとつが「同化主義」で、植民地の行政・司法は本国の監督下におかれる。ただし、立法権は、本国にもっぱら属するばあいもあれば、植民地住民の参与を許すぼあいもある。もうひとつが「自治主義」であり、植民地住民の立法権が認められるほか、かれらの参与する行政・司法をつかさどる植民地での政府機構の設置も認められる。

民族的施策の面でみると、同化主義では植民地人の人種・種族・民族のいかんにかかわりなく、植民本国の文物制度が、強制力をともなって導入され、本国との一体化が進められるのに対し、自治主義のばあいは、植民地人の特性が尊重される。いずれの方式が優れているかは断定しがたい。ただ、同化にかぎっていえば、同化主義はもとよりのこと、自治主義にあっても、本国の力の優位により、植民地人は程度の問題こそあれ、なんらかの形で同化される方向にある。

もっとも、「同化」というばあい、人類の歴史自体、同化の歴史である。無意識裡での同化、相手文化への憧憬に由来する同化、征服者による強制的同化もあれば、逆に、被征服者の文化に征服者が同化されることもある、植民地同化主義は、征服者による強制の部類に属し、かような形の同化は、被支配者の反抗をよび、民族主義の勃興を激発するばあいがある反面、強制力の赴くところ、速効をあらわす一面をももっている。

台湾は日本帝国によって五〇年にわたる支配をうけ、もろもろの面で影響をうけた。この時期は、日本帝国が急速に国力をたくわえ、対外膨張をはたした時期であり、日本人が自信に溢れる大和民族意識に燃えた時代でもあった。かような時代にあって、年月がくだるにしたがい、大和民族の優越性が強くさけばれるようになり、同化への要求が日増しに強くなった、日本帝国の台湾統治策と、それに対応する台湾人の態度は、絶大なる権力を誇る総督を中心に時代区分すると、およそ次のよいこなるであろう。

  初期 前期武官総督時代(1895‐1919)
      異民族支配  武力抗日運動  前民族主義時代
  中期 文官総督時代(1919―1936)
      内地延長主義 台湾入政治運動 空想漢民族意識導入期
  後期 後期武官総督時代(1936―1945)
      皇民化運動  政治運動鎮静化 民族主義混迷期

この小論では、上の三つの時期ごとに、若干の事例を挙げて、植民地台湾での異文化接触の態様と摩擦とを考察する。

1 関連する人的ファクター

日本帝国は植民地支配にあたって、帝国本来の領土を「内地」、植民地を「外地」とし、本国人を「内地人」と定めた。これらは法制上の用語であるのみならず、一般用語としても使われた。台湾は日本帝国の領土ではあったが、帝国憲法は内地にのみ完全に適用されたため、外地のひとつである台湾には限定的にしか適用されなかった。帝国政府は台湾総督に行政・立法・司法の三権を付与し、初期には総督は武官であったこともあって、さらに統帥権に直属する軍事権をも与えた。帝国政府の台湾総督にたいする覇絆は緩やかであり、したがって台湾統治の態様は、総督の個人的傾向とその指揮下にある官吏によって左右された面もある。しかしながら、歴代総督の統治方針は直情径行されるのではなく、そのつどの本国政府の大方針と国情とを反映するものであった。かかる観点からいえば、単に総督が絶大な権力を付与されていることを以て、帝国政府の方針と総督府の施政とを敢えて区別すべき理由はない。

ところで、帝国憲法の台湾における限定的施行とは、具体的にいえば、臣民としての権利義務と民刑事法とのそれぞれの二元化である。つまり帝国の領土を内地と外地とにわけ、属地的に処理する。内地においては、すべての本国人は憲法およびあらゆる本国法令の適用を受ける。外地の植民地人は憲法上の権利義務を部分的に除外され、本国法令の外地への適用は勅令によって定め、外地特殊のものは台湾と朝鮮のばあいのみ総督が律令(朝鮮は制令)で定める。

かように法の適用は属地主義であった。だがそれは完全な属地主義ではなかった。属人主義の要素が加味されていたのである。植民地人は内地に転居しても、内地に居住する本国人と同様の法的権利義務を行使することはできない。植民地人はその本籍を内地に移転できないからである。他方、内地人が外地に転居移住しても、属地主義的に外地法の適用を受けることにはならない。内地人はその本籍を外地に転出することができないため、身は外地にあっても、本籍にもとづいて法の適用を受けるのである。

だが本籍にもとづく法の適用も必ずしも明快ではなかった。法的権利義務をいうとき、最も突出しているのは参政権と兵役である。これを例にとると、外地の内地人は建前上そのいずれをも享受する。しかし外地に寄留する内地人のための「不在投票」制度のなかった時代2)において、かれらは実際上、参政権がないのと同様であった。その反面、本籍に基づいて兵役に服する義務があったのである3)。このように植民地在住の内地人は法の二元性のゆえに、不当な待遇を受けた一面がある、加えるに、台湾は日本帝国にとっては遠隔の辺地であることにより、官吏は「湾吏」とも称され、内地では帝国政府の官吏にくらべて一段下位にあるとみられたふしもある。

しかし植民地においては、これら内地人は支配者である。その職業が何であれ、もろもろの便宜を得ることができ、優遇される。植民地人にたいして優越感に浸ることもできる。こうして内地に居住する内地人と同じく本国人ではあっても、劣等感と優越感とが同居する植民地在住の内地人像が形成される。また同じく本国人ではあっても、内地に居住する内地人は、実際には植民地とは直接的関係は薄く、意識せねばならない利害関係は比較的に少ない。ところが植民地在住の内地人は、支配者である反面、職業によっては植民地人とは競争者の関係にある、競争の論理からみれば、対抗する植民地人をいつまでも不遇の境地におきたいとの願望もでてこよう。

つぎに植民地人たる台湾人についてだが、大清帝国統治下の台湾では、「台人」もしくは「台民」という言葉の用例がみられるが、それは住民の九七%を占める漢族系人4)を指すものであって、すべての往民を含めるものではなかった。これら漢族系人は台湾の原住民たる「高砂族」(高山族)を「生蕃」と称し、人間とみなさないことすらあった5)。「台湾人」という呼称が使われるようになったのは、台湾が日本帝国の支配下に入ってからであるが、当初はもっぱら「本島人」との互用句であって、高砂族は含まれていなかった。それが高砂族を含むすべての台湾植民地人を指す意味で用いられたのは、筆者の知るかぎりでは、一九二一年の蔡培火による論文が最初である6)、だがそれが定着するには、さらに長い年月を必要とした7)。

この小論では「台湾人」というとき、それは高砂族を含めるが、そうではないときには、別の表現を使うことにしたい。

 

2 初  期

日本帝国が台湾領有にあたって、台湾住民とのあいだで展開された「台湾攻防戦」では、日本軍の動員数こそ日清戦争の半分であったが、持続期間および戦闘の激しさは、日清戦争に匹敵するものであった。さらにこれにつづく二十年にわたる組織的または散発的武力抗日運動は、植民地当局および在台内地人に深い印象を刻みこんだ。どうしてかくも激しい「台湾攻防戦」を演ずるに至ったのか、その原因は他の機会8)で明らかにしているので、ここでは重複を避けて別の側面からみたい。

端的にいえば、若干の識者を除いて、両者とも相手について全く認識を欠いていた。両者の最初の遭遇は軍隊によってであり、戦さであったところに特異性がある。軍隊の役割は戦うことにあり、また命令に忠実であることについては、日本軍は特に顕著であり、兵士個人の「良心」にもとづく判断の介在は許されない。日本側の考え方としては、台湾は条約にもとづいて獲得した領土であり、その地域において抵抗運動が組織されている以上は、軍隊で鎮圧するほかない。軍隊の役割は敵を殲滅することにある以上、手段は問わない。これが「軍隊の論理」である。

台湾北部の往民は、日本帝国の支配を受ける意思は毛頭なかったにせよ、事態を傍観した。ところが自分たちを守るはずの旧清軍などが敗走し、それが暴民化するのをみてあきらめの心境になり、平和を望んだ。北部での初期の攻防戦が軍隊同士の戦闘に終始したこと、日本軍の台北入城が無血裡になされたのはその明証である。台湾攻防戦は日本軍が中南部に進むにおよんで激化したのであるが、その原因についてはこれも別の機会で述べている9)ので、ここでは触れずに、文化的背景の相違に由来する抵抗について述べるにとどめたい。

中南部での抵抗運動はゲリラ戦の形をとっているばあいが多かったこともあって、日本軍にとっては「草木皆兵」の観があった。そこで「戦場の心理」がはたらき、「見えない敵」への恐怖心から、皆殺し的な無用の殺戮がおこなわれる。また、殺伐たる戦場では獣欲がむきだしになる、これにたいして、自分の家族が殺され、妻女姉妹が汚辱されるのをみれば、たとえ懦夫であっても決起する、かように、台湾住民からみれば、日本人は異常に残酷だと映る。「わが民皆思うに、清官すでに去り、ただ平和を望むため皆投降せり。豈計らんや、この賊〔日本人〕人の類にあらず、意の赴くままに虐を逞しうし、罪の大小を問わず、善悪の別なく、黒白を分けず、唯一途殺戮せり」10)。これが日本帝国との出会いにおける台湾住民の印象である。虐殺や放火、汚辱とは別に、日本側が「武士道」とみなす行為も、文化が違えば残虐としか目に映らないこともある。たとえば嘉義攻防戦において、日本兵士はΓ重傷に喘ぐ敵兵や、意外に多かった残留市民の悲惨な重傷者は、見るに忍びず、止めを刺して歩いた」11)、これが台湾住民の目に善意として映るはずはない。

ただし、日本兵士が重傷の戦友をも刺したのであれば、台湾住民に違った印象を与えたかもしれない。台湾住民がこの時代に懐いた恐怖心は三児の脳裡にも深く刻みこまれ、晩年に至っても強烈な印象として残った12)。大和民族が他民族に比して残酷だとの証拠はない13)が、現実に被害を蒙った人たちからみれば、残酷だと思うのは当然であろう。

民衆の決起を促す檄文は抵抗運動者の心情やものごとの理解のしかたを知るのに役立つだけではない。檄文は民衆の同調を求め、共同行動を呼びかけるものであるのだから、その内容は民衆が納得しやすいように工夫される。それゆえに檄文は民衆の考え方を類推する手段のひとつたりうる。かような観点によって、いくつかの例をとりあげてみたい。

抗日運動者翁は決起にあたって、日本人の「十大罪」を挙げた14)。

   第1条大罪 上天を敬せず、神明を敬せず。

   第2条大罪 孔子を敬せず、字紙を惜しまず。

   …………

   第7条大罪 日本の処置乞食に同じ。

   第8条大罪 放尿するにも銭を貪る。

   第9条大罪 売買に税を貪る。

   ………… 台湾住民の信仰する神々を、同じように敬おうとしない日本人への憤りを表わしたのが第1条の大罪である。自分の神であっても、他人にとっては単なる偶像や迷信にしかすぎないことを、かれらは夢想だにしなかったのではなかろうか。のちの皇民化運動時代に、総督府が台湾の宗教の潰滅を計ろうとしたのと対をなす「宗教」の本質をしらないことの表われである。別の観点からいえば、宗教独自のエゴイズムがあるにせよ、異なる宗教へもある程度の配慮が要求される好例であろう。「孔子」についても同じようなことがいえる。日本人も孔子を尊敬していたが、台湾の漢族系住民がそれを知っていたかどうかは不明である。しかし、かれらは日本人が漢族系人のように孔子を神の域まで進めていないことに不満を懐いた。当時の漢族系住民は、道路に散乱している紙片に文字がはいっていれば、それを拾い集めて焼却するほどであった。古い時代の日本においても、字の書かれている紙を鄭重にあつがう風習があったが、文明開化後この風習は衰え、それを粗末にするようになった15)。「文字を大切にしない日本人」は、漢族系住民には、非文化的野蛮人だと映ったであろう。

第7条が具体的になにを指すのか明らかではないが、おそらくは物事の処理のしかたがあまりにも几帳面であるので、性格的にルーズな面のある台湾住民からは小心者にみえたであろうし、乞食みたいだということになる。日本人を軽視した表現である。屋外での放尿は日本人男性もよくやることだが、警察がこれを取締るのは内地でも外地でも同じである。ところが公衆便所が皆無に等しい当時の台湾では、屋外での放尿はきわめて自然であり、どうして罰金を課されるのか、台湾住民にとっては理解に苦しむことであった。その不満をあらわすのに、罰金や税金をあたかも官吏が着服してしまうかの如き表現になっているところが興味深い。官吏になることが巨富を積む道につながった清朝時代の様相から連想したのであろう。かような先入観念に則って、日本人官吏は貪婪だとかれらは思ったのである。

また余清芳の檄文にいう。「生霊を苦しめ、民財を剥削す、荒淫無道にして綱紀を絶滅せり。民を治むるに強制を以てし、その貪婪倦むことなし。禽面獣心にして、その性全く豺狼に等し」16)。総督府および在台内地人は、日本が文明国で、台湾の植民地人は無知蒙昧だとしたが、漢族系台湾人も日本人を野蛮人とみなしていたことがわかる。

そもそも、「植民地」という言葉には陰湿な響きがこもっている。日本帝国政府も台湾総督府も憶面なく「台湾は植民地である」と公言してはばからなかった。本国では良識的な内地人の一部は、「植民地」という言葉を口にすることに異議を唱えた17)、しかし初期の台湾住民のあいだでは、この用語に疑問や異議をはさむものはいなかった。「敗れた側」には抵抗か屈服あるのみで、「植民地」という用語へのこだわりはなく、「日本帝国臣民」としての権利要求は、念頭に浮んでこなかった、

支配者と「敗れた側」との法的縁組が許されなかったことも、この時代の特徴である18)。かようなことは「一つの国家」のなかで、異民族としての民族感情をつのらせたであろう。もちろん、婚姻関係は異民族間の相互理解と融合に大きな効果をもたらすが、一般的には相手の言語を解するのが捷径である、総督府は初期において、植民地人に日本語を教えた反面、在台内地人に各種台湾語の修得を奨励した19)。たがいに相手の言語を尊重すれば、そこから相互の理解と信頼感が生れる。ところが官吏の台湾語学習は行政事務遂行のためであり、台湾語を劣等視したのが実情であった。たとえば法院で、裁判官は台湾語通訳(被告ではない)と直接言葉をかわすのをけがらわしいとして、そのあいだに、さらに中国官話の通訳をおいた20)。自分の母語を卑しめられて憤慨しないものはいまい。

3 中  期

初期における最後の武官総督明石元二郎は一九一八年に赴任したとき、声高に同化主義を唱えたが、やつぎばやに植民地人待遇改善策がうちだされたのは、中期に入り、一九一九年に文官総督田健治郎が赴任してからである。具体的には教育の拡充、行政措置による内台婚姻の「合法化」、日本語常用者に限っての内台人の小学校共学、台湾人のみの株式会社の設立許可、台湾人の総督府評議会員および高等官への登用などがあげられる。台湾人を同化し、その地位を内地人のそれに近づけようというこの政策は、一般に「内地延長主義」と呼ばれる。もっともこれは漢族系台湾人にたいするものであり、高砂族系人の同化は後期の一九二八年ごろになってから具体化されるようになった21)。ともあれ、内地延長主義は必ずしも在台内地人の支持をうけたわけではない。台湾人を同化し、内地人に近い権利を与えることについて、多くの在台内地人はあたかも「台湾が赤化するものの如く」考えた22)。

漢族系台湾人は自分たちの地位向上に異存はあろうはずはない。だが、同化となると反応は違ってくる。たとえば日本は長子相続制だが、台湾は男子均等相続制である。内地延長主義とはいっても差別の完全撤廃ではなく、また、漢族系人の長期間にわたって培われた慣習は容易に改変できるものではない。民法の施行に特例が残されたのも、かれらの反対を考慮したものであり、植民地当局が必ずしも猪突猛進したわけではなかったのである。 しかし問題は相続制度のみではなかった、そもそも「同化」の善悪についての認識に大きな隔たりがあった。総督府は台湾人を「教化善導」して、内地人と「醇化融合」せしめることを善政だとする。ところが自ら台湾人の喉舌だと任ずる漢族系台湾知識人を主体とする政治運動者は、台湾が独自の文化を保持し、台湾議会を設置して、やがては植民地台湾の自治を達成することを善とする。総督府は、台湾の自治は、台湾が帝国から離脱して独立することへの布石だとみるのにたいして、政治運動者は他意はないと反論する23)。 一九二一年から三四年にかけて展開された台湾議会設置運動は、議会設置に名を借りた、日本文化と漢文化を背景とする台湾文化、大和民族主義と漢人意識を基礎とする台湾人意識との相克であった。初期の武力抗日の錬磨を経て、台湾にナショナリズムが方向を模索しつつ芽生えてきたといえよう。

総督府が日本文化を宣伝しても、台湾の政治運動者は醒めた目でこれをみる。漢族系台湾人政治運動唯一の機関誌『台湾青年』の編集発行人蔡培火はいう。「風習から云えば、纒足、吸煙、辮髪、、坐畳、生食、束腰、血闘、飲酒等の如なことは本質的の陋習であって、無智頑迷でない限り誰も排斥する」24)。日本ではすでにチョンマゲがにかわり、仇討ちにみられる決闘もみられなくなったことを知っているうえでの発言だが、日本文化にも陋習があることを指摘し、とくにサシミの摂取や正座を清朝統治時代からつづく台湾の陋習たる纒足、辮髪と同列においたことは、かれの同化への反感を表現したものである。生食を例にとれば、衛生状態が悪く、かつ亜熱帯の台湾では健康を害するのは事実であり、それを陋習として捉えるのは当然であった。かれ自身、食指を動かさなければ、同化のしるしとしてサシミを強制的に食べさせられることもあるまい。かれの狙いは、台湾の風俗習慣が抹殺されるのを防ぐことにあった。かれはいう。「最も大きく最も深く害毒を流したのは、無理なる言語統一の結果、遂に人智の発達を妨げたことである。同一主権の下に在り、同一国家の中で生活する人民が、同一の言語を使用することは便利であるに相違ない。然し同一の言語を使用することに依って全国民の思想を統一し得ると信ずるは大なる誤りである」25)。

これら政治運動者は在台内地人に激しい苛立ちを感じた。漢族系台湾人が日本に同化しようとして「台湾同化会」をつくったら、在台内地人はこれを潰滅せしめようと狂奔し、漢族系台湾人が独自性保持の観点から台湾議会設置を要求したら、逆に同化を迫る。『台湾青年』から始まり、『台湾』に改称、さらにそれを承継した『台湾民報』は、台湾にアイデンティティをもとうとしない在台内地人を激しく非難した。「日本人は一八万人もいるが、台湾に永住しようとは思っていない。十のうち八、九はカネをもうけて本国に帰り、安楽に暮すことを考えている。台湾を老後養生の地としないのみならず、子孫の永住地たらしめようともしない」。そしてさらにいう。「極言すれば、『台湾で生れた者は、みんな台湾入だ』これは自然の法則であり、これが実現できれば、日台人の区別はなくなるのだ」26)。

一九二六年の段階でなされたこの指摘は実に重要である。第一に、内地人に向い、「台湾人になれ」と要求するほどに、かれらの台湾人意識が成長したこと。第二に、内地人と台湾人との接触と摩擦を経て、両者の関係を新しい次元に止揚しようとする動きが、日本人と台湾人とのそれぞれのあいだに生れたことである。一方が台湾人を日本人たらしめようとし、もう一方は日本人を台湾人たらしめようとした。第三に、これは台湾人意識の形成、または台湾民族主義のそれと関わってくることであるが、「台湾で生れた者は、みんな台湾入だ」という考え方は、必然的に、すべての高砂族も台湾人であるとの結論に導かれる。『台湾民報』の如上の主張をみるたぎり、高砂族は「台湾人」として認知されたと解釈できないこともない27)。しかし、葉栄鐘等著『台湾民族運動史』の記述、台湾議会は「……由台湾住民(不論内地人・本島人或是帰化蕃人)所構成的」から判断すれば、かれらが「台湾人」として認定しているのは平埔族のみであって、高砂族は除外されているようである。

実はこれに先立って、漢族系知識人の高砂族観に重大な変化がみられた。一九二一年の第一回台湾議会設置理由書は、「平埔族」と高砂族とを議員選挙有権者のなかに含めている28)。平埔族は高砂族にその源を発しているが、オランダ統治時代に、当時の支配者であるオランダ人に接近してその影響をうけ、清朝統治時代になると漢族系人に同化して、その姓名も漢族系のそれを使うようになった人たちである。漢族系人に同化した高砂族と規定してよかろう。漢族系人政治運動者は一九二一年の段階になって、平埔族および高砂族の権利を認めたわけだが、この段階では、政治的権利を認めても、前記の蔡培火論文のように台湾人として認めたかどうかは明らかではない。それが五年後の機関誌で、「台湾で生れた者は、みんな台湾入だ」という表現で、平埔族と高砂族のいずれも台湾人の範疇に入るとしたのである。これはきわめて重要なことである。過去における高砂族にたいする漢族系人の態度は台湾史の拭い去ることのできない恥部であり、長年つづいた高砂族への蔑視は漢族系人の漢文化的傲りに由来するものであった。この傲りは、漢族系人の高砂族観の転換期であるこの時期に至っても、完全には消えたとはいいがたい。日く、「彼の原人の如き無知なる蕃人に対し……」29)曰く、「四千年の歴史、独特の文明、燦然とした文化、文字の国の国民たる漢民族の子孫の一部は吾々台湾人である。……故に台湾人の能力は固より彼の蒙昧野蛮たる生蕃又は歴史のない民族とは同日の論ではない」30)。

自分の種族の神話を「歴史」の範疇に入れる反面、他種族の神話を無視する傲慢さ、台湾の歴史を漢族系人の台湾移住から起算する侵略者然としたこれら漢族系知識人が、なぜ一九二〇年代に、その持ちつづけてきた従来の高砂族観とは異なる主張をするようになったのか。それは高圧的な総督府と在台内地人の鏡にわが身の姿をみいだしたからであろう。

一九〇七年から二四年にかけて、アフリカ合衆国において、さまざまな排日移民法がつくられた。これはロシヤ帝国をさえ打ち負かした「大日本帝国」の民族的矜持を逆なでするものであり、日本帝国臣民はこぞって合衆国の非をなじった。台湾の漢族系人政治運動者は、日本本国人のこのような反応を奇貨としてとびついた。人種差別・民族差別を不当だとするならば、日本人はどうして朝鮮人・台湾入を差別するのだ、とがれらは声を高くして日本人の矛盾を突いた。

これはたしかに正論である。だが正論を掲げる政治運動者自身、漢族系人であることを以て、高砂族を蔑視していたのである。これでは批判の対象にしている内地人と同じ誤りを犯すことになる。平埔族と高砂族とを含むすべての「台湾で生れた者」は台湾人であるとの考え方は、対日批判から派生したものといえよう。この考え方はいろいろな面で、時代を先取りしたものである31)が、在台内地人についていえば、当時の情勢下で、支配者としての立場にいた在台内地人が、被支配者である「台湾人」に身分を貶すことはありえなかった。漢族系人政治運動者が設置請願していた「台湾議会」そのものは、在台内地人を含める「台湾住民ヨリ公選セラレタル議員ヲ以テ組織スル」(「台湾議会設置請願書」)のであり、事実上本国での参政権を奪われている在台内地人に、台湾という限られた地域にせよ、議員になって活躍したり、議員選挙権を行使する権利をもたらすはずのものであった。台湾議会設置請願書に署名した在台内地人もなくはなかったが、概して冷淡であり、双方共通の利益を計るよりも、台湾人の地位向上を警戒したのである。

在台内地人は全体としての内地人の「威厳」を保持するため、人力車夫とかのような「賤業」につかなかった。それは植民地人の生業に属するとされた。修学旅行で内地に到着した一台湾大学生は波止場で沖仲仕がはたらいているのをみて、びっくりして叫んだ。「おい、見ろよ、内地人がをしているぞ」32)。

台湾人の忠誠心について、総督府は不信からなかなか抜けだせなかった。台湾の治安状況、換言すれば台湾人の内地人にたいする態度について、たとえば一九二三年の段階における田総督の認識では「民心は頗る平穏」であり、「台湾思想の悪化は、概ね在東京学生に止り、台湾に在りては数人に過ぎず。……一般人民は、極めて忠実順良にして、一視同仁の聖恩に感じ、決して危険の虞なし」というものであった33)。だが、些かでも事件が起きると、台湾攻防戦にはじまる一連の武力抗日事件の記憶が官吏の脳裡をかけめぐる。たとえば初審では全員無罪になった一九二四年の台湾議会期成同盟会に関する治安警察法違反事件の論告は、大敵を前にしたような仰々しいものであった。「台湾人が官憲に反抗することは清国時代に始まり、日本の台湾領有後大正五年までつづいた。台湾が平穏に治っているとはいえない。明治四〇年の北埔事件は内地人および官憲にたいする反感により、台湾を内地人から奪取する目的で起こったもので、台湾の民情はこれからおしはかることができる。ことに西来庵事件はその爆発するまで、一人も内地人に内通した者のなかったことは注意すべきことである。この事件は大正五年にようやく平定に帰したが、内地人は台湾人にたいして安心することはできない」34)。

この法廷での三好一八検察官長のつぎの発言は同じ事物も視点がかわれば、解釈に雲泥の差ができることの好例である。漢族系人政治運動者はガンジーを尊敬し、各々の家にガンジーの肖像を掲げていた。大英帝国にたいする非協力・不服従運動の指導者として評価してのことである。これに着目した三好検察官長はいう。「ガンジーは親英主義の人で、アフリカ戦争に勲章を賜わったこともある。彼が英国に反抗する所以は別にある。被告らはガンジーの良い点を学ばずして、悪い点をまねるのは甚だガンジーを解せぬもので、本当に本国に誠意をつくしてなお容れられないのであれば、ガンジーのように憤るのもよい。台湾のガンジーは辜顕栄でなければならないのだ」35)。辜といえば、「御用紳士」の代表格で、数多くの利権を与えられて巨富を積んだ人である。これを台南のユーモア詩人謝星楼はその詩「新声律啓蒙」で諷刺し、一世を風靡した。詩にいう。「辜顕栄がガンジーなら、こわれシビンはヒスイの壷で、イモの切干しもフカのヒレ」36)。

もちろん内台人相互の関係は矛盾ばかり孕んでいたわけではない。中期に内地留学した台湾人青少年は、台湾にはなかったのびのびとした空気に触れ、それがゆえに比較的に余裕を以て、日本のよさを体得することができた。日本文化には、日本文化なりのよさがある。植民地人としての悲哀をなお懐きながらも、比較的に、客観的に日本をみることのできる心眼が培われていった面があったことは見逃せない。日本で高等学校、大学を終えた林茂生は、心情的に日本帝国臣民になって帰台したといわれる37)。従来の御用紳士とは違ったこのような親日的台湾人が生れたのも、中期に入ってからである。

林茂生は帰台四年後、台南にある総督府商業専門学校教授に任命、従七位・高等官に補され、最終的には台南高等工業学校教授・高等官二等になっているので、例外だとするむきもあるかもしれない。しかし、台湾では容易に内地人の同調を得ることのできなかった台湾人政治運動者は、日本本土では学者のほかに、若干の政治家の支持を得ることができた。貴族院議員には江原素六、山脇玄、渡辺暢がおり、衆議院議員には田川大吉郎、清瀬一郎、神田正雄、中野寅吉、土井椎太、清水留三郎がいる。かれらによる台湾人政治運動への援助が、遠く台湾からこれを注視していた台湾人に好感を与え、それが「日本」への好感を誘発した面があったように思える。政治運動指導者の一人である林献堂が政治的に怏々として楽しまないときには、「日本」へいって「避難」したのも、その表われのひとつといえるかもしれない38)。

「民族」(nation)の概念が台湾に導入され、政治上のイシューとして問題化されたのは、まさに中期にはじまった台湾議会設置運動と軌を一にしているが、それは台湾の歴史、住民構成、さらには政治を反映して、混沌たる様相を呈した。漢族系台湾人政治運動者は台湾に「漢民族」の概念を導入し、台湾人を漢民族の一支流として定義し、台湾人意識の高揚につとめた。また一九二八年に結成された台湾共産党は、同年発表した政治大綱において「台湾民族」を既成事実として論じている39)。他方、台湾人知識人のなかには、「日本人化」の徴候もみえるようになっていたのである。「異質の文化が接触したとき必ず摩擦が生じ、混乱や対立もおきようが、同時にそこから新しい価値も生れ、新しい文化も生れてくる」40)という現象が生じはじめたといえよう。

十数年も内地に留学し、官吏として台湾の一地方官庁に奉職した台湾人青年「陳清文」と結婚した本国の内地人女性の台湾での生活を素材にした小説『陳夫人』は、一九二〇年代後期から三〇年代にかけての「異文化の出会い」をあつかった名著であり、台湾人知識人の新しい文化への傾斜の一端を紹介している。「陳清文」は内地での長年の生活によって旧来の礼儀作法を忘れ、「失態」を演じた。しかしかれは恥かしく思わずに、むしろ旧来の作法を墨守する人びとを「一段低く見てゐた。西洋式のエチケットでその夜のやうな不器用を演じたなら真紅になって狼狽したであらうが、台湾の礼儀作法のしきたりに疎いことには一向忌憚も羞恥も感ぜず、むしろ得意な風さへみえるのである」41)。

4 後  期

日本人への対応において生れた台湾人のナショナリズムは、中期の終りごろから幼い状態のまま混迷の様相を呈したが、日中戦争とそれにつづく太平洋戦争とほとんど時期を同じくする後期に入ると、それは混迷をつづけながらも新たな展開をみせるようになった。端的にいえば、中期に導入された漢民族主義が夭折する傾向をみせ、台湾人知識人の日本化と、これとは逆に、「日本人」に対応する「台湾人」としての意識とが同時進行の形で強まっていった。台湾人意識のばあい、台湾に導入されて間もない「漢民族思想」に感染されにくかった非「知識人」や農村で特に顕著であった42)。

満州事変に始まる日中戦争とほぼ期を同じくするこの時期に展開された台湾での皇民化運動、皇民奉公会の諸運動、具体的には新聞漢文欄の廃止、国語常用運動、台湾芝居の禁止、偶像・廟の撤廃、神社参拝の強制、旧暦正月行事の禁止、改姓名などは、日中戦争の遂行上、台湾人から漢族としての諸要素を取り除こうとした日本帝国政府の文化対策である。漢民族の国―中華民国との戦争が戦われているときに、日本帝国臣民たる台湾人に漢民族としての意識があっては支障をきたすし、漢民族文化を保持するのは不都合であるとの考慮にるよものである。しかし、これは日本帝国政府の過剰反応といえる。なぜなら、一般の台湾人民衆にとって、漢文を用い、自分の姓名を保持し、台湾芝居をみ、寺廟に参るのはすべて「自分の文化」であって、それは漢民族意識を伴うものではなかった43)。したがって、台湾総督府による台湾文化への抑圧は、台湾人意識を逆にかきたてる一面を持っていたのである。

しかしながら、かような文化面での抑圧が台湾人意識の直線的高揚を促進したともいえない。このころになると日本帝国の台湾領有は四十年を越え、台湾人の「日本」への接近がすすんだ。それは主として公学校義務教育の普及、中等教育の拡充、内地留学生の増加などによって、言語上の牆壁が台湾人の日本語学習を通じて大いに除去されたことによる。また、より高度な知識がある国を媒体にして導入されるのが恒常化したばあい、無意識のうちにその国への評価が高くなり、畏敬の念すら生れるのが普通である。加うるに、文化は支配関係を反映し、被支配者は自分の文化を下位にあると思いがちであることも事実である。黒い肌を残しているアンティル人は覚醒後、ニグロの美しさをたたえるようになったが、それ以前は種族的に近いアフリカ人を軽蔑し、支配者である白人(フランス人)にたいして「私の肌を気にかけないでほしい」、それは陽が焼いたからであって、「私の心はあなたの心と同じように白いのです」と自分のアイデンティティをむしろフランスに求めた44)。

これは一種の「陳清文現象」であるが、台湾におけるかような現象は後期に入ると加速度を増した。台湾における産業、衛生、交通、教育など各方面の向上は明らかであり、台湾人のあいだに、日本帝国による支配を肯定する空気が生じてくる。それに、日本帝国は世界五大強国のひとつでもあった。利に聡い人たちが積極的に身も心も帝国に捧げ、安心立命を身上とする人たちが潮流に身を委ねるのも時の勢いであった。長年にわたり、政治運動の中心人物の一人として活躍してきた林呈禄も皇民奉公会の高級幹部になった。かれは機関紙『台湾民報』の編集発行人をつとめ、『台湾新民報』に改称した同紙が台湾総督によって強制的に『興南新聞』に改称されたあと、その総経理になった人物である。晩年にかれは皇民奉公会の高級幹部に就任した経緯をこう弁解している。「日本人が狂ったようにいわゆる皇民化運動を推進し、皇民奉公会をつくってこの運動の活動主体にし、時の各日刊新聞の責任者に同会の幹部になるよう命令した。わたくしは当時、興南新聞の責任者であったので、皇民奉公会の生活部長に任命された」45)。皇民奉公会は、総督府以下各級行政組織を包み込む形になっており、「部長」は総督府局長級である。『台湾民報=台湾新民報』は林呈禄が自負するように「民族の立場を堅持し、日本人の統治に反対」46)する性質を持つだけに、林の転身は歴然としている。総督府による強制的「命令」云々は遁辞47)にすぎない。

そもそも漢族系台湾人は中国大陸からの移民であるというよりは、戦乱や飢餓などのやむをえない事情で中国大陸に見切りをつけて渡台した人びとの子孫である。かれらは祖先の出身地を知っていたとしても、中国を「祖国」だとは思っていなかった。「祖国」云々は、憎っくき日本帝国と対抗するのに、大きな背景が必要だとの打算によって、一部の政治運動者が導入した観念であるが、一般大衆に浸透することなく終わった。政治運動者にしても、頼りとする「祖国」が日中戦争での相継ぐ敗退で、その存亡さえあやふやの状態下では漢民族の一員であると主張したところで、民衆はついてこないし、本人にしても空しさを感じたであろう。転身は時の勢いであったのである。

日本化を示す「陳清文現象」は時を経るにしたがって顕著になったが、これもそれに先立つ漢民族主義導入のばあいと同様に、地域的には都市に、そして教育程度の面では知識人に多かった48)。いずれのばあいも新思潮に比較的に敏感で変わり身が早く、利に聡いからである。教育を受けていないか、もしくは初等教育しか受けていない人たち、さらには農民は土着性、保守性が強く、かれらの集団意識はもともと地域的・家族的な郷党意識に限られており、台湾全土を範疇とする台湾人意識の形成すら交通網の飛躍的発展をまたねばならなかった。いわんや実感を伴わない中国との連帯を示す漢民族主義を受容しうるはずはなく、高圧的な総督府の差別政策の下にあって自分たちが「内地人」と同じように日本人の一員たりうるとは思わなかった。「自分たちは、台湾人だ」という台湾人意識の担い手はこういう人たちであった。

日本の文化を強制し、台湾人を身心ともに日本人たらしめる皇民化運動、皇民奉公会にたいする阻止力になったのは、まさにこういう人たちであった。この人たちの個々の社会的影響は小さい。しかしその人的資源は広汎である。総督が長谷川清に変わったのを機に台湾在来の宗教、祭祀、慣習、郷土芸能、生活方式などの面で、統治の主旨に反しないかぎりこれらを容認するようになったのは、長谷川の見識もさることながら、かような台湾人意識への妥協である。

台湾在来の文化を強制力で以て破壊はしないが、日本の文化は強力に推し進める。これが長谷川総督の方針であった。一九四〇年に始まった改姓名は、最終的にどれだけの数になったかは明らかではないが、一九四三年の段階では十万人だったといわれる49)。この数字は当時の状況からいえば決して大きくはない。これは強制の度合が小さかったからであろう。姓名の変更は、それぞれの過去を否定し去る一面をもっており、それこそ身も心も日本人になったことを形で示す踏み絵であった。改姓名は官庁、学校、内地系会社に勤務する台湾人にとっては、昇進を狙うのに都合がよかったし、内地人との往来において故なき差別から逃れる手段でもあった。しかし、必要性を認める本人にとってそうではあっても、それは家族単位でおこなわれるので、日本語の話せない日本人が出現する。「台湾人ではなく、日本人でもない」奇妙な状態は張文環の小説で描写されているとおりである50)。

おわりに

文化の移植は、それが強制によるかぎり、長い年月の錬磨を経ねば定着するものではない。台湾人とは縁もゆかりもない神棚は強制されたものであるがゆえに、台湾人はやむなくそれを仏檀のそばに並べておくが、強制力が喪失したとたんに例外なしに棄てられた。キリスト教は台湾人の在来宗教ではなかったにもかかわらず、台湾に根強くづいているのと好対照をなしている。

文化は強制によらない交流の形でなされるばあいに「適者生存」によって残り、相手の文化の一部になる。これも一種の同化であり、相手のほうからみると新しい文化の創造につながる。畳は多湿の台湾には適さないとされたが、その多目的利用価値のゆえに、現在も残存している。当初、台湾人から不衛生だとの烙印を押された生食も衛生の向上した台湾では普遍化した。

強制されたときは反感を呼んでも、その文化の効用が評価されれば、相手に受容され、その文化の一部に組みこまれる。そのもっとも典型的な例が日本語である。名詞が日本語読みのままで台湾語の語彙になったり51)、名詞が、字はそのままで台湾語読みになったのもある52)。日本帝国の支配から離脱して三十四年経た一九八〇年の台湾で、母親と二人の幼い娘を暗殺されたある台湾人政治家は漢文で追悼文を書いたが、母の霊に呼びかけるのにわざわざ日本文字を使い、「かあちゃん」という表現を使った。そうしないと、母親への思慕の情をあらわせないと思ったからであろう。この一家は元は貧しい家で、かれが日本帝国の支配を受けたのは四歳のときまでであった53)。

台湾人の日常会話は台湾語だが、そのなかに日本語が混ざり、一種の異様な話し方になる。たとえば、「Linおかあさんu khi学校bo?」とは、「君のおかあさんは学校へ行きましたか」のことである。また、台湾語を混ぜないで日本語を話すばあい、台湾人はしばしば台湾語の構造に沿って話すで奇妙な日本語になる。これが生活習慣の相違とともに、在台内地人の嘲笑の的になり、他方で台湾人は馬鹿にされたと感じ、反感をつのらせた。

日本語の普及は強制による側面を持っていたが、皮肉なことにそれは台湾人同士の意思疎通に貢献し、「台湾人」としての共同意識を形成する一助になった。そもそも高砂族系台湾人は九種族にわかれており、相互間に共通語はない、漢族系台湾人の言語は福G話と客話とにわがれ、また福G話には泉州訛りとH州訛りとがあり、客話にしても桃園のそれと潮州のとでは微妙な相違がある。かような言葉の相違する人びとにとって、日本語は支配者の言葉ではあるが、台湾各部族のいずれにとっても「第三者」的言語であり、各部族相互間に微妙なしこりを感じさせない「共通語」としての役割を果たしたのである54)。

ところで、在台内地人はどうだろうか。五〇年にわたる日本の台湾支配は、かれらをして無意識のうちに台湾の風土を自己と同一視せしめた面もある。台湾総督府最後の主計局長塩見俊二は終戦時、出張で東京に在留しており、日記にこう記している。「台湾に在るべかりしや/東京に在るべかりしや/台湾に帰るべきや/東京に在るべきや/台湾の人々と共に苦しむべきや/東京に在りて台湾を反省し台湾を愛すべきや/帰らう/断じて帰らう/台湾は我が故郷なり、心の故郷なり/苦しみよ来れ、台湾にて之を享けん」55)。

これを一高級官僚の独特な感傷として捉えるべきではない。在台日本人のある者は定着の目的で渡台し、ある者は定住して四代を経た。かれらには特権に安住していた而もあろうが、長年のあいだに内地とは疎遠になり、台湾の風土に染まり、心理的に台湾住民になった一面がある。一部の内地人は台湾語を解してこれを操り、友人関係もできた。台湾人の話す日本語の発音を嘲笑しているうちに、その発音が日本人にとりついてしまった例56)が示しているように、在台内地人の台湾化も相当に進んだ。台湾が日本の主権から離れることを知っていながらも、引き続き台湾に定住する意向を持っていた日本人の数は二〇万人に達し57)、軍人を含む日本人総数の四〇%を占めたのである。軍人を除くと比率はさらに高くなり、五〇%に達する。かれらは日本文化を台湾に導入したが、いつの間にか自分たちもある程度台湾化していたことに気付いたのは本国に引き揚げてからであった。日本本土に上陸した一女性は、持ち物を盗まれ、自分自身日本人でありながら、単なる「バカヤロ!」ではなく、「日本人のバカヤロ!」と叫んだ。それまで彼女は日本本土の土を踏んだことはなかった。彼女は述懐する。Γ台湾の人を恋しがるのは、日本人を信用できないことの反比例であるのか」58)。


l)なかんずく特記すべきなのは、つぎの著作である。春山明哲・若林正丈『日本植民地主義の政治的展開 一九八五‐一九三四―その統治体制と台湾の民族運動』アジア政経学会、一九八〇年、許世楷『日本統治下の台湾―抵抗と弾圧』東京大学出版会、一九七二年。I照彦『日本帝国主義下の台湾』東京大学出版会、一九七五年。

2)不在投票制度は大正一四年の衆議院議員選挙法改正(法律第四七号)によってはじめて設けられたが、それは船員などの人たちを対象とするものであった(大正一五年勅令第三号「衆議院議員選挙法施行令」第二六条をみよ)。外地在住の内地人は内地にもどり、同一市町村にその年の九月一五日まで引続き一年以上住居を有するばあい、参政権があるとされた。大正一五年法八二号による改正で、それは半年に短縮された。

3)召集令状は外地における寄留地に直接送付される。

4)漢族もしくは漢人はもともと混血の種族である。たとえば漢民族主義者呉主恵による『漢民族の研究』酣燈社、一九四九年をみよ。当時の漢族系台湾人には民族意識(national consciousness)があったとの証拠はないので、ここでは「漢民族」とはせずに、「漢族系人」とした。

5)「蕃肉」は滋養に富むとのことで高砂族を殺してその肉を喰い、もしくはそれを対岸の中国大陸に輸出することさえあった。

6)蔡培火「台湾教育に関する根本主張」『台湾青年』三巻三号、一九二一年九月、四一頁。同誌は台湾青年雑誌社によって刊行されたものであり、以下とくに明記しないかぎり、同雑誌社の刊行によるものをいう。

7)日本統治時代に漢族系人と高砂族系人との融合は徐々に進展したが、高砂族系人を完全に「台湾人」のカテゴリーに包含するようになったのは、第二次大戦後の台湾民族主義者によってである。

8)9)拙著『台湾民主国の研究一台湾独立運動史の一断章』東京大学出版会、一九七〇年。

10)台湾省文献委員会編・刊『台湾省通志稿』巻九、革命志、抗日篇、四九頁。

11)石光真清『城下の人』中公文庫、一九七八年、二九八頁・傍点は筆者。

12)体験者の記述による。楊肇嘉『楊肇嘉回憶録』全二巻、台北:三民書局、一九七七年、上巻、四頁。

13)ナチスドイツ、満州でのソ連兵の暴虐さ、なかんずく中華民国軍が一九四七年三月に、そのいうところの「台湾同胞」にたいしてなした大虐殺を想起されたい。

14)台湾憲兵隊編・刊『台湾憲兵隊史』一九三二年、七七‐七八頁。

15)志波吉太郎『台湾の民族性と指導教化』台湾日日新報社、一九二七年、一三〜一四頁。

16)前掲『通志稿』革命志、抗日篇、一〇三頁。

17)春山・若林、前掲書、35頁。

18)ただし、非正式の婚姻は可能であった。たとえば辜顕栄の正妻は台湾人だが、その妾は内地人であった。戸籍上、妾は同居人として記載される。

l9)早くも一八九五年に「土語講習所」が設けられ、また翌年に設立されたΓ国語学校」は教員養成や台湾人への日本語教育にとどまらず、内地人に台湾語を教える機関でもあった。台湾教育会編・刊『台湾教育沿革誌』一九三九年、二頁。

20)竹越与三郎「台湾統治志』博文館、一九〇五年、三一〇頁。

21)前掲『台湾教育沿革誌』四九〇頁。同書についての拙書評を参照されたい。『台湾青年』(台湾独立聯盟発行)一九八三年五月号、三〇頁。

22)山崎繁樹・野上矯介『台湾史』宝文館、一九二七年、五六四頁。

23)台湾総督府警務局編・刊『台湾総督府警察沿革誌』第二篇、中巻、一九三九年、三一九〜三二四頁を参照。

24)『台湾青年』一巻二号、一九二〇年八月、七一頁。

25)台湾雑誌社『台湾』第三年六号、一九二二年九月、三八頁。

26)台湾民報社『台湾民報』一一一号、一九二六年六月二七日、巻頭言。

27)しかし、この「認知」は確固たる信念によるものではなく、付焼刃的な要素もないわけではない。この時期の漢族系人政治運動者の発言には、なおも意識的もしくは無意識裡に高砂族を貶める発言がしばしばみられたからである。注二八、二九、三〇参照。また、たとえば、台湾民族はすでに成立しているとする一九二八年の台湾共産党政治大綱ですら、「台湾民族とは是等南方移民〔筆者注:華南を指す〕が渡台し、結成したものである」としている。前掲『警察沿革誌』六〇一頁。

27-2)葉栄鐘等著『台湾民族運動史』二六六頁。

28)同上、三四七頁、表現は原文では「熟蕃人」となっているが、「熟蕃」とは「平埔族」、「蕃人」とは高砂族にたいする不遜な呼称である。

29)黄呈聡論文、『台湾青年』三巻二号、一九二一年八月、二〇頁。

30)鄭松J論文、同上、二巻三号、一九二一年三月、三一頁。

31)第二次大戦後の台湾民族主義者の台湾民族論は運命共同体としての台湾へのアイデンティティをその骨幹とし、福G人、客家、高砂族のいずれを問わず、台湾で生れた者およびその子孫を「台湾人」であると規定した。これは台湾人一般民衆のあいだに定着した考え方でもある。
在台内地人にしても、台湾在住の期間が長くなるにつれて、その意識に変化がみられるが、これについては、この小論の末尾(一九〇〜一九一頁)を参照されたい。

32)『竹林貫一―その人と生涯』東京:三和機械株式会社、一九八一年、四二〜四三頁。

33)田健治郎伝記編纂会編・刊『田健治郎伝』一九三二年、五〇一〜五〇二頁。

34)35枠本誠一「台湾秘話』台北:日本及殖民社、一九二八年、二四三〜二四九頁参照。法廷での論戦は『台湾民報』二巻一六号、一九二四年九月一日、に詳しい。

36)葉栄鐘等著『台湾民族運動史』台北:自立晩報叢書編輯委員会、一九七一年、二二〇頁。詩の訳文は、王育徳『台湾―苦悶するその歴史』弘文堂、一九六四年、一二一頁。

37)林茂生の存在は揺れ動く台湾人知識人の心理歴程を示すものである。かれは一九二〇年の天長節(大正天皇、十月三一日に、「国民性涵養論」を発表し、台湾人は帝国臣民としての国家観念は皆無だと非難した。これにたいして台湾人政治運動活動家の呉三連は、林茂生のありかたを批判している。『台湾青年』二巻三号、一九二一年三月、五一〜五四頁。ところが、批判を受けた直後の一九二一年十月に台湾の民族運動団体である台湾文化協会が設立されると、林茂生は評議員に就任し、かつその主催する講演会でたびたび講演した。それでいて一九四〇年に皇民奉公会がつくられると、その文化部長になった。

38)葉栄鐘編『林献堂先生紀念集』台中・林献堂先生紀念集編纂委員会、一九六〇年、巻一、年譜、六二頁裏。

39)台湾人意識の形成過程とそれの形成されるに至った要因については、拙著『台湾総督府』教育社、一九八三年、一九〜二一頁を参照されたい。台湾共産党の台湾民族についての記述は、前掲『警察沿革誌』第二篇、中巻、六〇一〜六〇二頁をみよ。

40)衛藤瀋吉編『日本をめぐる文化摩擦』弘文堂、一九八〇年、一二頁参照。

41)庄司総一『陳夫人』通文閣、一九四四年、二四頁。

42)この問題についてはいずれ稿を改めて論じたいが、台湾人知識人の空想的漢民族思想については、史明『台湾人四百年史』(漢文版)、カリフォルニア:蓬島文化公司、一九八〇年、六八八〜六九一頁を参照されたい。

43)現在台湾を統治している中華民国政府は、台湾人を中華民族の一員としているが、台湾語ローマ字による聖書の印刷を禁止し、テレビの音楽番組は一時間番組のばあい、台湾語歌曲は二曲を越えてはならないと規定している。台湾文化を中国のそれと区別していることが窺える。

44)中村哲「ファノンの思想(1)」、法政大学『法学志林』七〇巻一号、一九七二年一二月、六〜一〇頁。

45)王詩琅『林呈禄先生訪問紀録』一九六七年(手稿複写本)、n. p.,三〇頁。

46)同上、二八頁。

47)太平洋戦争を推進した人であっても、戦後になると一転して反戦に努したと吹聴するようになった日本における現象と同じである。ただ台湾のばあい、新しい支配者が日本帝国と戦った蒋政権であるがゆえに、戦後における林呈禄の弁解は一概に非難されるべきではなく、むしろかれの切実な保身術であると理解すべきかもしれない。

48)第二次大戦後、中国国民党支配下の台湾における「中国人意識」の拡散も同じ傾向をみせている。

49)荘嘉農(蘇新)『憤怒的台湾』香港:智源書局、一九四九年、六三頁。

50)張文環『地に這うもの』現代文化社、一九七五年、六頁。

51)タタミ、サシミなどにはじまり、オジサン、オバサンなどの呼称は実に普遍的である。52)「手形」がそうであり、chhiu―hengと発音する。「味の素」の如きは、単なる一商品名を通り越して、「味素(bi‐so・)」もしくはajinomotoの発音のまま、「調味料」の意味をもつ。台湾語化した日本語は枚挙にいとまはない。詳しくは台湾総督府編『台湾語大辞典』(原題台日大辞典)国書刊行会復刻版、一九八三年をみよ。研究論文としては本稿脱稿後に発表された張良沢「台湾に生き残った日本語―『国語』教育より論ずる」『中国語研究』二二号、名古屋:釆華書林、一九八三年六月三〇日、所収がある。

53)この台湾人政治家は省議員林義雄(弁護士)である、方素敵「母親与我」、鄭児玉編著『行過死蔭的幽谷―従林義雄律師的住宅到義光基督長老教会』台北・義光教会籌建委員会、一九八二年、七〜九頁所収。

54)第二次大戦後の台湾では、全人口の七〇%を占める福G系人の話し言葉が一段と普及し、日本語の共通語としての役割は減少したとはいえ、とくに五〇歳代以上の人たちのあいだでは全くなくなったわけではない。また、四〇歳代以下の台湾人のあいだにおける北京語の普及とその役割は上述の日本語のばあいに似ている。

55)塩見俊二『秘録・終戦直後の台湾―私の終戦日記』高知新聞社、一九八〇年、二八頁。

56)尾崎秀樹『旧植民地文学の研究』勁草書房、一九七一年、二六三頁。

57)塩見、前掲書、一〇一頁。

58)岩崎あや「また来る春を待つ」、台湾協会編・刊『台湾引揚史』一九八二年、四〇〜四二頁所収。


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