| 台湾の民族と国家――その歴史的考察 |
| 黄昭堂/台湾独立建国聯盟主席 |
はじめに 台湾の帰属をめぐる国際法上の法的側面や国際政治にからめての論議は、一九四九年の中華人民共和国の樹立を契機にしてさかんになり、国共内戦が国連代表権の争奪に形をかえた時期を通じて注目を浴びたが、代表権問題が解決をみてからは、研究者の関心は中華人民共和国の台湾政策の推移に移ったように見受けられる。国際政治を動かす要素が多様化しているとはいえ、パヮー・ポリティクスが依然として基調になっている現段階にあって、研究者の関心が大国に向くのは避けられないかもしれない。しかし現実には、台湾にはこの・地を支配している中華民国が存在しており、また世界各国の人口比において、上位三分の一以内に位置する人びとが生を営んでいる。この人たちが自分の民族や国家についてどのようなイメージを持っているのか、これを視野のなかにおくのも必要であろう。これは極めて今日的問題であるが、紙幅の関係上、第二次大戦後の状況は別の機会に譲る。 この小論では、台湾の存在が諸国から注目されるようになった一七世紀以降の歴史のうち、この小論の論題に関係あるできごとを、年代順にとりあげて検討したい。そのさい、基本的には台湾人の視点が中心になるが、現実に台湾を統治している中華民国政府系の人たちの見解も検討の対象にする。 一、オランダ、鄭王朝、清国の各時代 (1)オランダ時代の台湾住民 台湾の原住民は、日本では高砂族と呼ばれるマレー・ポリネシア系人である。一六二四年に先駆的宣教師として台湾に入ったライト(D. Wright)は、台湾の原住民は一一の政治単位にわかれているとし、それぞれをShire (州)、Province (省)、Dominion(自治領)として描写している(1)。しかし、これらはいずれも部族社会の域を脱していなかった。 漢族系人の台湾への移民は古い時代からあったとされるが、それは澎湖諸島にかぎられており、最盛期でも澎湖諸島の総人口は数千でしかなかった。最初に台湾本島の一部を領有したオランダの台湾政庁は、大陸から漢族系移民を招来し、その総数は最盛時でも二万五千ほどで、澎湖の人口と合わせて三万ほどだったとみられる。同時期の原住民は約四万であった(2)。原住民は台湾に定住して非常に長い歴史を持つが、かようにオランダの台湾統治末期には、漢族系人がほぼ同じぐらいの人口でこれに加わり、ともに爾後の台湾の歴史を形成していくのである。 由来、福建、広東からの台湾への移民は「漢族」とされるが、その実、華南の住民が純粋な漢族ではありえなくなっていたことは、漢民族主義にたつ研究者も認めていることである(3)。また、これらの移民が渡台したさい、風浪の高い台湾海峡による制約の結果として男性が多く、それゆえに台湾で原住民と雑婚するばあいが多かったことも容易に推察できる(4)。しかし、漢族系移民のあいだには、原住民の文明度は低いとして、これを認めたくない傾向が強かった。 オランダ統治下の一六五二年に、漢族系移民の郭懐一が指導者として、オランダ台湾政庁にたいして大規模な反乱を起こした。これは爾後、台湾史に頻繁に登場する、支配者への反乱の先鞭をつけた意味では、重要な事件である。だが、これを「台湾民族主義の覚醒」だと評価する(5)には無理があろう。後述するように、台湾民族意識が生れるには、なお三世紀近くの歳月を要したからである。 (2) 東都(東寧)について オラソダ、スペインを皮切りに、鄭氏王朝、清国、日本、中華民国による支配のもとで、漢族系人は急速に増えていくが、原住民人口は伸びず(6)、また漢族系人による圧迫で、両者の対立関係は日本統治期の中頃までつづく。 台湾への移民は経済的理由や戦乱を避けるのが主体であり、政治的移民は一六六一年の鄭成功軍と、一九四〇年代後半の蒋介石軍関係者の二回のみである。 鄭成功は入台すると、台湾に鄭氏王朝を築いた。客観的には、鄭氏王朝はひとつの独立国であり、台湾人のあいたでは鄭成功を「開山王」(国を拓いた王様)と称して尊ぶ者が多い。現在漢族系台湾人と称される人たちの祖先が台湾へ移民した時期は、オランダ時代から清国統治末期までの約二七〇年にまたがっていて、時間的にバラつきが多いにもかかわらず、鄭成功に従って入台した人たちを自分の祖先だとする傾向が強いのは、かような尊敬の念を反映しているといってよかろう。 鄭成功を「中華民族」の民族英雄に祭りあげることによって、台湾人の中国への傾斜を計るためなのか、「あまねく天の下、これすべて王土」とする中華ショーヴィニズムに由来するのか、中華民国政府系の人びとは、鄭成功は、元来中国の領土であった台湾を、オランダから中国に回復したのだと主張する。台湾本島は、中国大陸に拠ってたつ「中国」王朝の領域に入ったことはなかったのに、どうして「回復」できるのだろうか。さすがに、中華民国政府に近い台湾人のひとり、楊雲萍はこの風潮を評して、これは鄭成功への贔負の引き倒しだとし、どうして「故土の回復」でなければならないのか、どうして新しい領土を「開創」したとみてはならないのかと、疑問を呈している(7)。 その実、台湾を鄭成功が「開創」したとする者が中華民国政府系の学者にいても、それを「中華民族』の偉業だとするのが普通である(8)。後述するように、「中華民族」の概念は二〇世紀に入ってからの所産であることを忘れているようだ。 鄭成功は台湾を東都(のちに東寧)と改称し、ここに鄭氏王朝を築き、これは三代つづいたが、終始「反清復明」のスローガンを降ろさなかった。そこで、はたして「東都」を独立国としてみるのか、それとも明国の回復をめざす一武将の集団にすぎないとするのかという問題が起きる。オランダ東インド会社は明らかにこれを独立国として扱った(9)。清国朝廷は鄭氏二代目の鄭経に、再び中国大陸を犯さないことを条件に、台湾が日本や朝鮮のようになることを勧告したが、条件が折り合わず、交渉は妥結しなかった(10)。 独立国であったかどうかについての見解は二つにわかれている。 ひとつは、鄭氏が台湾に政権をつくったのは事実だが、「反清復明」をスローガンにしている以上、これを独立国だとはみない。これは第二次大戦後の台湾独立運動者王育徳(一九二四〜八五年)の主張である(11)。立場は違うが、「大陸反攻」を国是とする中華民国政府とその支持者は、鄭氏一族を大陸反攻の先駆者とみなして、東都を独立国だとはみていない(12)。後者のばあい、台湾に独立国としての歴史があったことを認めるのは、施政上穏当さを欠くとの認識が介在しているのかもしれない。 もうひとつは、東都を独立国だとする見解である。工育徳と同時代の独立運動者廖文毅(一九一〇〜八六年)は、東都を「国姓爺王国時代」と呼び、この王国が滅亡したあとも移民たちは、「この自由な国、台湾を愛し始め、大陸に帰らぬ決意を固め」たと評価している(13)。東都が自由な国であったとは疑わしいが、大量の移民の定住が、爾後の人口の礎になったことはまちがいない。新しい世代の優れた作家として知られている林濁水は、さまざまな角度から検討した結果、東都は独立国であったことを立証した(14)。とくに、鄭氏一族の明朝への忠誠心は根強いものではなくてむしろ逆であったとの指摘は斬新な見解であり、これがこんごの台湾人の鄭氏王朝への評価にどんな影響を与えるか、大いに注目される。 ところで、鄭成功に従って入台した三万七千の軍民の忠誠心は基本的には鄭氏一族に向けてであるとみるのが、中世の現実に則した見方であろう。鄭氏一族が明朝にたいして忠誠心があれば、これら軍民の忠誠心は鄭氏一族を通して初めて明朝に向けられる。いずれのばあいもそれは王朝的忠誠そのものであって、後世の漢民族主義者がいうような、漢民族対満州民族という民族的な性格のものではなかった。その証拠に、清国軍が台湾に上陸すると、鄭氏一族の専制に倦んだ漢族系人は、ほとんど抵抗せずに、清国軍を迎え入れている。民族的な感情が基礎になっているのであれば、為政者の統治政策の善悪に関わりなく、「異民族」の侵入に抵抗するでおろうからである。台湾独立運動者の一部は、その運動の根源を遠い昔に溯らせたい一心から、他方、中華民国政府関係者は、鄭氏一族の「大陸反攻」のスローガンを自分たちの姿に重ねあわせて、いずれも鄭氏一族にロマンを求めているといえよう。 (3) 清国の台湾支配 台湾本島を中国大陸の国家権力が支配したのは一六八三年に鄭氏王朝を滅ぼした清国が初めてである。清国は中国の漢民族主義者が、「異民族による中国支配の時代」としている国であり、孫文は革命のスローガンに「駆逐韃虜、恢復中華」を掲げたことは広く知られている事実である。革命に成功した孫文は漢民族主義を止揚し、満、蒙、回、蔵を加えての五族共和を唱え、「中華民族」の概念を創造した。これは満州、蒙古、新疆、チベットの土地を中華民国に包含するには、漢民族主義が障害になるとみたからであろう。 中華民国が台湾を支配するようになった一九四五年の段階には、中国では満州族を包含する中華民族主義は定着しており、また、中華民国による台湾占領自体、カイロ声明でいうょうに、清国が台湾を領有した歴史に基づくものであったから、中華民国関係者は、清国が東都を滅ぼした行為を、「異民族」による侵略行為だと譏ることができなかった。 清国の台湾支配は二世紀余(一六八三〜一八九五年)にわたった。この間、漢族系人口は一二万から二六〇万に増加した。増加要因は密航と自然増である(15)。 この二世紀余に、記録されている反乱だけでも六五件もある。これらの反乱を、中華民国政府関係者は漢民族の民族精神の発露だとしているが、台湾にたいする領土権がからんだばあいには、清国を中国そのものだと規定し、住民の反乱にかぎって清国を異民族の征復王朝だと突き放す自己撞着を犯している。 台湾独立運動者はこれらの反乱を、外来政権への台湾人の抵抗だと解釈するのが一般的傾向である。また、過去四百年来の台湾人の独立建国への願いを彩る壮挙だと解釈する者も相当にいる(16)。 だが、一七、ハ世紀にすでに住民のあいだに「台湾人」としての共同意識があったとは思えない。清国統治下の台湾の漢族系住民は、大陸を「唐山」と称し、大陸の人たちを「唐山人」と呼ぶが、それに対応する台湾の住民を総称することばとして、一般住民のあいだに通用するものはなかった。「台人」とか、「台民」ということばはあったが、これらは官庁用語であって、住民のあいだで共同意識を込めて一般的に使われたとの証拠はない。言語系統に由来するホーローラン福G人とか、ハクイン客人とか、居住地に由来するタイラムラン台南人とかカーリーラン佳里人とかあっても、清国時代を通じて、共同意識を伴う全住民を包含する一般用語はなかった。共同意識が存在しないのに、「台湾人の国」をつくる発想がでてこようはずはない。 六五件の反乱のうち、「反清復明」を掲げたのは一一件ほどあり、また六五件のうち、「王」やそれに近い称号を自称したり、新しい年号をたてたもの四件を入れて、王朝の樹立をめざした反乱は一一件ある(17)。首領の氏名を挙げると、一七二一年の朱一貴、一七三二年の呉福生、一七八六から八八年にかけての林爽文・荘大田、一七九五年の陳光愛、一八〇四から○九年にかけての蔡牽、一八三二年の張丙、一八五一年の洪紀、一八五二年の羅阿沙、一八五三年の林恭、同年の曾鶏角、一八六二から六四年にかけての戴万生の各事件である。 右のうち、朱一貴の反乱は、かれが清国の官吏を台湾から一掃し、自ら中興王と称して独立王朝を約二ヵ月の短期間ながらも維持することができた。この一一件の反乱は独立王朝の樹立をめざしたのであるから、「建国運動」ではあるが、「台湾人」の決起を促すスローガンはみられなかった。これらの反乱は徒党的性格が強く、したがって、むしろ台湾を範疇とする台湾人意識が存在していなかったことを示す材料になろう。これらは「反清復明」の反乱同様、首謀者自身が王になることを目的にしており、易姓革命の域をでるものではなかった(18)。 二、台湾民主国 一八九五年に台湾の地で「台湾民主国」(The Republic of Formosa)の独立が宣言されたことは、三つの意味で従来の建国運動とは異なる。そのひとつは、「すべての国務を公民によって公選された官吏を以て運営する」ことを独立宣言で謳っていることである。これは欧米人の助言によったのであろうし、諸外国の国家承認を得る手段であろうが、ともあれ「公民」(People)という表現で、台湾住民の意志を掲げている。もうひとつは、台湾をその領域とする旨を明確にしている最初の建国運動であったことである。それに、実体はともあれ、アジアではいかなる国も経験したことのない共和制を台湾の地で実現させたことが、のちの台湾民族主義者に誇れるものを与えたことであろう(19)。 この時期の台湾をみるに、域内の民衆のあいだに、「台湾人」としての共同意識が育っていたとは思えない。しかし一部の識者のなかには、台湾を範疇とする台湾人意識がめばえていた。たとえば、台湾民主国の副総統になった邱逢甲は、「台湾はわれわれ台人のものであり、なんで他人が勝手に授受できようか……。清廷はわれわれを見棄てたが、われわれはどうして自分自身を棄てられようか」と叫んだ(20)。各地を転戦した抗日運動指導者のひとりである徐驤は、「わが台湾は海上に孤立し、清国朝廷は台湾はあってもなくてもよいとしている。台湾は遺棄された土地そのものだ。わが台湾を守れるのは、わが台民だけだ。願わくばわれわれの血が台湾とともに流れ尽き、われわれの頭が、わが台湾とともに砕けんこを!」と絶叫した(21)。 右の二人が使用したのは「台人」と「台民」という呼称だが、強烈な「われわれ意識」(we‐conciousness)でつらぬかれており、台湾人意識そのものである。侵入してきた日本人が明白に異族であったため、これに対応しての「台湾人」としてのイメージが湧きやすくなったからであろう。 この台湾民主国への評価も、さまざまである。中華民国政府は、台湾の歴史に独立の時代があったことを認めたくないため、総統唐景ッが独立にあたって清廷に打電した電文で、台湾は「正朔を奉じて屏藩になる」と言明したことを根拠にして、台湾民主国は本当は独立を希望しなかったとする。かように、台湾を中国と結びつけたいばかりに、台湾民主国の独立に参画したこれら「漢族」の人たちが、「異族」であるはずの清廷に、いかに忠誠であったかを強調せねばならない破目に陥ってしまうのである。 興味深いことに、「潔癖さが足りない」という別の理由によるが、台湾独立運動者のなかにも、唐総統の「正朔、屏藩」電文を気にして,台湾民主国関係者の独立国樹立への意図を疑問に思う者もいる(22)。しかし、独立したとの事実が重要であって、紆余曲折、枝葉末節は無視するとの観点からか、この電文を重要視する者は少ない。前出の廖文毅のばあいは、台湾民主国を、鄭氏王朝、朱一貴、林爽文、戴万生とつづいた台湾独立の宿望をはたしたのだと評価している(23)。漢族系台湾人史家連雅堂も『台湾通史』において、この時代を独立国の時代だとして、第四巻に「独立紀」を設けて叙述している。 一九二八年に結成された台湾共産党は、同年の政治大綱(二八年テーゼ)で、台湾民主国を、元来から満州族の清国の統治に反抗していた台湾民族革命の空気が溢れていた最中に生れ、その主要任務は、日本の台湾侵略に対抗するにあったと主張する。台湾民主国は民族独立の国家を建設して資本主義の道を開こうとした。台湾民主国の革命運動の主力は資本主義的中地主と商人おょび急進的武士であり、かれらは一種の全民衆的大衆行動たる国民革命の形態を表現したけれども、この国民革命は台湾の資産階級がまだ成熟していなかったために、日本帝国主義に抑圧されてしまったという(24)。 台湾民主国の実態を台湾共産党がどれだけ把握していたかは疑わしく、右の主張は仰々しい字句の羅列としか思えないが、台湾民主国は台湾共産党という革命政党から高い評価を与えられたといってよい。 日本統治時代の武力抗日事件では、台湾民主国の失地回復を謳うとか、その歴史を継承するものはなく、わずかに大陸で、元台湾民主国副総統であった邱逢甲の知遇を得た羅福星が、台湾で苗栗事件(一九一三年)を起こしただけであり、これにしても、台湾民主国の影響よりも、辛亥革命のそれが大きかった(25)。日本領台当時の一連の武力抵抗は別として、台湾民主国自体の一般台湾民衆への影響は小さかったとみるほかはない。 ところが驚くべきことに、台湾民主国の樹立から七五年後の一九七〇年に、中華民国統治下の台湾で起こった「泰源職訓監獄」(政治犯監獄)での武装蜂起事件は、台湾民主国の復国をめざすものであったのだ。行動参加予定者は警衛中隊五六名、政治犯七六名(一説では九六名)、原住民系台湾人三〇名の規模だったが、蜂起当日に計画上の齟齬があったために失敗し、五名が死刑に処された(26)。 当初の計画によれば、台湾人は一八九五年の「五月一六日」に台湾民主国を樹立したのだから、参加者の多くは、この日を期して蜂起すること、また台湾民主国の国旗だった黄虎旗を国旗として使用してこそ歴史的意義が大きいとの意見だったが、武器調達との関連で三月七日に早められたのだという(27)。 台湾民主国の樹立は五月二五日だから、かれらには樹立日の誤謬があったわけだが、「七五年後の歴史継承」は、台湾民族独立運動者にとって、古い時代の「栄光」は捨て難く、そして美化されるべきものであることを示しているかのようである。 三、日本の台湾統治 日本の台湾統治を、第二次大戦後の台湾民族主義者、それに中華民国関係者はともにこれを異民族による侵略だと規定している。だが帝国主義時代にあった当時、戦勝国が敗戦国から領土の割譲を受けるのは「正当」だとみられており、しかも一九世紀末の台湾には台湾民族が形成されていたとはいえず、また漢民族主義そのものも台湾には存在していなかったのである。 この問題について、対日協力者の巨頭、辜顕栄はこう主張している。 「私は帝国領台以前に於ては素より清朝の民であつても官吏ではなかつた。然らば二心を抱いて節を変ずるの攻撃を私に向けるは不当であらう。特に私は清国に反いたのではない。清国皇帝が台湾を日本帝国に割譲せられたから正々堂々として日本帝国の臣民となつたのである。而して既に日本臣民となつたる以上は忠を日本帝国に尽し、且つ我が三百六十万の同胞を救ふは私の微衷である(28)。」 この見解はそれなりに理路整然としているが、漢民族主義者からは「漢奸」と罵られ、台湾民族主義者からは「台奸」だとされているかれのこの見解は、全く受け入れられていない。しかし、日本統治時代の著名な漢族系台湾人政治運動者である蔡培火が一九二八年に書いたつぎの見解は真実をついており、辜の主張は必ずしも的はずれではないことを示している。 「〔日本の台湾領有は〕、然し、単に日清両国間に於ける勢力争ひの結果に依つての変化、我々台湾民衆の脳裡には唯だ不思議な結果、不思議な運命としか印象がなかつたのだ。亡国とか屈辱とか、はたまた被征服とかの感じは、我々多数の台湾島民には毛頭もない。……我々には清朝は何ものぞ、日本は、また元より我々とは何等の恩怨もなかつた。……これを、朝鮮民族の日本に帰属した心情に比して、我々台湾の方は、日本に対し遥かに白紙的であつた(29)。」 割譲当時、蔡培火はせいぜい七歳で、分析能力があろうはずはなかったが、のちに優れた政治運動家になったかれの見解として、当時の状況をよくいいあてているように思われる。 (1) 武力抗日事件の意義 台湾における武力抗日運動の激しさは、台湾接収に赴いた日本軍の残虐な鎮圧と報復ぶりによって惹起された要素が大きい。武力抗日運動は一九一五年まで二〇年もつづき、日本の官庁文書に基づく計算だけでも,三万人をくだらない台湾住民が命を失っている(30)。当時の人口比率からみて、この数字は実に高い。これらの武力抗日事件のなかには、明白に台湾建国をめざしたのがいくつかある。そのうち、黄国鎮事件こ八九七年)、林杞埔事件(一九一二年)、土庫事件(一九一二年)、六甲事件(一九一四年)は、いずれも日本植民地当局の圧制への抵抗にたちあがったものであるとはいえ、首謀者が帝や 王を自称する個人英雄主義傾向の強いものであり、台湾人意識形成面での評価は高くない。これらに先立つ一八九六年の簡義、何鉄らによる鉄国山事件は、日本の台湾領有に伴う台湾攻防戦の余波ながら、規模は大きく、指導者を「総統」に推戴するなど、近代化の兆がみえる(31)。 一九一三年の関帝廟事件は「自由な台湾国」の建設を目的とし、同年の苗栗事件は辛亥革命の影響を受けた大陸の中国人が介在していたとはいえ、「共和制に基づく台湾国」の建設をめざしたものであった。一九一五年の西来庵事件は、「大明慈悲国」という国名の、仏道に基づく国を建設することにあり、首謀者は檄を飛ばし、全台湾人の決起を促してぃる。その同志は全島各地にまたがり、検挙者約二千をだした大規模なものであった(32)。台湾人意識がこの頃には明確になっていることをこれらの事件は示している。ナショナリズムが、同じ国のもとにありたい一群の人びとの願望と運動であるとすれば、台湾民主国から西来庵事件に至るこの二〇年間は、台湾ナショナリズム形成の胎動期であったといえよう。その形成要因は日本の台湾統治期間を通じて妥当するものであるので、あとで述べる。この時期の意識上の特徴は、「台湾人」としての共同意識であって、すべての他民族とを区別する、さらに強固な意識としての民族意識である「台湾民族意識」には至っていない。そもそも民族の概念が台湾に導入されたのは、大陸において辛亥革命が起こってからである。 (2) 漢民族主義の受容 孫文が派遣した楊心如と陳少白により、一八九七年の段階で、台北に興中会台湾分会が設けられたが、二二名の秘密会員を吸収しえたにとどまり、漢民族主義が台湾に伝播した徴候はなかった。孫文自身、一九〇〇年に台湾を訪れ、四二日滞在したが、それは台湾総督府の援助を仰いで恵州事件を起こすための交渉にあたることにあり、そのかれが台湾総督府と対抗するはずの漢民族主義を鼓吹する立場にあろうはずはなかった(33)。 だが、一〇年後に起こった辛亥革命の成功は台湾に大きな衝撃を与えた。三世紀近くにおよぶ長い歴史を誇る大帝国の崩壊は台湾人にとって大きな驚きであった。革命の成功に付随して、革命指導者 孫文の唱えた「漢民族主義」、かれが創造した「中華民族」の概念が輝かしい光彩を放った。 孫文は、中国には家族主義や宗族主義があるが、国族主義はないと嘆いたが、これは日本統治下の台湾往民の通弊でもあった。台湾漢族系人のあいだにはホーロー福Gとハッカ客家の対立があったことは広く知られていることである。 孫文は民族の構成要素を血統、言語、宗教、風俗、生活習慣の五つだと規定した。漢族系台湾人政治運動者はこの定義を受け入れた。この定義によれば、ハッカ客家とホーロー福Gとは、言語を異にするとはいえ、その他の要素は共通しているので同じく「漢民族」だが、原住民の各種族は「漢民族」の範疇には入らない。 かように「民族」の概念の台湾への導入は、「漢民族主義」のそれと同時にである。その結果、漢族系台湾人政治運動者のアイデンティティは、つぎのような図式になる。 台湾住民は日本の統治下にあるのだから、日本帝国の臣民もしくは国民である。だが同じく日本国民ではあっても、日本人は支配者で、台湾人は被支配者である。台湾人は中国に存在する漢民族の一支流である。中国は台湾人の祖国ではあるが、台湾人は中国国民ではない。原住民は野蛮人であり、台湾人には含まれない。 かような図式は日本統治下における漢族系台湾入政治運動者の多くが持ちつづけたといってよい。この時代において、日本人に対比しての台湾人という意味では、台湾人意識は極めて明白であった。だが、漢民族主義を導入し、これを受容したため、中国の漢民族との境界線はあいまいになったのである。 ここで注目すべきことは、辛亥革命以降、「中国人」という呼称は、中国においては普遍化していったが、漢族系台湾人政治運動者が自分を「中国人」として特定することは稀であった。同一民族だが、同一国家の国民ではないとの認識が介在していたからであろう。 漢族系台湾人政治運動者は、意識的に原住民の各種族を「漢民族」から除外した。客観的にみれば、原住民各種族の同意なしに、勝手に「自分の民族」のなかに組み入れるのは借越である。だが、漢族系台湾人政治運動者がここまで配慮したとは思えない。なぜなら、かれらは漢族的視点から、原住民を野蛮人視し、「生蕃」とか、「蕃人」とかの侮辱的呼称を使いつづけて憚らなかったからである。イデオロギー的に最も急進的なアナキストすら、そうであった(34)。 ところで、原住民を漢民族に包含しないのは、原住民の同意を欠く状況下では正しかったが、原住民を「台湾人」の埒外におくのは暴戻そのものであることに、これら漢族系人政治運動者は気付かなかった。「台湾人」というとき、それは古くから台湾に定住し、ともに為政者の圧迫下にあるすべての住民を包含すべきである。いわんや、原住民はその定住期間の長さだけでも、漢族系人よりも遥かに資格がある。漢族系人と原住民との長い対立の歴史は、一九三〇年の霧社事件が示すように、両者の融和は大きな進展がみられた(35)とはいえ、漢族系人による蔑視の問題は第二次大戦後に持ち越される。 (3)台湾民族主義の勃興 一九二八年に「コミンテルン日本民族支部」の「台湾民族支部」として結成された台湾共産党(俗称)は、その政治大綱で、「台湾民族の独立」と「台湾共和国の建設」とを掲げている。独立や共和国の建設については、上述のように、これに先行する運動がいくつかあったが、「台湾民族主義」の出現は、台湾人の台湾人としてのアイデンティティが一層強まったと解釈できるように見受けられる。政治大綱(二八年テーゼ)は日本共産党幹部の佐野学と渡辺政之輔とが起草したものだが、謝雪紅と林木順から台湾の事情を聴取して作成したものである(36)ので、台湾人共産主義者の主張を反映したものだといってよい。つぎで述べるように、中国大陸で活動していた漢族系台湾人政治運動者の一部は、すでに一九二四年の段階で、台湾民族主義を唱えていたのである。 中国大陸へ渡った一部の人たちは、上海台湾青年会(一九二四年設立)、N南台湾学生連合会(一九二四年)、厦門中国台湾同志会(一九二五年)、広東台湾革命青年団(一九二七年)のように、中華民国による台湾回収を主張するのもあったが、台湾自治協会(一九二四年)のように、中国人を中華人民と呼んで、台湾人と一応線を引き、台湾民族主義にたって台湾独立を主張するものや、平社(一九二四年)のように、台湾人の民族独立を主張するもの、台韓同志会(一九二四年)のように、台韓民族は華人の血統であり、台韓独立して自由連邦の結成をめざすもの、上海台湾学生連合会(一九二五年)のように、台湾民族革命を主張するもの、さらに中台同志会(一九二六年)のように、台湾民族が台湾独立を実現したうえで、もし人民投票で台湾民衆が希望するばあいにかぎり、台湾と中国とが連邦をつくるか、合併するなど、大陸ではさまざまな主張が展開されていた(37)。 かように、台湾島外においてではあるが、すでに一九二四年の段階で「台湾民族主義」が掲げられていたのである。 ではどうしてがれらは中国にいながら、台湾民族主義を唱え、台湾独立を主張したのだろうか。広東にあった台湾革命青年団の幹部として活躍しながら、のちに政治運動を放棄した張深切はこう回想している。 「当時の革命同志は祖国の革命がなお成功していないのを目のあたりにみて、中国が日本に戦勝して台湾を収復するとは夢想だにしなかった。だから一般の革命同志がこのスローガンを掲げた目的は第一に民族自決の潮流に乗って全世界の同情を求め、第二に台湾人は日本の統治に絶対に服従せず、どうしても台湾を台湾人の台湾にするまで戦う決意を示すことにあった(38)。」 台湾の「祖国復帰」が絶望的だったから、次善の策として台湾の独立を主張したのだというのである。かれの観察には一面の真理があろう。だが、みんながそうであったとはいえない。日中戦争の勃発を契機にして、同じく中国大陸において台湾独立革命党、民主総聯盟、台湾国民党、台湾青年党が生れ、一九四〇年にこれらを連合して「台湾革命同盟会」が結成され、四一年には「中国国民党組織部直属台湾党部籌備処」(四三年に「中国国民党直属台湾執行委員会」に改組)がつくられた。この二つとも国民党の指導下にあったにもかかわらず、カイロ会議(一九四三年)直前の段階において、これら漢族系台湾人政治運動者は台湾独立、台湾の国際管理、中華民国への復帰の三つの意見にわかれて、争っていたのである(39)。 では台湾共産党のばあいはどうであろうか。漢族系台湾人政治運動者の多くが漢民族主義を受容したにもかかわらず、なぜ台湾共産党が敢えて台湾民族主義を掲げたのか。これについての台湾共産党による説明は目下のところみあたらない。察するに、つぎのことが考えられる。 第一次大戦中に合衆国大統領ウイルソンが掲げた「平和一四ヵ条」のなかで示した「民族自決の原則」は、一世紀余にわたって独立を要求してきたアイルランドが一九二一年に自由国になったこととともに、漢族系台湾人政治運動者に大きな激励を与えた(40)。民族主義は解放につながり、独立につながるとのイメージがかれらにもたらされたことは明らかである。そのなかで台湾共産党は、従来の台湾の政治運動を、資産階級の指導下にあって、その革命行為は極めて制限的だと批判しているので、「台湾民族主義」こそ、労働者、農民を連合する手段たりうると確信したからではなかろうか。筆者の経験に照らしていえば、第二次大戦の戦前、戦後を問わず、農村や教育レベルの低い階層は台湾人としての自意識はあるが、大和民族主義や漢民族主義を受け入れる素地は稀薄であった(41)。 台湾共産党は前述の漢民族主義と同様に、原住民を「台湾民族」のなかに包含しなかった。台湾共産党は原住民を「野蛮人たる生蕃」(二八年テーゼ)と表現しており、三二年テーゼでは代わりに「蕃人」という用語を使用するようになったとはいえ、原住民を「蕃族」視しているかぎり、蔑視の姿勢に変化があったとは認めがたい。だからこそ、つぎのように漢民族主義者や台湾民族主義者が、原住民を平等視する考え方をうちだしたとはいえ、単なるスローガンであったように思えるのである。 一九二年の第一回台湾議会設置理由書は、「熟蕃人」という表現で、原住民を台湾議会議員選挙有権者に含めている。議会設置運動者の回顧によれば、「熟蕃人」とは後述する「平埔族」の意味であって、山地に住む原住民は除外されている(42)。 一九二六年には、漢族系台湾人政治運動の機関誌『台湾民報』が、「台湾で生れた者は、みんな台湾人だ」と出張した。在台日本人がその対象になっていたことは確かだが、論理的にはすべての原住民を含めているはずである。だが、そうだと思えない節がないでもない。すべての原住民をも含むとすれば、これは画期的な論説であり、したがって、その旨を明確に主張するはずだからである(44)。 台湾共産党のばあい、三一年テーゼで「国内民族の一律平等」を唱え、それは三三年テーゼでも踏襲され、かつ「日本人、中国人、蕃人等は台湾島内に於ける少数民族である」(45)という形でヽ原住民を少数民族とみなし、それと台湾民族との平等を謳っている。 かように原住民への態度には変化はみられたが、それでも「蕃人」の呼称は影をひそめなかった。 ところで、蔑視の問題を離れて、台湾共産党が原住民を「ひとつの少数民族」とみなしたのは、適当とは思えない面もある。一九三三年当時、台湾の総人口は五〇六万であり、そのうち日本本国人(内地人)は二六万、中国人は四万で、原住民は二〇万人であった(46)。 原住民は漢族系人とは異なる特色がある反面、この人たちが同一の民族としての共同意識がどこまであったかは疑問である。 原住民(二〇万四千人)の分類 平埔族(五万七千人) △クヴァラン △パゼッヘ △サウ ?トゥルビヤワン ?タイヴォアン ?マタカウ ×ケタガラン ×タオカス ×パポラ ×バブザ ×ホアニャ ×シラヤ 山地各族(一四万七千人) 〇アミ 〇アタヤル 〇パイワン 〇ブヌン 〇プユマ 〇ルカイ 〇ツォウ 〇サイシャット 〇ヤミ 上表からもわかるように、「平埔族」とはいっても単一の種族ではなく、言語、習俗の異なった幾種族かの平地に居住する人たちである。この人たちはオランダ時代から、オランダ人や、漢族系移民の文化の波に呑まれて、その幾種族かは、固有の習俗を失ってしまい、漢族系人との識別は難しくなってしまっている。 山地の原住民を含める右表のうち、〇印はもっぱら自種族固有の言語を使用するもの、△印は家庭内である程度自種族固有の言語を使用するが、普通は漢族系人の言語を使用するもの、?印は調査結果不明のも、×印は固有言語を失い、漢族系人の言語を日常語とするものである(47)。いずれも一九三〇年代のことであり、当時のこの人たちをひとつの少数民族としてみるのは、無理があったといえよう。 ところで、台湾共産党の主張をみるかぎり、同党が台湾共和国の樹立をめざしたことは明らかであった。また、建党当初の主張は民主社会主義的ではあったが、いずれは無産階級独裁に転ずることを予定していたことも明らかであった(48)。では漢民族との境界はどうだったのであろうか。 三三年テーゼで、在台中国人(約四万人)を少数民族として扱うことにしている面では、台湾共産党の唱える台湾民族主義は漢民族とは一線を画していたといえる。しかし、政治運動者間にありがちな論争が、先行する漢民族主義者と後発の台湾民族主義者とのあいだで、民族的立場の相違という形で噴出しなかったのはどうしてであろうか。イデオロギー論争がさかんで、闘争も激しかっただけに奇異でさえある。その理由はつぎのように考えられる。 第一に、台湾人意識はすでに普遍的になっており、すべての政治運動者はさかんに台湾人の利益を主張していた。この点では両者に相違はない。 第二に、この二つの民族主義論はいずれも日本の植民地当局に対抗して生れたものであり、中国を対象にしていなかったので、民族主義で争う必要はなかった。 第三に、いずれも原住民を除外し、自分たちの祖先が華南からの移民であるとの認識は同じであった。 第四に、台湾人大衆への働きかけは、「台湾人意識」で充分であり、かつそのほうが効果があり、民族論という大衆には縁遠い「深奥な理論」を必要とせず、したがって両民族主義の相違をことさらに強調する必要はなかった。 (4)日本化の一側面 ところで、日本帝国支配下の台湾住民のアイデンティティを考察するさい、もっぱら抵抗運動者のそれを論ずるのは一面的である。台湾総督府は日本文化を台湾の新附の民に植え付けるために、教育の普及に努力した。新しい文化の受容は、精神面にも一定の変化をもたらす。そのうえ、文化の導入が国家権力によってもたらされたばあい、国家意識、民族意識の導入が付随するのは避けられない。むしろ、教育の目的自体が為政・者側の国家意識、民族意識の注入にあるといっても過言ではない。さらにいえば、為政者の施政によって生活環境が著しく改善されたばあい、しかもこの国の国力が強まり、国際的地位が高まったばあいはそれにつれて、その支配下にある民のアイデンティティを受ける度合いは強まるものである。あれだけ満州族の侵入に抵抗しながら、乾隆帝の治世には、中国地域の漢族はほとんど臣服したではないか。清末に漢民族主義が生れ、この人たちは「漢民族五千年の文化」を誇るようになったが、辛亥革命時においてすら、死すとも清廷への忠誠を尽すといって、革命軍に殺害された漢族武将の事例、満州族の象徴だった辮髪を剪り去ることを執拗に拒否した漢族大衆の数多い事例、漢民族の国、中華民国の国務卿になりながらも、なお満州人皇帝の復辟を願った漢族の徐世昌の事例など、長期にわたる支配によってアイデンティティの変容が起こるのはむしろ普通である。 そもそも、いかなる国でも、その現在的調和は、過去における懐柔的もしくは暴力行為によってもたらされたアイデンティティの変容の上にたっているといってよい。台湾住民だけが例外ではありえない。 日本統治時代における交通通信手段の飛躍的発展、日本語の普及が住民の諸語族に意思疎通の手段を提供し、それによって生れた相互理解が優勢言語である福G話の普及の形でフィードバックするなど、植民地当局が意図しなかった台湾人意識の確立に貢献した。 だが、日本による台湾建設は、日本当局の期待する効果を相当程度満たしたことも確かである。日本統治時代における台湾経済やインフラストラクチュアの躍進ぶりは贅言を要しない。加えて、第一次大戦の結果、まがりなりにも五大強国に仲間入りし、日中戦争期にその国力をさらに高め、また第二次大戦の緒戦における戦果など、植民地人たる台湾民衆に、日本の威力を誇示する材料にこと欠かなかった。大勢に従うのが庶民の常なら、実体を伴った教育宣伝は効果を挙げるものである。相当数の台湾住民が日本にアイデンティティを持つようになったとしても、ふしぎではない。とくに、漢族系人から差別視された、人口比率の低い原住民の日本へのアイデンティティは相当に高かったとみるべきであろう。「最後の日本兵」としてモロタイ島で一九七四年に発見された中村輝夫(本名スニヨン)はその劇的な例である。 一般民衆よりも、当時の著名な台湾人漢民族主義者を例に挙げよう。そのさい、日記は論説よりも本当の心情を吐露していると思われるので、日記を利用しよう。 台湾人漢民族主義者呉新栄は医師であり、文学者でもある。かれは一九三五年に生れた長女に「朱里」と名付けた。その理由を強いていうならば、「朱色はわが漢民族の最も好む色だから」である。時はたち、三七年に日中戦争勃発。かれは植民地政府当局から国民精神総動員分会の参与に任命され、また、妻が愛国婦人会の会員になったことを、すべて時勢であり、潮流であると肯定し、人びとはみんな時勢に順応していると記している。そして台湾青年が軍夫として出征するのを見送ったあと、「台湾人が歴史的行動に参加するのは当然だ」と、その心情を書き留めた。 かれは三八年から日記を日本語で記すようになり、その心境をこう綴っている。 「わたくしが日常生活において日本語を使うのと同様に、日記を日本語で書くのは極めて自然なことだ。」「方便と必要性とは、同化の不可欠の条件だ。われわれは方便と必要性とに迫られて同化された台湾人だ。たれしもわれわれを日本人だと思っている。大和民族が形成される以前の日本人もこうだったかもしれない。」 その一方で、かれは日本の支持によって、中華民国維新政府(梁鴻志主席)が樹立されたのを知り、「悲しい哉、わが中華民国は四分五裂した」と歎き、つぎの年でも「中国民族は滅びない」と述べ、自分の死後、骨を大陸に埋めるのが念願だと、漢民族主義者の心意気をみせている。そうでありながら、日本精神のシンボルである神社が、自分の居住地に建立されたのをみて、「頗る壮観」と詠じ、皇民化運動の一環として台湾人にも改姓名が奨励されていることを、かれは抵抗感なしに、あれこれと新しい姓名に思いをめぐらせる。 一九四一年に入ると、かれの日本へのアイデンティティは一層明らかになる。 この年に独ソ開戦、台湾人に志願兵制度が施行されるとの発表を聞いたかれは、「本島人が今次の世界大動乱を防ぐために、精神上、肉体上の訓練を受けることに双手を挙げて賛成」する。そして東京留学から帰省した弟にこう説教した。 「国家のこの飛躍期にさいし、また民族の運命を賭けているこの時期に、われわれは個人的打算から超越せねばならない。一個人の生死は度外視すべきだ。」 ここでいっている「国家」、「民族」はもちろん日本のそれである。この年の一二月八日、真珠湾攻撃。かれは「日本が重慶の降伏を待たずに英米にたいして開戦するとは」と驚き、ハワイでの戦果に、「これは日本海軍の強さを証明するものだ」と記した。「重慶は祖国」との意識は全くみあたらず、むしろ重慶が日本に降伏するのを期待しているかのようだ。かれはさらに日本の立場にたって、フィリピン、安南、ビルマ、インドの独立を予測し、これこそ日本にとっての「大東亜戦争の最大の意義だ」と意気軒高たるものがあった。 一九四四年に弟が、乗船を米潜水艦に撃沈されて水死すると、「最後の勝利を獲得するまで、われわれはいかなるときも犠牲になる覚悟をしている」と述べた。これはもはや銃後の鑑だ。この年の一月にかれは、漢学の泰斗に教えを乞い、かれの呉姓は純粋な漢族のそれではなくて、すでに「南蛮」との雑居を経ていることを初めて知り、かつ父親が謝家から呉家に入ったことを以て、日本流に改姓名し、「新民の姿で新天地を切り抜くのは当然だ」との「理論的根拠」をつくっている。九月一日、米軍機が月明を利用して空襲してきたのをみて、「明月は憎し、されど敵機はさらに憎し」と憤り、そこには米国が、そして中華民国が台湾を解放しにきているとの認識はない。 一九四五年に入り、米軍がマニラに入ったのを知って、「われわれは聖地台湾を固く守り、子々孫々に禍根を残すべきではない」とその決意を述べている。このときすでにカイロ声明において、連合国が勝利すれば、台湾を中華民国に「返還」することが定められていたのだ。かれは、中華民国という「祖国」の懐にもどることを念願してはいなかったのである。六月六日に至り、日本の敗戦を予想したのだろうか、「中国の政治思想と文学思想とを研究せねばならない」と思うようになり、改めて、孫文全集をひもとくようになる。 八月一五日、終戦詔勅は聞きとれなかったが、「日本は負ける」との自分の予想が「果たして当たったことに、われながら驚いた」だけで、「祖国復帰」の喜びは、全くみあたらない(49)。 日本時代に、漢民族主義にたって政治運動に従事した蔡培火、陳逢源、林柏寿、呉三連、葉栄鐘らは、第二次大戦後、蒋介石政権下の台北で、『台湾民族運動史』を刊行、そのなかで、日本統治下における自分たちの「漢民族主義運動」を「台湾民族運動」といい直したうえで、それをこう規定している。 「台湾民族運動の目的は、日本の覊絆から離脱し、祖国の懐に復帰るのを共通の願望としていたことは、ほとんど議論の余地はない。」(50) 蒋政権への配慮上、やむをえない一面があったにせよ、かれらの解釈が「歴史の後知恵」に終始していることは、呉新栄の心理歴程と考えあわせると明らかである。満州事変の勃発を契機にして、台湾人の政治運動が日本当局によってアク扼殺されたという事情があったにせよ、これを境にして漢、台両民族主義がいずれも沈黙してしまい、台湾人の日本化が促進されたことは、まぎれもない事実であったのである。 結論に代えて 台湾人意識は日本による台湾支配の五〇年間に確立されたことは、すでに定説になっている。しかし、当時の台湾人意識は民族のレベルに到達していたとは思えない。 台湾人意識は、日本人への抵抗の過程で生れ、そして皮肉なことに、台湾総督府による日本語教育によって各種族間に共通する言語ができ、さらに通信、交通、経済開発などによって住民同士の交流がさかんになったことが、その形成を容易たらしめた。 台湾人意識は、日本による支配に抵抗する過程で生れたが、それは漢族的ショーヴィニズムの影響で原住民を疎外し、それゆえに汚点を含むものであった。「台湾人」とは、原住民を含むものであり、この小論で、原住民以外の台湾人をすべて「漢族系台湾人」としたのはそのためである。また、そのさいに「漢族」とせずに、「漢族系」としたのは、この人たちは、福建、広東など華南の地で、「中華」からは「南蛮」とみられていた人たちとの雑婚、台湾渡来後は原住民との雑婚をくりかえしており、「漢族」と称するには根拠が薄いからである。ただし、かれらが自分たちを「漢族」出身だと主張する以上、その意見を尊重すべきであるとの観点からこれを加味して「漢族系」としたのである。 原住民と漢族系台湾人との関係は、霧社事件の例にみられるように、好転しているが、基本的には第二次世界大戦後にずれ込むことになる。 台湾人意識は「民族」の下位意識である。それは台湾民族意識に昇華する可能性を秘めながらも、日本民族のなかの台湾人、中華民族のなかの台湾人にとどまる可能性を持っていた。 結局のところ、台湾人意識は日本民族意識に吸収されず、台湾は日本の支配から離脱することができた。また、日本統治末期における漢民族主義運動の退潮もあって、台湾人意識は漢民族、したがって中華民族の民族意識にも傾斜しなかった。また、独自の民族としての自覚が遅れたため、台湾民族意識も確立されなかった。 台湾における「民族」の概念は、中華民国に対抗する過程で生れたものではなかったため、漢、台両民族のあいだには境界線はなく、台湾民族主義がその独自の性格を確立するには、中華民国による台湾支配などの「中国経験」を持つまで待たねばならなかった。この問題については、いずれ、「台湾の民族と国家――第二次大戦後の状況」の題名で論ずるであろう。 注 (1) William Campbell, Formosa Under the Dutch(London,1993), pp.6-7 (2)台湾省文献委員会編、刊『台湾省通志稿』巻二、人民志人ロ篇、一九六四年、一〇一、一〇五頁。漢族系人口については二万五千家族、三万家族などの説があるが、オランダ統治末期の人口は、原住民と漢族系人とは、ほぼ同じぐらいだとみてよい。 (3)呉主恵『漢民族の研究』酣燈社、一九四九年、一五〜一六頁。著者は漢民族は種族的混成を経たものだと説いている。 (4)一九四二年の段階ですら、原住民の年間結婚数のうち、女性の二〇%、男性の一七%の相手は漢族系人であった。台湾総督府総務局編、刊『昭和一七年台湾人口動態統計』一九四三年、二四八頁の表に基づいて計算。 (5)Niu Chionghai, "The Formation of the Formosan Nation," Formosan Quarterly, Vol. I, no.2 (October 1962), p.46 (6)原住民が漢族式の名前に改名し、漢族社会に人って数代たつと、みわけはつかなくなる。とくに雑婚すると、一層それが促進され、その結果として原住民人口の社会減を促すことになる。 (7)楊雲萍「鄭成功的歴史地位」王曾オ編『台湾史研討会紀録』国立台湾大学歴史学系、一九七八年、三一頁。 (8)たとえば、曹永和『台湾早期歴史研究』台北・聯経出版事業公司、一九八一年、一頁をみよ。 (9)拙共著『台湾の法的地位』東京大学出版会、一九八三年、九~一〇頁。 (10)連横(連雅堂)『台湾通史』台南・台湾通史社、一九二〇年、巻二、建国紀。台湾銀行経済研究室復刻版、第一冊、五一頁。 (11)王育徳『台湾――苦悶するその歴史』弘文堂、一九六四年、第二章、国姓爺の光と影、とくに五二頁。 (12)たとえば、文琳『我們的台湾』台北・海外出版社、一九六五年、一五頁。 (13)廖文毅『台湾民本主義』東京・台湾民報社、一九五六年、二七〜三〇頁。 (14)林濁水「渡海」、林濁水等編『瓦解的華夏帝国』カリフォルニア・台湾出版社、一九八五年、三五〜六〇頁。 (15)清朝は数次にわたって、台湾への渡航を制限したり、禁止したからである。尚、一八九三年における漢族系人口は二五五万人だと推定される。前掲、コ口湾省通志稿』二八一頁。 (16)たとえば、史明『台湾人四百年史』音羽書房、一九六三年、二〇九〜二一三頁。 (17)拙論文、「台湾独立運動史」(1)、月刊『台湾』台湾青年独立聯盟発行、一九六九年一月号、三五〜三八頁。 (18)同右、四四頁。 (19)榎本武揚が函館につくった「共和国」はほとんど無視されている。 (20)羅香林輯校『劉永福歴史草』台北・正中書局、一九五七年、二四一頁。 (21)江山淵「徐驤伝」、上海・商務印書館『小説月報』九巻三号(一九一八年三月)、四頁。 (22)王育徳、前掲書八八頁。 (23)廖文毅、前掲書、第五章、台湾民主国時代、三四頁。 (24)台湾総督府警務局編、刊『台湾総督府警察沿革誌』第二篇中巻、社会運動史、一九三九年、六〇一〜六〇二頁。 (25)荘金徳、賀嗣章編訳『羅福星抗日革命案全S』台湾省文献委員会、一九六五年。 (26)(27)荘炳容「我們是復国、不是台湾独立!一頁驚心勤魂的革命――泰源監獄事件」『新潮流』第二期、一九八六年六月、所収。筆者が使用したのは、一九八六年七月一七日付け『台湾公論報』に転載されたもの。 (28)尾崎秀太郎編『辜顕栄翁伝』台北・同伝刊行会、一九三九年、三四三頁。 (29)蔡培火『日本々国民に与ふl――植民地問題解決の基調』東京・台湾問題研究会発行、岩波書店発売、一九二八年、三三〜三五頁。 (30) 台湾の人口は、原住民を入れて一八九五年が約二七〇万で、一九一五年は三四一万である。 (31)(32)前掲、拙論文(2)『台湾』一九六九年二月号、三一〜三六頁。 (33)李雲漢「国民革命与台湾」王曾才編、前掲書、一六〇頁参照。 (34)一九三一年に発せられた「在中国台湾無政府共産主義者聯盟」の「六・一七台湾島恥記念宣言」をみよ。『現代史資料』22台湾(2)、みすず書房、一九七五年、七一頁。 (35)この事件において、原住民は漢族系台湾人を峻別し、日本人のみを殺害した。 (36)若林正丈『台湾抗日運動史研究』研文出版、一九八三年、三〇五頁。 (37)前掲、『警察沿革誌』第二篇中巻、六八〜一三六頁。 (38)張深切『広東台湾独立革命運動史略』中央書局、一九四七年、一六頁。 (39)黄啓瑞「台湾光復運動与翁俊明先生」黄朝琴等著『国民革命運動与台湾』台北・中華文化出版事業委員会、五一〜五三頁。 (40)ウイルソンの「民族自決の原則」は、世界的普遍性をもたせる意向を伴ったものではなく、もっぱらヨーロッパ諸民族に限られていた。また、アイルランド自由国は、なおも大英帝国の総督を戴かねばならない自治領にすぎなかったが、いずれも台湾人は希望的観測に基づいてこれを受けとり、台湾人同士で励ましあった。事実そのものより、人びとがそれをどう受けとるかが大事であることを示す好例である。 (41)筆者は台南県の田舎、下山仔寮や佳里に住み、一九四五年以降の中学、高校時代は台南市に住んだが、学校の教師や政府役人以外の台湾人から、「われわれは日本人である」とか、「われわれは中国人である」とかいういいかたを、聞いたことはなかつた。 (42)一九八四年に発表した拙論文「植民地と文化摩擦」、平野健一郎編『近代日本とアジア』東京大学出版会、一九八四年、一七三〜一九四頁所収で筆者は、「熟蕃人」を「熟蕃」(平埔族)と「蕃人」(山地の原住民)とを指すと記述した。ところが、議会設置運動者の回顧的著作である葉栄鐘等共著『台湾民族運動史』台北・自立晩報叢書、一九七一年、二六六頁を改めて調べると、台湾議会の構成員たりうる「台湾住民」を、在台日本人(内地人)、本島人、それに「帰化蕃人」つまり平埔族だと註釈している。山地の原住民は除外されていたのである。この機会をかりて訂正したい。 (43)週刊『台湾民報』一一一号、一九二六年六月二七日付、社説。 (44)傍注42の拙論文は、『台湾民報』のこの論説は原住民をも包合していると断定しているが、留保する必要がありそうであ。 (45)前掲、『警察沿革誌』第二篇中巻、七一九、七三二頁。 (46)台湾総督府官房調査課編『昭和八年台湾総督府第三十七統計書』台北・台湾時報社、一九三五年、二八〜二九頁。 (47)宮本延人『台湾の原住民族』六興出版、一九八五年、六四〜六六頁を参照。 (48)前掲、『警察沿革誌』第二篇中巻、五九三、七二三頁。 (49)張良@編『呉新栄全集』6呉新栄日記(戦前)、台北・遠景出版事業公司、一九八一年。 (50)葉栄鐘等、前掲害、凡例、一頁。 |
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