| 台湾・中国関係の展望――ROC政権政策決定過程の一考察 |
| 黄昭堂/台湾独立建国聯盟主席 2002/06/19 原載 「教養部紀要」20巻 |
一 台、中関係の変化 1949年に国共内戦に敗れた中華民国政府は台湾に逃げ込み、中国は一つで、自分こそは中国を代表する唯一の正統政府であると唱え続けて現在に至っている。同年に樹立された中華人民共和国政府も同様の主張をしているので、中国の正統政府だと主張する二つの政府が存在していることになる。政治学的見地、さらに国際法から見て、台湾に存在する中華民国は独立した政治的実体(political entity)もしくは独立国であるゆえ、世界には「一つの中国」を唱える二つの中国が存在していることになる。 中華人民共和国(People’s Republic of China;略称PRC;中国)はその建国以来、「台湾解放」政策を放棄したことはない。台湾にある中華民国(Republic of China; 略称ROC;国民党政権)は当初、武力で中国大陸を奪還するという「大陸反攻」政策をとったが、1958年に米国の圧力で、「政治7分、軍事3分」の政策に後退1)、1980年代に入ってからは「三民主義による中国統一」、つまり軍事によらずして、孫文が唱えた三民主義の理念で中国大陸に影響を与え、それを通して自分が中国を統一するというまでに後退したとはいえ、両者対立の基本的図式は依然として変わらずに、今日に至っている。 だが、変化がなかったわけではない。中華人民共和国人民代表大会常務委員会は1979年1月1日に台湾にたいして「三通」(通郵・通航・通商)「四流」(学術・文化・体育・工芸の交流)政策を打ち出し、台湾側に通信・人的往来・貿易投資をよびかけた。また、1984年に英国と仮調印した香港返還協定において、中国は香港の中国返還後、50年にわたって、香港に資本主義的諸制度を維持することを約束した。共産主義中国のなかに資本主義香港の存在をゆるす、この俗にいうΓ一国二制度」は標的を台湾に置いているのは明らかである。 これら一連の攻勢を受けた国民党政権は、1987年11月に抑制気味ながらも「大陸親戚訪問」を許可して、これに応じた。従来、台・中間の人的往来は密航の形をとり、貿易は密貿易もしくは半公開の間接貿易にたよっていたが、これ以降、公開的になり、長期的友好関係を意味する中国大陸ヘの投資でさえ飛躍的進捗をみせた2)。 かようなことから、長期的に見て、台・中間の関係は対立緩和を通り越して、政治的融合、果ては統一に向かうかどうか、この論文において考察した。 二 国民党が「一つの中国」に固執する理由 国民党政権は「一つの中国」を唱え続け、今日に至っているが、「一つの中国」への執着度は中国政府のほうが、はかるに強い。いままで中国政府のこの政策は微動だにしたことはなかった。それに反して、国民党側は、国際情勢の不利な展開、中華人民共和国との軍事力面での格差、台湾内部の変化などの理由によって、その主張を弱めつづけてきたといってよい。武力による台・中関係の解決についても、これに似た傾向が見られる。図に示すと、つぎのとおりである。 蒋介石はその生涯を反共に注ぎ、「大陸反攻」の執念は死しても消えなかった3)。だが、政策面では既述のように1958年に後退、これをきっかけにして爾後、歴代総統が代を追うにつれて、その武力による大陸反攻の意欲は弱まり、必然的に中華人民共和国と分立する形に傾いていった。ただ、表面的には「一つの中国」というたてまえを捨てていないので、「一つの中国を主張する二つの中国」という形態になったというべきであろう。国民党政権にとって、反攻と「一つの中国」は一対の政策なのである。武力による反攻大陸成功の可能性があってこそ、はじめて「一つの中国」政策に意味があるからだ。ところで、この対をなす政策が、総統の代替わり、つまり時間の経過に伴って弱まり、「一つの中国を主張する二つの中国」に傾いていったのはどうしてであろうか。その原因を探ることによって、現在の国民党政権の政策決定能力と政策動向が把握できよう。 国民党政権は基本的には独裁政権である。同政府の誕生は、1926年広東を基地としての北進(俗にいう北伐)開始に始まり、蒋介石が翌27年の上海クーデターにつづき、4月18日南京に「国民政府」を樹立して権力を掌握してからは、蒋家・国民党・政府はいわば三位一体となった。配列の順序もその順になっている4)したがって、ROC政府の政策決定は蒋介石の意向が左右する。ROCが中国大陸に存在していた当時はもちろんそうであった。1949年に台湾に敗退してからは、側近だけがついてきたことと、この人たちがこれから支配することになる台湾人5)にたいして共通の不安感が存在するため、強力な中心人物がいっそう必要になる。それゆえ、台湾に来てからの蒋介石の権威性はさらに高まったといってよい。 最高権力者としての蒋介石の政策決定の要素にかれの政治的理念と現実的利益とがある。 理念についていえば、満州を日本帝国に与えてでも、中国共産党討伐を優先させた6)ことからもわかるように、かれの反共意識は徹底している。ところが、こともあろうに、共産党に政権を奪われたのだから、政権奪還はかれの終生の目標になった。自分を正義にたつ「漢」にたとえ、「漢賊両立せず」をスローガンとし、二重承認をいっさい拒否し、あげくは国連での議席まで投げてしまった。「台湾をひとつの独立国にすれば、台湾の安全につながる」という内容の助言をかれは敢然と拒否した7)。 「台湾は中国の固有の領土だ」という考えかたも、かれのもう一つの理念であろう。この考えかたは、歴史認識よりも、「台湾はこの自分が日本から取り戻したのだ」という衿持に大きな比重があったからかもしれない8)。ともあれ、「中国から切り放すことになる台湾独立」につながりかねない「二つの中国」に、かれは一貫して反対した。「一つの中国」政策は、かれにとって別の作用がある。それは現実的利益に役立つことだ。 総統には6年という任期があり、中華民国憲法では再任は1回しか許さない。総統の選挙機関は国民大会であり、その構成員は「国民代表」で、任期は6年だが、1953年に任期切れになる。憲法の規定どおりに改選すれば、支配下の人口の85%を占める台湾人が国民代表の過半数を得るのは必定である。それでは総統の再任はおぼつかない。そこで蒋介石は、大陸奪還までは、物理的に全面的改選は不可能であること、台湾だけで改選しては、「全国」の民意を代表できないという理由でもって、憲法解釈権をもつ大法官会議にかけ、「国民代表」は改選することなく留任するのは合憲だと解釈せしめた。蒋介石の意向に反対できる大法官が一人もいなかったほどに、蒋介石の力は強大だったし、大法官たち自体、かような解釈に、外来支配集団9)である自分たちの利益を見出したのである。 国民大会にとどまらず、国会としての権力をもつ立法院・監察院も同様の手法でもって、永遠に改選することのない「万年国会」になった。総統の再任については、憲法に「臨時条項」を加えることによって無制限になった。「一つの中国」政策を取りつづけるかぎり、この権力システムは永遠に作動する。だから、蒋介石にとっては、「一つの中国」政策は、権力維持システムそのものであり、現実的利益があった。 それに蒋介石は、「一つの中国」政策を維持することよって、いつの日か、中国の中央政府として大陸にカムバックできると考えた。だが、これは実現されないまま、かれはその一生を終えたのである。 三 李登輝体制の支持基盤とその政策決定に影響をたたえる人的要素 前に、国民党政権の政策決定は一人の独裁者が左右したと述べた。独裁者の共通する性向として、権力の世襲がある。蒋介石のばあいも例外ではなかった。継承人はその長男、蒋経国である。1975年4月に蒋介石が5選の任期中に死亡したとき、一応憲法の規定通りに副総統の厳家yが総統職を継承したが、蒋経国も行政院副院長から院長(首相)に昇進した。厳家yは単なるワンポイントリリーフに過ぎないことは明白だった。厳家yは総統の座に居ながら、国民党の党主席になれず、蒋経国が党主席に選出されたのである。厳家yは蒋介石の政策を踏襲し、かつ蒋経国の意を迎えた。かれは無事に蒋介石の残存任期を勤めあげたあと、1978年3月の総統選挙には立候補せず、蒋経国が総統に選出された。本格的な蒋経国時代の幕明けであるが、実際上、蒋経国時代は蒋介石の死亡の時点から始まっていたといってよい。 ![]() 蒋経国の権力は絶大だが、蒋介石ほどのカリスマ性はない。権力の根源は父親の権威だったこと、国民党の長老が相当数生存しており、蒋経国は総統とはいえ、長老たちに遠慮せざるをえなかったことなどにより、かれの権威は当然ながら、父親に及ばなかった。蒋経国の権カヘの階段は父親による抜擢のほかに、特務(秘密警察)機関がある10)。だが、特務機関を握っているところにかれの強みがあった半面、陰湿さを伴うゆえに、マイナスになった。自分の時代に入ったかれが、台湾人の大量登用など、民主化の道に入ったのは、イメージ刷新を計りたかったことのほかに、後世の歴史評価を意識したからではあるまいか。もちろん、「一つの中国」政策に由来するROCの国際会社での加速度的長期低落11)、台湾内部での民主化要求の声などの事態も、かれの意識に作用を与えたであろう。「一つの中国」政策は、中華人民共和国による武力解放に根拠を与えるもの12)であり、台湾内部の民主化運動には、「一つの中国」政策への批判も付随する。だからこそ、独裁権力の低下は「一つの中国」政策否定、つまり「二つの中国」、さらには「一つの中国、一つの台湾」への傾斜となって現れるのである。 この傾向は、1988年1月の蒋経国の死で総統に昇格した李登輝の時代になるといっそう明確になった。 李登輝と歴代総統との相異点は数多い。李登輝の最大の特徴は、かれが生粋の台湾人であることと、中国大陸の土を踏んだことがない点である13)。 学者である李登輝が政治的力の背景を欠いたまま、無任所相、台北市長、省主席、副総統にまでなれたのは、自分自身のイメージ改善を計った蒋経国の抜擢によるものだった。その李登輝が総統蒋経国の死亡によって、副総統から総統の座に登りつめたのである。長期にわたる独裁政治の過程で培われた権威主義体制において、総統としての李登輝の権威に疑問が持たれるのはそのためである。かれの任期は蒋経国の残存任期が終わる1990年3月までであり、李登輝の生い立ちからいって、再選される見通しは不透明である。したがって、観察者の目には、台湾にとっての最大の課題ともいえる対中国政策について、李登輝は1990年3月の総統選挙を視野に入れねばなるまいと映る。 さらに、李登輝は政治上のストロングマンではないので、かれの対中国政策決定過程において、もろもろの勢カヘの配慮は欠かせないと見るべきだろう。すなわち、政策決定要素の複雑、多様化である。政策決定過程におけるこれらの諸要素としてつぎのものが挙げられよう。 1 軍部――台湾最大の力集団であり、国防部長郝柏村一級上将(元帥)が掌握している14)。 2 国民党部――行政院長李煥派と、党秘書長(幹事長)宋楚瑜派と、分かれているが、もろもろの勢力が入り組んでいるので、実際にはさらに複雑である。 3 特務機関――国家安全局・司法部調査局・国防部情報局・台湾警備総司令部……などがあり、従来の秘密警察系統に郝柏村集団が入り込み、これが中心勢力を構築しつつある15)。 4 国民大会――総統選挙機関であって、これを構成している国民代表の現在生存者数は791人で、そのうち1947年に選出されて以来改選されたことのないいわゆる「万年代表」は707人を占めている。なお、国民代表のうち、中国大陸出身者は693人である16)。 5 立法院――立法府であり、その構成員である立法委員の現在生存者数は265人で、そのうち1947年に選出されて以来改選されたことのないいわゆる「万年立法委員」は171人はを占めている。なお、全立法委員のうち、中国大陸出身者は204人である。 6 蒋派――旧蒋介石官邸派・旧蒋経国官邸派とを含むが、この両派の関係は必ずしもしっくりしているとはいえない17)。この派の総帥は、蒋経国の弟、蒋緯国である。 上記の諸要素は重複しているばあいがある。配列はパウアーの大きさの順になっている。 現総統李登輝の政策決定過程においては、上記の諸努力の動向への配慮が必要であり、諸勢力同士の相互牽制による影響も無視できない。 以上の諸要素に官僚の項目を入れていない。官僚集団が形成されていず、また、官僚は国民党に加入しないと昇進できない仕組みになっており、したがって、官僚は国民党の範ちゅうに属すると思われるからである。 また、日本では政府の政策決定において、財界は重要な役割を担っているが、台湾のばあい、高水準の国民総生産、活発な産業活動がありながら、経済分野にかぎっての企業、企業連合体の発言こそあれ、広い視野に立つ国政レベルの発言をする「財界」は育っていない。したがって、「財界」を諸要素の一つとして挙げられないのである。 ところで、以上の諸要素のほかに、 7 一般民衆 8 野党 もそれぞれの作用があるが、この二つの要素は上記の諸要素と性格を異にするので、別のところで述べたい。 四 台湾社会の変貌 1945年に国民党政権が台湾を占領してから半世紀近くたち、この間に権力構造も、台湾社会も変化した。変化の最たるものは住民の中産階級化であろう。 1971年の一人当たりの国民所得は441ドルだったのにたいし、80年には2,312ドル、86年が3,784ドルで、89年は7,200ドルに達するとみられる。世界171カ国のうちで、これは第二十数位を占める数字である18)。この数字は貿易立国の成果であり、台湾の企業は中小企業が国公営企業よりも効率が高く、それが貿易黒字を稼いでいる。台湾経済は中小企業が中心になっているといってよい。そのために、富みの分配は比較的に均等化しており、中産階級の拡大につながった。全住民の人数を高所得順に五等分すると、1980年では所得最高階層は最低階層の4.21倍であった。もっとも80年代に入ってから、格差がひろがり、1988年には4.85倍になり、状況は悪化しているが、中産階級が大きな階層を形成している図式は崩れていない。ちなみに、1988年における日本のそれは4.3倍である19)。 ところで、住民の中産階級化は意識の変化を伴わずにはいられない。特に中国との経済格差の拡大は大きな意味をもつ。人口10億8,8757万を擁する中国の対外貿易高が、人口が2,000万の台湾とほぼ同じである。また、単純な比較では、一人当たりの国民所得は台湾が中国の20倍近くである20)。かような優位にたっている台湾の人たちは、どうしても中国大陸にたいして自信をもつことになる。だが、自信とは裏腹に不安が交差しているのである。ROC政権が表面的にせよ、「一つの中国」のたてまえを維持している関係上、中華人民共和国による「台湾解放」は「中国」の国内問題の域に入り、中華人民共和国による台湾への武力侵攻を正当化してしまうからである。「一つの中国を主張する二つの中国」政策にしても、ほぼ同様のことがいえる。 このような矛盾は、もうひとつの矛盾を生む。そもそも中産階級には安定志向の傾向がある。安定とは現状維持を意味する。政治面でも、経済面でも変革を望まない。だが、台湾のばあい、現状維持とは、「一つの中国」政策の維持につながり、それはとりもなおさず、中華人民共和国の武力侵攻に身をさらすことを意味する。それでは孜々営々として築いてきた富みは砂上の楼閣でしかない一面がある。だから、中産階級は「一つの中国」政策からの脱却を望むようになるのである。 台湾社会のもうひとつの変化は「台湾意識」の強化である。 もともと台湾には「台湾人」と「中国人」との対立があった。政治の面では、台湾人が被支配者で、「台湾在住の中国人」が支配者、このような構図が確固として存在していた。ところが、戦後から起算して45年の歳月は、この対立を摩滅しつつある。国民党政権による一方的な中国人意識教育の影響により、台湾人の台湾人意識が薄くなり、他方、台湾在住の中国人の台湾化が進んだ。いわば両者の融合的接近であり、その結果として、新しい意識としての「台湾意識」が育まれていった21)。 この意識は従来の「台湾人意識」とは違う。 1960年代までの台湾人意識は中国人に対抗する意識であり、これが進捗すると、中国民族とは別個の台湾民族の成立を主張するに至る。かような台湾人意識の対抗の客体は中国大陸の中国人にとどまらず、台湾在住の中国人も含まれていた22)。 これにたいして、「台湾意識」は、台湾という地理的カテゴリーを中心にして、これに拠って立つ人びとの共同意識であり、種族的要素を退けた運命共同体観である。その対抗の客体は中華人民共和国である。「台湾にアイデンティティをもつ者はすべて台湾人」という考えかたといってもよい。この考えかたは1970年代に入ってから現れたものであり、この年代の後半には顕著になった23)。かような変化は上述の国民党政権による教育などだけでは説明はできない。つぎの原因が挙げられるであろう。 1 時間の効果 いがなる厳しい対立も、時間の経過はそれを和らげる効果がある。対立感情が残っていても、昔日ほどのものではなくなる。 2 交流の効果 面積わずか3万6,000平方キロフートルの島嶼台湾で生計を営んでいる以上、交流はどうしても避けられない。交流は摩擦をも生むが、相互接近の成果を挙げやすい。 3 「血融24)」の効果 戦後、台湾に渡ってきた中国人は、国共内戦での敗走による渡航者が多かったので、男性が大多数であった。したがって、中国人同士の結婚よりも、台湾人女性との結婚が現実性が大きかった。結婚は親戚の範囲を拡大する作用があるうえに、誕生する子女はふたつのアイデンティティを持つようになる。しかし、台湾という土地に立脚しているため、アイデンティティの重点は「台湾」におかれるのは極めて自然である。 4 政治的・経済的利益配分の効果 国民党政権は台湾人の政権獲得を警戒して、意識的に台湾人を政権や政治の場から遠ざける政策をとった。必然的に台湾人は経済活動に血路を見出そうとする。これが台湾の経済発展につながったのであり、結果的に台湾人に不満のはけ口を提供する恰好になった。中国大陸出身者は政府の分野、台湾人は経済の分野、という図式ができあがり、それで相対的利益配分の成果が見られるのである25)。 5 中華人民共和国の経済停滞の効果 これは既述のとおりであるので省略する。 五 大陸渡航解禁の理由 では、対中政策についての世論はどうなっているのであろうか。 台湾人社会は伝統的に農村地域住民のほうが、都市の住民よりも、また低学歴者は高学歴者よりも台湾人意識が強い26)。ただ、国際問題に疎いため、対中問題、台湾の独立にまつわる諸問題について知識を持っていず、したがって、意見を表明することは稀である。 上層階級は例外こそあれ、伝統的に概して政治権力におもねる傾向がある27)。そのため、統治者は台湾の上層階級の意向を無視しても不都合を生じないのである。台湾人上層階級のこの特性は財産保護の観点に由来しているように思われる。政治権力に忠誠を誓えば、それだけで栄華を保持できる。特に、国民党政権の法律によれば、反逆者への刑罰に、財産没収28)があるので、富裕な階層はことさらに統治者にたいして唯々諾々せざるをえないのである。台湾の上層階級は、共産主義体制下の中国の支配を受ける意志はまったくないが、台湾を中国から独立した国にすべきだと主張すれば、国民党政権の「一つの中国」政策に反対することになるので、これを唱えるわけにはいかない。 中産階級は中華人民共和国にたいして、自信と不安とが交差し、中国政策については、安定志向と変革志向とが混在していることはすでに述べているので、贅言しない。 1986年9月28日に結成された国民党政権統治下台湾人の初の政党――民主進歩党は住民自決による台湾の将来の決定をその綱領に掲げた。そのめざす目標は「台湾の主権の独立」にある。 1987年4月18日に、鄭南榕が数千人の群衆の集う集会で公然と台湾の独立を主張、つづいて5月9日発行の、自分の主催する週刊誌『自由時代』で同様の主張を展開した。かれは在台中国大陸出身者の子弟、いわば二世であるため、一大センセイシッンを起こした29)。従来では台湾独立思想は、生粋の台湾人だけのものと見られていたからである。しかも、公然と主張するケースは初めてのことであったのである。6月11日には、200人の小規模だが、最初の独立デモが江蓋世という一青年の指導下でおこなわれた。 こうして、台湾内部で台・中関係にまつわる解決方式が出揃ったことになる。中・台合体から台・中分離にいたる順序で記すと下記のようになる。 「一つの中国」―→ 「一つの中国を主張する二つの中国」―→ 「二つの中国」―→ 「一つの中国、―つの台湾」 この年、つまり1987年の7月15日に、総統蒋経国は38年におよぶ戒厳令を解除した。また、11月2日には、現役軍人と公務員を除き、大陸に3親等以内の親族がいる者の大陸渡航を許可した。中華人民共和国全国人民代表大会常務委員会の「三通・四流」提案から起算して8年目、1981年の葉剣英9項目提案30)から起算すると6年目になってから、国民党側が前向きの実際行動でこれに応えたわけである。この間、1984年に中華人民共和国は英国との香港返還協定交渉過程において、「一国二制度」政策を打ち出した。共産主義国、中華人民共和国のなかに、香港が返還される1997年から50年間にわたって、資本主義体制の存続を香港に許すという政策である。この政策は台湾にも適用があると発表された。台湾を香港と同様に中華人民共和国内の「特別行政区」にするというのである31)。こうした流れからすると、国民党側が中華人民共和国の提案を受け入れたかのように見受けられる。だが、はたしてどうだろうか。 大陸親族訪問の制限的解禁をした1987年11月は、蒋経国時代の末期であった。この時期になると、蒋経国すら「私も台湾人である」といって民衆にアッピールをこころみる32)ほどに、台湾化が進んでいた。台湾住民のあいだで、「台湾意識」が高まっているときに、大陸親族訪問を許可したのは、国共合作の推進というよりも、ほかに狙いがあるとみるべきだろう。それはつぎの4点にわけて考えられる。 1 台湾には1949年に大陸から内戦に敗れて逃げてきた軍人がその後、退役し、退役軍人として生活しているのが、60万近くいる33)。将軍は国公営企業に再就職して優雅に暮らせるが、下級将校以下は生活が苦しい。この人たちの望郷の念はその分だけ強い。 軍人以外でも、同時期に親や妻子を大陸に残したまま、逃げてきた者が約100万人いる。蒋介石は5年で大陸を取り戻すと約束したが、大陸反攻はもはや不可能になっていることは、誰の目にも明らかになっている。親族訪問許可は、“逃亡者”の望郷の念を癒す作用があり、さらに、大陸反攻政策失敗の代償という意味があろう。 2 このころになると、台湾内部で公然と「台湾の独立」を主張する動きが見られるようになっていた。中華民国と中華人民共和国の並立を意味する「二つの中国」とは違い、「台湾共和国」を新たに樹立する台湾独立運動は、ROCつまり、中華民国体制を否定するものであるだけに、国民党政権は中国大陸の山河の壮大さを直接体験させることで、若い世代に中国へのアイデンティティを再び持たせようと考えた面もあろう。これは両刃の刃であり、「中国へのアイデンティティ」は中華人民共和国への傾斜につながりかねない。だが、台湾と中華人民共和国との経済格差に国民党政権は自信を持ち、それは避けられると読んだのではあるまいか。 3 国共間の緊張緩和を通して、「一つの中国を主張する二つの中国」の状態を定着させる。これが蒋経国のめざしたものであるかもしれない。ROCとPRCの共存、さらにROC体制の継続的維持、つまり、国会の全面改選を要しない状態を維持しつづけることによって、国民党による台湾統治を半永久的に維持する、これが蒋経国路線といえよう。 六 ROCの対中政策とその展望 国民党政権の対中政策決定において、現総統李登輝には蒋介石のカリスマ性はないので、配慮すべきことは多い。制度的には、国民党中央常務委員会が政策の最高決定機関であり、かれは党主席を兼任しているとはいえ、蒋介石のように、独断専行することはできない。常務委員会は李登輝のもとで1988年に改選された結果、台湾人が半数を占めるようになった。ここに李登輝の拠り所があるわけだが、実際には残りの半数を占めている中国大陸出身者が大きな力をもっている。この部分こそ、第3節で提起した軍部・国民党部・特務機関・国民大会・立法院・蒋派の実力者だからである。この実力者たちにとっては、現状維持こそもっとも好ましい。特権を維持できるからである。「一っの中国」政策をとりつづければ、全面改選をしない万年国会を継続できる。そして、万年国会の一つである国民大会を通して総統・副総統の改選は自分たちの意のままになるから、バーゲニングパウァーを駆使し34)、政府の要所を固めることができる。 総統兼国民党総裁の座にいるとはいえ、台湾人である李登輝としては、かれらに敵意を抱かれては、危険だという危惧を抱いているであろう。 李登輝は当初、蒋経国の政策をそのまま踏襲した。しかし、かれは蒋経国とは背景が違う。かれは自分の力で総統になったのではない。蒋経国のすいばんによって副総統になり、蒋経国の死によって総統に昇格しただけのことであり、1990年3月におこなわれる総統選挙では、万年国会のひとつである国民大会の意向をまたねばならない。国民大会に張りめぐらされている軍部・国民党部・特務機関などの勢力、つまり、在台中国大陸出身者の意向に汲々とせねばならない。この観点から、李登輝は少なくても、「一つの中国を主張する二つの中国」策を踏襲せねばならない。 他方、李登輝は生粋の台湾人でリベラルな知識人として、台湾人のあいだで広汎な人望がある35)。かれの政治的将来は蒋介石・厳家y・蒋経国ら3代の総統とは違って、万年国会よりも、一般の台湾民衆が頼りになる。したがって、かれは「一つの中国を主張する二つの中国」政策に固執する必要はない。しかも、蒋介石が背負っていた既述の「政治的理念」と「現実的利益」などの荷物はまったくない。換言すれば、「二つの中国」はもとよりのこと、これよりもさらに進んでいる「一つの中国、一つの台湾」は李登輝にとって有利な政策である。だが、かれには特権の喪失を恐れる在台中国人実力者たちの抵抗を押さえられる力量を持っているとは考えられない。李登輝時代に入ってからの、かれの対中政策が「一つの中国を主張する二つの中国」政策と「二つの中国」政策のあいだを徘徊しているように見えるのはそのためである。 これを具体的に検証しよう。 蒋介石のように、「一つの中国」を主張するかぎり、国民党政権は中華人民共和国とは同席できない。国民党政権にとって、「中華民国政府こそ中国の唯一の正当政府で、PRCは単なる反逆者集団に過ぎない」からである。 国民党政権は厳家y・蒋経国時代においてすでに若干後退し、「一つの中国を主張する二つの中国」政策の時代に入ったといえるが、この政策自体、「一つの中国」というたてまえは残されているので、状況は同様である。 ところが、李登輝時代になると、李登輝は別の対応のしかたを見せた。 1 アジア開発銀行北京総会のケース 1989年5月、中華人民共和国の首都北京で開催された総会に、李登輝は現職の財政部長(大蔵大臣)郭婉容を代表として派遣した。この財政部長は会議中、中華人民共和国の国旗・国歌・元首にそれぞれ敬意を表した36)。これは、相手を「反逆者」としてでなく、「外国」として扱い、国際間の礼儀に基づく行為そのものであり、少なくとも「二つの中国」の姿勢をとったと解釈できる。以下のケースも同様である。 2 二重承認を志向したケース ROCは、中華人民共和国と外交関係のあるグレナダと1979年7月に外交関係を樹立した。これは二重承認を意図したものである37)。けっきょく、中華人民共和国がグレナダと断交したため二重承認は実現しなかったが、中華人民共和国が加入した国際組織からは脱退する、中華人民共和国と外交関係を樹立した国とは断交するという、「漢賊両立せず」の政策をとった前任者たちとは明らかに違う。 3 国際組織再加入のケース GATT(関税貿易一般協定)やOECD(経済協力開発機構)への再加入に積極的に努力している。この二つの国際組織に、中華人民共和国は加入を申請中であり、中華人民共和国の加入後に、初めてROCの加入審査が可能だというのに、それでも意欲的な姿勢を見せている。 OECDに関しては、ROCはすでに1989年には、発言権のない個人としてのオブザーバーの形で出席しており、1990年には同様の資格ながらも、発言権を持ち、かつ研究発表を許されることとなっている38)。ROC側は、中華人民共和国の加入を待ってから、加入申請をすることはまちがいない。また、国際連合への再加盟は、中華人民共和国の拒否権が控えているので、実現は不可能に近いが、それでも、李登輝の側近である外交部長(外相)連戦は再加盟の希望を捨てないと表明している。 4 「一国二政府」のケース 「一国二政府」の構想は外交部長連戦が1989年4月8日に発表したものである。「中国」という抽象的な国があり、たまたま中華人民共和国が有効的に中国大陸を支配しており、中華民国が台湾を有効的に支配しているという内容である39)。 近代国際法には、「一国二政府」の概念はない40)。一つの国に一つの政府があるだけで、政府が二つあれば、もはや二つの国である。 上述の四つのケースはいずれも「二つの中国」をめざすものであり、しかもそのほとんどが総統李登輝を中心にして、側近だけで推進してきたと見られることである41)政策の最高決定機関であるはずの国民党中央常務委員会の決定を必ずしも経ていない。これは在台中国大陸出身既得権所有抗を排除したいとの李登輝の姿勢を示すものであ者の抵り、またそれだけ強い抵抗が存在していることをも示している。「一国二政府」は在台中国大陸出身者実力者の非難に会い、この案を提起した外交部長は沈黙してしまった。結果的にはこの案はバロンデッセーの役割を果たしただけにとどまったが、総統李登輝の対中政策が、この方向を志向しているといっても過言ではない。 「二つの中国」をめざしながら、抵抗に会うと、ひとまず後退して「一つの中国を主張する二つの中国」政策にもどる。これが、ROC現政権の行動パターンであり、このパターンをくりかえしながら、現政権は「二つの中国」に向かうように思われる42)。 注 1) 金門砲撃戦にまつわる米国との交渉については、戴天昭『台湾国際政治史研究』法政大学出版局、1971年、460〜463頁を参照されたい。 2) PRCの発表によると、1988年の1年間に台湾からの訪中者数は45万人、間接貿易高28億ドル、直接貿易高2700万ドル、投資高5億ドル。 3) 蒋介石の遺体は台湾に埋葬されず、中国大陸の「共産党匪賊」を倒し、大陸反攻に成功してから、改めて中国大陸に埋葬することになっている。かれの生前の意志によるもの以外に考えられないが、それほどにかれの反共の意志は堅かったといえよう。 4) 「革命」はもともと政府への反抗を意味するが、ROC体制下では、国民党の政策そのものを指す。孫文以来、国民党はずっと「革命」をしつづけてきたというのである。蒋介石の時代になると、蒋介石や国民党政権に反抗するのはすべて「反革命」、「反動」であり、蒋介石に忠誠をつくすことが「革命」であるとされるようになった。 5) 当時の通念では、日本の敗戦までに台湾籍にあった人たちを「台湾人」という。この間題については、拙論文「台湾の民族と国家―その歴史的考察」、『国際政治』84号、1987年1月、62〜79頁を参照されたい。 6) 満州事変が起こったとき、蒋介石は第3次共産党包囲作戦の最中であった。蒋は両面作戦を不利だとし、抗日よりも共産党包囲作戦を優先させた。大久保泰著『中国共産党史』原書房、1971年、上巻、382頁。その徹底した反共ぶりは第2次大戦後の日本保守勢力の蒋介石礼賛の一因になっている。 7) 1970年、国際連合における中国代表権問題が国民党に著しく不利になったさい、岸信介元首相は訪台して蒋介石にその旨を進言したが、蒋介石は顔色を変えて、無言のまま、拒否した。1977年に岸氏が筆者に語ったことによる。 8) 実際には、台湾は中国の固有の領士ではない。この点について、筆者は『台湾の法的地位』(東京大学出版会、1976年)で詳述しているが、PRC、ROCのいずれも「台湾は中国の固有の領士だ」と主張してやまない。 9) 1949年に国共内戦に敗れ、台湾に敗退した蒋介石は南京にあった膨大な中央政府機構をそっくり台湾に移した。台湾人の参政権は基本的に排除されているので、台湾人にとってそれは「外来支配集団」そのものである。 10) 孫家騏『蒋経国竊国内冪』香港・自立出版社、1961年。江南著『蒋経国伝』ロサンジェルス・美国論壇社、1984年。江南はこの書物で蒋家の忌緯に触れ、同書刊行の数カ月後に、ロサンジェルスで暗殺された。 11) もともとROCは国際連合常任理事国として世界のほとんどの国ぐにと外交関係があったが、1949年のPRC建国をきっかけにして、ROCと断交する国がつづき、1971年にROCが国際連合から追放されてからROCの外交関係は一流千里の勢いで下降線をたどった。ROCが断交した国の数は1971年が12カ国、1972年15カ国、1973年4カ国、1974年7カ国、1975年5カ国、1976年1カ国、1977年3カ国、1978年1カ国、1979年1カ国、1980年1カ国、1983年2カ国、1985年2カ国、1988年1カ国で、この間に合計55カ国と断交している。もっとも、1972年以降、1989年2月までに9カ国と新たに外交関係を樹立したが、長期的凋落ははっきりしている。『自由時報』1988年2月4日づけ参照。 12) 中国が一つである以上、中央政府が地方の反乱を鎮圧するのは、内政問題である。 13) 日本統治下の台湾で生まれた李登輝は、京都大学に学び、戦後は米国のコーネル大学に留学、中国大陸を訪れたことはまったくなかった。中国大陸へのノスタルジアは皆無といってよい。 14) 徐策編『90年代台湾前途主導人物』軍人篇1・2、台北・天相出版公司、1989年、を見よ。 15) 治安関係各機関の首長はいずれも陸軍が握っており、陸軍の将官はほとんどが1981年12月1日から1989年12月5日にかけて8年の長きにわたり、参謀総長の座を独占した現国防部長郝柏村(一級上将、元帥に相当する。停役中)の系統に属しているといわれる。上掲書、軍人篇1、20頁。 16) 1989年10月17日現在におけるROCの国会は次の構成になっている。 立法委員 265人 万年委員 官選華僑委員 民選委員 171人 24人 70人 64.5% 9.1% 26.4% 100% 監察委員 2人 万年委員 官選華僑委員 民選委員 21人 9人 22人 40.4% 17.3% 42.3% 100% 国大代表 万年代表 民選代表 707人 84人 89.4% 10.6% 100% 17) 国民党体制下では、出世するには、蒋家で秘書、侍従武官を勤めるのが捷径だとされた。そして、このような人たちを官邸派という。蒋介石の死後、総統官邸はその妻、宋美齢がそのまま住みつき、蒋経国が総統に就任したあと、別個の官邸を設けた。基本的には、蒋介石への忠誠の面では一致していたとはいえ、蒋介石官邸派は長老的存在になっていたのにたいし、蒋経国官邸派は若輩という意味もあって、対抗意識があった。 18) 台湾のper capita ineome は1980年31位、1985年が25位、1989年の数字はまだ出ていないが、21位ぐらいであろう。総務庁統計局『国際統計要覧1988』大蔵省印刷局、1988年、185〜186頁に基づいて試算。 19) 週刊『争鳴時代』(『自由時代』の別称)293号、1989年9月9日、58頁。 20) 国民所得は一般的に国際連合のSNAシステム(System of Nationa1 Accounts)をとっているが、中国は独自のMPSシステム(System of Material Product Ballances)をとっているので、単純比較は必ずしも妥当ではない。だが、ひとつの目安にはなる。 台・中per capita income 比較表(US$) 年度 台湾 中国 倍数 1984 3,046 196 15.5 1985 3,144 211 14.9 1986 3,784 199 19.0 1987 4,989 238 21.0 1988 6,016 289 20.8 台湾関係の資料源は日本貿易振興会国別経済貿易情報システムによる。中国関係の資料源は同システムの為替レートに基づき、中国研究所編『中国年鑑88年版』大修館書店、255頁の数字で計算、1987と88年は中国国家統計局編『中国統計年鑑1989年』中国統計出版社、1989年、17頁に基づいて計算。 21) この問題について筆者は、1989年5月21日一橋大学で開催された日本国際政治学会で、「台湾の民族と国家――第2次大戦後の状況」と題する発表をしている。 22) 台湾独立運動の機関誌のひとつ、月刊『台湾青年』の1960年代の各号を参照されたい。 23) 台湾独立運動の機関誌のひとつ、季刊『台独』の1970年代の各号を参照されたい。 24) 「血融」ということばは、平埔族系台湾人と漢族系台湾人との融合をいうとき、「同化」という表現よりも「血の融合」という表現が実状に近いとする台湾人文学者御龍氏の新造語。台北・新文化雑誌社発行『新文化』2、1989年3月1日、98頁。 25) 国家公務員試験では、台湾人の合格者数は法律によって制限されている。公務員、高級将校の分野でも、台湾人の進出は政治的に押さえられている。 26) 筆者の経験に基づく実感。 27) 林献堂などのような存在は、数わずかな例外だろう。 28) 「懲治叛乱条例」第8条の規定。 29) 週刊『自由時代』171号、1987年5月9日。週刊『郷土時代』(『自由時代』と同じ)272号、1989年4月16日、特に35頁。鄭南榕は100パーセントの言論の自由と台湾の独立を主張して、1989年4月7日に自分の経営する自由時代社の編集長室で自焚した。 30) 葉剣英の9項目提案: 31) ただし、香港よりも寛大な措置をとるという。この問題については、若林正丈編著『台湾――転換期の政治と経済』田畑書店、1987年、第5章を参照されたい。 32) 1987年7月のある日、蒋経国は12人の民間の友人にたいし、「私は台湾で40年近く生活し、もう台湾人だ」と語った。伊原吉之助「台湾の政治改革年表・覚書」、『帝塚山大学論集』60号、1988年3月10日、43頁。 33) 「戦士授田証」の発行数による。そのうちには若干の台湾人も含まれていると思われるが、ほとんどが中国大陸出身者である。 34) 国民大会の職務は6年に一度の総統・副総統選挙と憲法の改正だけであり、第1期の国民大会代表は1954年3月29日に任期満了になるはずだったが、総統蒋介石は次期の国民大会が招集されるまで、第1期の国民大会代表はその職権を行使できる旨を「批准」した。上掲、『中国国民覚九十年大事年表』、460頁。 1960年3月11日に蒋介石は憲法に臨時条項を挿入して総統三遷を可能にした。憲法改正の権限を持つ国民大会代表は、本来、無給だったが、この機会をとらえ、立法委員なみの歳費の支給、さらに住宅の提供などの特権を条件に蒋介石と取引し、これに成功している。 立法委員の任期は3年で、1951年5月7日に満了したはずだが、総統蒋介石の要請に基づき立法院は3回にわたって、1年ずつの立法委員任期延長決議をした。1954年1月29日に大法官会議は立法委員と監察委員との「万年議員化」の道を拓く憲法解釈をおこなった。曾済羣『中華民国立法院之組織与職権分析』台湾商務印書館、1975年、35〜36頁。 35) 総統をやめたあとは、「宣教師になりたい」とかれは言っているが、政治家によく見られるはったりだとあざける人はいないことからも窺える。 36) 1989年5月5日づけ、台湾各紙を見よ。 37) ROCは1989年7月にグレナダと、10月にリベリアと外交関係を樹立し、外交関係を持つ国の数はようやく25に達した。この両国のばあいが、いずれも二重承認を狙ったものであることは確かであり、これは李登輝に先行する歴代の総統の時代には見られなかったことである。 38) 『自立早報』1989年9月6日付け。 39) 連戦が1989年4月8日、立法院予算委員会での答弁で発言したもの。『中央日報』1989年4月9日付け、『自立早報』同日付け参照。このアイディアを提供したのは、米国ブラウン大学政治学教授高英茂氏であろう。『中央日報』4月10日付け、同氏にたいするインタビュー記事を参照。 40) 外国の新政府の承認に関する政策として、この新政府が一定の正統な根拠の上に立っていることが必要だとする説、つまり、正統主義(1egitimism)がある。これは革命を阻止するため、19世紀初めに持ちだされたものであり、国の承認政策として主張されるものであって、政府承認の国際法上の要件としては、事実主義(de-factoism)、つまり、新政府が一般的事実上の政府として、実効的、自主的な権力を確立するだけで十分である。国際法学会編『国際法辞典』鹿島出版会、1975年、「事実主義」と「正統主義」の項を参照。 41) アジァ開発銀行北京総会での「表敬演出]は明らかに総統李登輝――財政部長郭婉容ラインのごく少数の総統側近による極秘決定によるものである。ROC代表団の薛毓騏同銀行理事(総統府国策顧問)でさえ、北京到着まで、このような演出については何も知らされなかったため、現地でとまどい、団長の郭に抵抗したといわれる。 42) 「二っの中国」とは、「中国」という国が二つの国に分裂したことを意味し、東西両ドイツや南北朝鮮のように常に「全国統一」が問題になり、個々の分裂国家の恒久的な独立そのものが不安定である。台湾は歴史的に中国の固有の領土ではなく、国際法上、たとえば日本政府や合衆国政府が現在もその立場を変えていないように、台湾に関する領土上の主権はあいまいな状態にあることは、前掲書、『台湾の法的地位』で述べているとおりである。「一っの中国、一つの台湾」は、台湾の独立した主権を明確にし、かつ、恒久的に確定する方法ではあるが、在台大陸出身特権保有者の抵抗が大きいので、李登輝は、そこまで進むことについては躊躇すると見るべきであろう。 |
台湾独立建国聯盟ウェブサイト /WUFI Web-site
World United Formosans for Independence
ご意見はwufidata@wufi.org.twあてにお送りください。
そのばあい〔言論広場〕に転載します。
お手紙を掲載されたくないばあいは、その旨を明記してください。
あなた様のご光臨とご支持に感謝します。