| 台湾の歴史──オランダから日本植民統治まで |
| 黄昭堂/台湾独立建国聯盟主席 原載『台湾』1巻8号 |
台湾は澎湖諸島と台湾島の総称であり、緑に包まれた美しい島々である。 十五世紀頃台湾の近海を航海したポルトガル人は台湾の美しさにうたれ、“おお麗わしき島かな!”と讃えたが、十七世紀から始まったその歴史は悲惨なものであった。十七世紀から二十世紀にいたる台湾の約四世紀の歴史はそのまま植民地の歴史を綾なすものである。 一、オランダ植民地時代(一六二四〜一六六二) 台湾はフィリピン群島と日本列島の間に位置して、東シナ海を扼し、地理的には要衝をしめているがその開発は遅れ、列強に注目されたのは十七世紀以降であり、それまでは和冠や海賊流匪の巣窟になっていた。その原住民は狩猟生活を営むポリネシア系人、俗に高砂族または高山族と呼ばれる人たちである。 他方、澎湖諸島は台湾島よりも先に大陸の王朝から注目された。十四世紀中葉に元朝がここに数年間巡検司をおいたが間もなく撤廃た。約二世紀後、明朝が再び巡検司を設けたされが、これも間のなく撤廃され、明末には澎湖島も諸国の海賊の巣窟になった。このように、元朝、明朝ともそれぞれごく短期間澎湖島を領有したが、明末にはこれを放棄したのであった。 明朝が澎湖島を放棄した後、対清、対日貿易の商船航路の途中に位置している澎湖島の重要性に着目したのはバタビアに本拠をおくオランダ東印度会社であった。一六二二年にオランダ艦隊は澎湖島を占領し要塞を構築した。これに対し明朝は澎湖からオランダ人が退去し、その代わり台湾島に移転し、そこに防衛工事を構築するよう希望した。だがオランダ側はこれを受けいれず、明朝軍との間に戦端が開かれた。一六二四年に至って、オランダ側は自らの軍事的不利をさとり、明朝側の要求通り澎湖を退いて台湾島に拠ることに同意し同年に締結された条約によって、オランダ人は明朝軍の援助のもとに台湾島にその根拠地を移転した。 かように台湾島によることはオランダ人の本意ではなかった。だが台湾島の貿易上の位置がよく、その上オランダ人が明朝より貿易上の特権を与えられたため、時すでにフィリピンを領有し明朝との貿易に従事していたスペインは自らの利益が損なわれたとした。オランダ人は安平にゼーランシャ城を、赤嵌にプロビンシャ城を築いて台湾経営に乗りだしたとはいえ、その支配地域は台湾南部の安平•台南一帯にすぎなかった。そこでスペインはオランダに対抗するため遠征軍を台湾島の北部に派遣し、一六二六年に基隆を占領し、サン•サルバドル城を築き、一六二九年には淡水にサン•ドミンゴ城を築いた。かくて台湾島の北部と南部のそれぞれの一郭がスペインとオランダの植民地になったのである。 スペインが台湾島を貿易中継地として利用したのみであったのに反し、オランダはそれにとどまらず、農地開拓にも着手した。オランダは台湾島で甘蔗を栽培せんと計り、大陸から漢人の移住を奨励した。これはジャワにおいて漢人移民を雇用した経験によるものであったといわれる。時あたかも大陸においては明朝の末期にあたり、あいつぐ兵乱と飢饉によって農村は著しく疲弊し、農民が南洋各地にその活路を求めていた時期であったため、台湾への移民も少なくなく、その数は婦女子を別として二万五千にのぼり、在台漢人の総数は十万に達した。ほぼ同時期における高砂族の人口も十万を算した。 在台漢人移民にせよ、ともにオランダ台湾政庁の支配であったことから、両者にとってオランダ人は共通の敵であった。 オランダ人は文字を持たない原住民を教化し、後世に与えた影響は大きい。だがその苛斂誅求はしばしば高砂族と漢人移民の反乱をよびおこした。ことに一六五二年に郭懐一の指導によっておこった反乱は規模が大きかった。この反乱は十四日間持続したが、オランダ台湾政庁の勝利に終わり、郭懐一は戦死し、事件後処刑された移民は一千人にのぼった。 これより前にオランダ台湾政庁は、北部にスペイン人が割拠することを不利として一六四二年に兵を北部に進め、これを降ろした。その結果スペイン人による台湾北部の支配は十六年間にして崩れさり、台湾島はオランダの獨壇場になった。だが在台オランダ人にも厄運が訪れつつあった。満州に崛起した清朝が入関し、明朝の主力を撃滅して大陸をほとんど席捲するに至り、明朝の知遇を得た鄭成功は華南一帯で奮戦し、明朝の復興に努めたが、清軍に追いつめられ、台湾にをの活路をみいだそうとしていたのである。 二、鄭氏王朝による植民地時代(一六六二〜一六八三) 一六六一年四月鄭成功は兵二万五千を台湾に進めて澎湖を手中に入れ、ついでプロビンシャ城を陥しいれて同城内に承天府を開き、台湾を東部と改称した。つづいて一六六二年にはゼーランじゃ城に籠城していたオランダ軍を降し、かくて三十八年間にわたるオランダの台湾島統治は終焉を告げた。 鄭成功は台湾をその手中に入れたとはいえ、その志は台湾に蟄居するにあるのではなく、清朝を打倒して明朝を復興することにあった。鄭成功の母が九州平戸の出であることから、鄭は日本に支援を乞う一方、勢力の拡充を図るため呂宋攻略を計画したが雄図空しく渡台5ヶ月後に病没した。 鄭成功の跡を継いだのが当時厦門に残留して清軍と対峙していた長子鄭経であった。 この年(一六六二)台湾内部で王位をめぐる陰謀があったため、それを鎮めるため、鄭経は始めた渡台したが、翌年にはまた厦門に戻った。鄭経にしても鄭成功と同じく、台湾経営よりも清朝との拮抗を重視したのであった。だが鄭成功によって台湾島を追われたオランダ人はその怨恨から、また金門に対清貿易の拠点を取得する約束のもとに清軍と連合して鄭経軍と戦い、ついにこれを金門から追った。大陸における拠点を失った鄭経はやむを得ず、一六六三年に台湾に退去したが、その後も機に乗じて大陸に出兵した。鄭経はその在位の十九年間を専ら清朝との戦闘に明け暮れ、台湾経営に尽力したのは実にその部下陳永華であった。 陳永華は明朝への忠節を力説し、儒学による文官試験制度を確立して人材を登用した。また官制を整備し、土木を興し、開墾を奨励し、米作、製糖、製塩、煉瓦製造の産業も進めた。かくして鄭経統治下の台湾は清国に対しては一敵国たる脅威を与えた。 清朝は鄭軍の侵攻を恐れ、一時は遷海令を発し、華南沿岸の住民を内陸に移したがそのため、沿岸の住民は生活が苦しくなり、台湾に逃れるものが続出した。 鄭経が病没して三代目の鄭克Jの統治時代に入ると、鄭氏王朝内の権力闘争が激しくなり、他方清国からの政治的軍事的攻撃はいよいよ活発になった。すなわち一方に於ては鄭氏の文武官に対して誘引政策を進め、一方に於ては武力侵攻政策を推進した。武力侵攻政策の中心人物となったのは水師提督施Kであった。 さきに、清朝と鄭氏の間で平和交渉が行なわれたが条件がおりあわず、ついに施Kの武力侵攻策がとられ、一六八三年に清軍は台湾に猛攻を加えた。この時鄭王朝の苛斂誅求がたたり、台湾住民は戦意がなく、鄭軍は崩壊した。 鄭氏が清の軍門に降って、台湾の領土権は清朝に帰したが、清朝が台湾に軍を進めた目的は、専ら反清の根源である鄭王朝を打倒するにあったので、台湾を領有するためではなかった。それ故清朝内部では、鄭氏なき後の台湾に対しては、はじめから放棄論が有力であった。しかし水師提督施Kは独り強硬に台湾領有を主張した。それで清朝はようやく台湾の領有を決定したのである。 三、清朝植民地統治時代(一六六二〜一八九五) このように清朝の領台は消極的なものであったが、それはその後約二世紀にわたる台湾統治策にも現われ、台湾における清朝の建設はほとんでみるべきものがなかった。 一応台湾を領有することになった清朝は、台湾に“反清復明”の狼煙が再び燃えあがることを恐れ、厳重な渡航禁止令をしき、大陸より台湾への移民を禁止、または制限を加えた。この禁止令に数度の緩急を繰りかえし、それが完全に解かれたのは実に二世紀後、清国が台湾を日本に割譲する直前になってからである。それにもかかわらず、密航者はあとを絶たず、自然増加を含め、十九世紀末には、台湾の人口は二百六十万に達した。 これら移民は殆どが福建、広東の貧困な地域からきた人たちである。彼らは生活苦から台湾に新天地を求めたのであった。台湾海峡の波は荒く、簡陋な船舶で渡航することは命がけの冒険であった。しかも清朝当局の目をかすめての違法行為である。欧米諸国の海外移民が政府の奨励乃至は保護によるものであったのと比べると格段の相違がある。 これら台湾住民は完全に自らの力に頼って台湾を開拓していった。そこへ清朝の官吏が支配者然としてこれを統治し、苛酷な税をとりたてたため、清朝当局に対する台湾住民と反乱は跡を絶たなかった。清朝の台湾統治期間中、台湾住民の主要な反乱だけでも二十二回を算した。史家が清朝統治下の台湾を“三年一小叛、五年一大叛”といみじくも喝破しているのはそのためである。 在台清官の質の悪さも反乱を活発にした原因に挙げられる。 清朝は海外の地である台湾に赴任する官吏には数々の優遇措置をとったが、それでも「台湾瘴煙の地なる故…、いささか才智あるもの断じて渡台を肯んぜず」、そのため清の台湾兵備道徐宗幹をして「吏治の壌、台湾に至りて極まる」と慨嘆せしめたほどである。当然ながらこのように悪質な清官と台湾住民との間に堅い絆は生じない。守土護民の責を負うはずの官吏が、身に危険を感じると口実を設けて大陸に逃げ帰ることが度屡々であった。一八九五年(清朝が日本に台湾を割譲することになった年)頃に至ってもこの傾向が残っていた。たとえば当時台湾省巡撫であった邵友濂は南満における戦況の不利をみて、台湾にも兵禍が及ぶことを恐れ、大陸に逃げ帰った。 住民と官吏との連帯感の欠如は必然的に官吏をして苛酷な処罰を主張させる。「海外の謀反地にありては、国威を発揚せずんば弾圧し難し。奸徒をして畏怖忌憚せしめんものなくば、いかに乱を鎮めるや。仁慈による統治これ妥当ならず、……殺によりて殺を制するにしかず」と。しかし苛酷な刑罰をもってしても反乱は相ついでおこった。まさに「台民乱を喜ぶこと、あたかも灯火に向う蛾の如し。前にいくもの死すとも、身を投ずるもの跡をたたず」といわれたほどである。 このような傾向は清朝が台湾を日本に割譲する時まで続いた。台湾割譲の七年前に中部で施九段の乱がおこっている。このような状態であったから在台清官は、日本領台に抵抗する準備をおこなうにあたり、後顧の憂をなくすため、中西部に兵を派遣して“土匪”の駆逐に当った。これからも台湾の不安な状態、台湾住民に対する清官の不安感が推察できよう、このような不安感は“班兵制度”にも現れている。 “班兵制度”は一六八四年以来施行されてきたもので、台湾の防備に台湾住民を使わず、将兵は三年交替で大陸より派遣される定めであった。これは「台賊の多くは内より生じ、外より至るもの少なし」とする清朝官憲の認識に由来するものであり、清朝の台湾における防衛は対外よりも体内的要因が強いことがわかる。一八一〇年に至って台湾の班兵制度を廃止し、兵士に台湾住民を召募する意見がだされたが、「班兵を廃して召募せば、台民を以て台湾を守るに等し。これ即ち台湾を台民に与えるものなり……大いに憂慮すべきにして語るに及ばざるものあり」ということからこの制度は続行された。班兵制度がいみじくも象徴するように、清朝は台湾を特殊な地域とみなしていることがわかる。だからこそ、一八七四年に日本が台湾に出兵した際、清朝が台湾住民を“化外の民”として扱ったのであった。 清朝が台湾に注目するようになったのは実に一八八四年、清仏戦争に際して、フランスが台湾北部に上陸したということから、列強が台湾を重要視していることを認識してからであった。かくして清朝は台湾を省に昇格させ、劉銘伝を派遣したのであった。劉銘伝は台湾に電信、鉄道を設け、鋭意台湾経営に当ったが、その十年後、清朝は台湾を日本に割譲する破目になったのである。 四、日本•植民地時代(一八九五〜一九四五) 日清戦争(一八九四〜五年)に敗れた清朝が講和会議において台湾住民の知らないうちに台湾を日本に割譲したことは、台湾住民を憤激させた。戦争の追行に当っては台湾住民の犠牲と協力を要求しながら、台湾住民の意向を無視した仕打ちは、特に台湾士紳を激怒させた。そのため一部台湾士紳は清朝の意向に反し、台湾省巡撫唐景ッを脅迫して、台湾独立にふみきらせ、台湾民主国を建立した。だが独立に際しては台湾住民の意向を徴することなくこれを強行したため、住民の支援と支持が得られず、南進してきた日本の大軍によって、台湾民主国は五ヵ月で崩壊した。 日本の領台に対する台湾住民の抵抗運動は台湾民主国とは関わりなくおこなわれ、民主国が崩壊した後も続行された。これには日本の総督も手を焼き、“匪徒刑罰令”を発布して、冷酷な弾圧政策をとった。一八九八年から一九〇二年までの四年間のみを例にとってみれば、この間“匪徒”の烙印を押されて処刑された台湾住民は約二万人に達する。 このような苛酷な刑罰にもかかわらず、台湾住民の武力は綿々として一九一五年まで続いた。 さきに台湾の対日割譲が決定したとき、講和条約の規定によって台湾住民には国籍選択の自由が認められた。だが清国の国籍を選択したのは数千人にすぎず、二百六十万の台湾住民が台湾にとどまった。彼らは日本の統治を歓迎したのではなかった。台湾は彼らにとっては唯一の故郷であったのである。そして台湾を統治する外来支配者に対しては執拗に抵抗した。 日本は台湾に総督をおき、反日運動に対しては周到苛烈な弾圧政策を強行したが、一方においては台湾の建設に力をいれ、台湾の近代化を推進した。近代化科学技術を利用する鉄道、通信網は全島に普及し、病院はいたるところにできた。一九三九年になると、工業生産が農業生産を上回るようになった。また普通教育の普及によって、台湾人の知識水準も上がり、その識字率は日本についでアジアの二番目になった。 このような背景のもとに、日本の植民地統治に対する台湾人の抵抗は、武力抵抗から政治的抵抗へと変化した。 一九一四年の台湾同化会の結成は台湾人の抵抗運動とはいえないが、台湾人が初めて近代的なそして組織的な政治運動を始めたことでその意義は大きい。この組織は板垣退助似よって唱導され、台湾人を日本人に同化することが目的であった。林献堂など一部の台湾人が積極的にこれに参加したが、そのもく的はむしろ同化の名にかくれて、台湾人の権利の身長を狙うことにあった。台湾人の意図を察した日本の台湾総督は、翌年には台湾同化会を解散した。 一九一八年には、総督が台湾で施行する法律を制定できるという一八九六年に公布された法律第六三号を撤廃する運動、いわゆる“六・三法撤廃運動”が始められた。 第一次世界大戦の後期にウイルソンが提唱した民族自決の原則、また戦後に澎湃としておこった民族運動の世界的風潮は一九二〇年代の台湾にも押し寄せた。先ず一九二〇年は台湾の高度自治を要求する新民会が組織され、台湾住民によって選出された議員でもって構成される台湾議会の設置を要求した。一九二三年にはこの目的のため台湾議会設置規制同盟会が結成された。 なかんずく、一九二一年に成立した台湾文化協会は規模が大きく、台湾知識層を網羅した。台湾文化協会は、日華親善のかけ橋たらんことをうたったが、その後左右に分裂した。ここで誕生したのが台湾民衆等であるが、一九三一年に満州事変が勃発するや、日本当局によって解散させられた。一九二一年以来続行された台湾議会設置運動も一九三七年日華事変の勃発によって解散した。総じてみるに日本植民地時代の台湾人の政治運動は、日本官憲の圧力によって挫折を重ねたが、台湾人に対する日本当局の差別待遇は、逆に台湾をして台湾人としての共同意識を強固たらしめた。 このような台湾人意識は台湾と大陸の地理的隔絶、さらに近代化された台湾と依然として農村的社会にとどまっていた大陸との違いなどに由来して、台湾における民族運動は大陸の漢民族主義とは交差することなく独自な発展をとげたのであった。 だが台湾の民族運動は、日本の統治期間を通じて巨大なエネルギーに成長することがなかった。そのため、日本が第二時世界大戦に敗れたことが台湾民族運動の勝利とは結びつかず、台湾はアメリカの一存のままに、蒋介石の占領下におかれることになったのである。 |
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