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台湾の隠された真相
黄昭堂/台湾独立建国聯盟主席

台湾の隠された真相@
日本人を感激させた蒋介石発言 「以徳報怨」の背景

台湾は小国か

いまでは言い古されてしまったが、「近く遠い国」という表現がある。近隣の国でありながら、その国に対して、あまり関心を抱いていないことのたとえである。日本人にとって、さしずめ、台湾はこの部類に入るであろう。しかし詳しさに観察すると、むしろ台湾は日本人にとって、「遠いか近いか、わからない国」というほうが適切かもしれない。一九八七年の両国の人物往来総数は一一七万人。そのうち、日本から台湾への渡航者数は八一万人である。この年に海外へ行った日本人の数は六八三万人だったから、海外旅行をした日本人の九人にひとりが台湾を訪れた勘定になる。

日本人の知識吸収能力は、世界諸民族のなかでもトップをいっているとみられているので、日本人は台湾を相当に知っているといわねばなるまい。だが、果たしてそう言い切れるか、実に心許ないのである。

日本人は物書きが多く、それを支える人口も極めて多い。読書好きが、日本人の民族性になっているからである。だからこそ、年間三万六〇〇〇点にのぼる新刊書が発行されるのだ。これは世界一だろう。だがそのなかで、台湾関係の書籍は、いったい何冊あるのだろうか。三〇を超えまい。観光ガイドブックの類を差し引くと、恐らくは十指に満たないではなかろうか。したがって、台湾への渡航者数の多さは、必ずしも台湾への関心が高いことを意味しないし、台湾を深く理解しているともいえないのである。

いまや、日本は世界に羽ばたく大国、国際事情に精通せねばならなくなっている。こういう状況下にあって、日本人は強い関心と深い理解を示す必要がないほどに、台湾は小さな存在だろうか。ひとつ数字をご覧いただこう。

台湾の面積は九州とほぼ同じくらいであるので、領土の広さから判断すると小国だろう。だが、それでもベルギーよりは広いのだ。驚くべきことに、キプロス、シンガポール、ルクセンブルグなど、よく知られている国を含める、れっきとした独立国計二一ヵ国の総面積よりも広いのである。

さらに人口について言えば、台湾は全世界一六八ヵ国の上位三分の一のなかに入っている。台湾の人口は、一九五〇万人でオランダよりも多く、五大州のひとつである豪州(オーストラリア)の約一・二倍である。台湾の人口は蒙古人民共和国、アイスランド、ドミニカなど四六の独立国の人口総数よりもさらに多いのだ。四六という数字にご注目いただきたい。台湾の人口を細分化すれば、四六のれっきとした独立国を構成できることを、それが示しているのである。これらの四六ヵ国は、それぞれが勝手に「国」を称しているのではなくて、そのほとんどは国連の加盟国でもあるのだ。

つぎに台湾の経済状態をみよう。

八七年の一人あたりの所得は五〇〇〇ドルで、日本の一万九〇〇〇ドルには遥かに及ばないが、オリンピック開催国である大韓民国の一・五倍、日本がなかなか頭の上がらないあの“超大国”、中華人民共和国の一九倍にもなる。 外貨保有額に至っては、七六〇億ドルに達し、西ドイツと世界二位争いを演じているほどだ。いずれ触れるであ ろうが、外貨の過剰保有は決して賢明ではないが、工業が発達しいなければできないことでもあるので、注目してよかろう。

しかし、もっと注目すべきなのは、教育の普及度である。

学齢児童の就学率は九九・八九%、中学への進学率は九九・九九で、ここまでは義務教育である。高校への進学率は七八・九三%で、この比率も相当に高い。専門学校を含む大学進学率はフランス、日本、米国に次ぐ、世界第四位にあり、現役は五四・六〇%で、浪人の進学生を入れると八五・五〇%に達する。

先進諸国への留学は盛んであり、主として米国で高度の科学技術を研さんする。その数は合計一〇万人に達するが、これはあくまでも正式に留学試験に合格して留学した人たちの数であり、種々の名目で出国し、実際には留学した者も少なくない。ともあれ、留学生たちは、次の時代の担い手として、台湾の底力を押し上げていく。 国民の幸福は、国の大小によって決まるものではなく、右の諸元だけで判断できるものではないが、台湾の国としての質は低くはないといえよう。領土が狭いという理由で、台湾を小国視したり、無視するのは妥当ではない 。いわんや、領土の面積も上述のように、決して小さくはなく、ベルギー、オランダ、スイスのように、むしろ 適正規模だといえよう。

台日関係と「蒋介石恩義論」

台湾は日本の最初の植民地であり、一八九五年から一九四五年まで、日本の支配を受けた。日本の敗戦に伴い、台湾は中華民国国民党政権の支配下に入って今日に至っているが、五〇年にわたる日本の台湾支配は、いまでも大きな影響を残している。

日本の台湾領有の目的は、収奪よりも領土の拡張にあった。教育を通じての台湾人の文明度の向上、衛生の改善を通じての居住環境の向上、基礎建設、産業建設を通じての生活向上などは、収奪の視点からのみでは解釈はできない。ただ、植民地人である台湾人への高圧的態度は、台湾人に不愉快な思い出を残し、この五〇年にわたる植民地時代に対する客観的評価を困難にさせているのである。加えるに、蒋介石、蒋経国父子は、台湾解放者としての自分たちの功績を際立たせるため、日本の台湾統治を醜悪化することに専念した。かれら自身、それに国民党の高級幹部を含め、戦後、一貫して親日的態度をとる反面、日本文化の台湾流入を阻止し、また、台湾に残存する日本文化の追放につとめた。端的にいえば、それは、日本の書籍はもちろん、歌まで輸入禁止にしていたことでもわかるように徹底したものであった。台湾人が親日的になるのを阻止し、日本との親交関係を国民党政権が独占する政策をとったのである。

元来、台湾人は多かれ、少なかれ、植民地時代には日本人から屈辱的な仕打ちを受けているのだが、日本に代わって台湾の支配者になった中華民国国民党政権の横暴さを経験してからは、一転して日本に好感を示すようになった。それが蒋介石たちをあわてさせたのだ。

コミンテルンのおかげで、蒋介石は身を起こすことができたのだが、一九二七年に反共クーデターで政権を握ってからは、後半生を反共に捧げた。もし、日本が満州事変を起こさず、さらには支那事変を起こさなかったら、中国共産党をせん滅できたはずだと、彼は晩年になっても残念がっていた。彼にとって、日本はいくら憎んでも憎み足りない存在であったはずだ。その彼が一転して親日家になったのは、中国共産党との対抗上、日本の中華人民共和国への接近を阻止し、日本の中華民国支持を得る必要性に迫られたからである。反共政治家としての面目躍如たるものがある。

他方、日本の反共政治家も蒋介石政権の存在を必要とした。中華人民共和国の国際的影響力の増大を阻止するためにも、国際連合安全保障理事会常任理事国としての「中国」のイスを占める政権の存在が必要であり、蒋政権がその役割を担うのに役立つからである。かくて、一九五〇年代に「蒋介石恩義論」というデマゴーグが展開された。その内容はつぎのとおりである。

(1) 北海道がソ連の占領を免れえたのは、蒋介石総統が九州占領の権利を放棄して、これを阻止したからである。

(2) 天皇制を護持できたのは、蒋介石総統がこれを強く主張してくれたからである。

(3) 中国派遣軍と、在中日本人を蒋介石総統は無事に送還してくれた。

(4) 五百億ドルにのぼる対日賠償請求権を蒋介石総統が放棄してくれたから、日本はスムーズに復興できた。

内容的には、大方の日本人の肯けることばかりだ。その結果、左派は別として、日本国中に蒋介石賛美が浸透した。

そのころ、台湾人は台湾に脱出してきた蒋介石の圧制に苦しんでいた。四七年の国民党中央政府軍による弾圧(二二八事件)につづいて、四九年から五〇年にかけての政治反対者の大量逮捕、三七年にわたって続いた戒厳令の発布、国会議員の終身制、秘密警察(特務)の跳梁……。

台湾人の苦しみを横目に見て、日本の政治家は言う。「蒋介石総統を支持しなくちゃ」。そしてこの「蒋介石恩義論」は、いまでも根強く残っている。紙数に限りがあるので、簡単にいうと、真実はこうである。

蒋介石の対日賠償放棄はウソである

対日戦争で勝利を得た蒋介石ではあるが、重慶に逃げ込んだままになっていた彼が、中央政権を握るためには、中共軍との熾烈な内戦に勝たねばならない。したがって、日本本土に国民党軍を送る余裕はあろうはずはなく、また、中国に派遣されていた日本軍が中共軍と手を結ぶのを阻止するには、彼らを一刻も早く、日本本国に送還する必要があった。天皇制存続が可能になったのは、むしろ米国の知日派の主張によるものだ。賠償放棄に至っては蒋介石が自ら思い立ってそうしたものではなかった。一九五一年に日本が台北で蒋政権と「日華平和条約」締結交渉をしたさい、蒋政権は「国民感情が許さない」と称し て、賠償を強く要求した。日本側は、中華民国政府は台湾しか支配していず、中国本土に支配権を及ぼしていないとの理由で、その要求を蹴り、一時は交渉が中断し、日本側代表団は本国に引き揚げた。最終的にはダレス米国務長官が蒋介石に圧力をかけて、賠償要求を断念させ、そのかわりに、条約の議定書に「中華民国は、日本国民に対する寛厚と善意の表徴として、……〔賠償請求権〕を自発的に放棄する」旨を盛り込み、蒋介石の面子を保ったのである。この経緯は、外務省編集の『外務省の百年』(原書房)で明らかにされている。ついでながら、哀れをとどめたのが中華人民共和国である。後年(一九七二年)、日本と国交を回復するにあたって、中国政府は日本に五百億ドルの賠償を要求したが、「この問題は一九五二年の日華平和条約で解決ずみだ」と、日本側に一蹴され、とうとう一銭も賠償金を得ることができなかった。この観点からいえば、日本は結果的に蒋介石から恩義を蒙ったことになる。蒋介石が利用されたといえないこともない。

ともあれ、日本政府、自民党と国民党政権は、その親密度を増やしていく。かつ、一人歩きを始めた「蒋介石恩義論」によって、一般の日本人も台湾人の苦しみを横目にみながら、国民党と仲良くなっていくのである。

最後まで蒋政権を支持した日本

現在の台湾経済は、多くのアジア諸国のなかでは相対的に発達しているといえる。その原動力は(1)台湾人の能力と勤勉さ、(2)日本が残した建設が素地になっている、(3)米国が一五年の間に供与した計三〇億ドルにのぼる軍事・経済援助、(4)農民、労働者、環境汚染の犠牲の上に成り立っている。主としてこの四点にあった。

台湾人は日本との五十年にわたる「共同生活」によって、その消費性向は日本化した。地理的にも近いため、輸送費は安あがりである。ともに島国であるので、コンパクトに仕上げられる製品は、台湾の需要にマッチする。日本語が通用するので、製品、機会の活用上、便利だ。これらの理由により、台日間の貿易、殊に日本からの輸入は、「先天的」に発展する素地があった。台湾への投資についても同様のことがいえる。言語(日本語)が通用する便利さと、それを通じての意思疎通が比較的に容易であること、地理的に近接し、かつ労働の質が高いことなどが、日本の台湾投資を促した。国民党政権による戒厳令 が、台湾労働者の集団争議やストライキを不可能にしたことも、「安定」を必須条件とする外国人投資家にとっては魅力だった。中華人民共和国と国連の場で、「中国代表権」を争う国民党政権にとって、外国からの投資は、自分を支持する証しであるとともに、投下資本そのものが人質になる。「投資人質論」である。この観点から、国民党政権は外資導入をさかんに推進した。 こうして、日本の台湾への投資、台日貿易は増加の一途を歩んだ。

日本と蒋政権との関係が一時大きく挫折したのは一九七二年のことである。

この前年の七一年七月に、ニクソン米大統領が、蒋政権と対立関係にある中華人民共和国への訪問予定を発表(実際には七二年二月訪中)、つづいて十月に蒋政権は国連を追われ、中華人民共和国政府が中国の代表として、安保理と国連総会の席を占めた。これに先立ち、日本と米国は、蒋介石に、「台湾」の名で国連総会にとどまるよう説得したが、功を奏しなかったのである。

大勢すでに去ったのを見て、日本は七二年九月に中華人民共和国と国交を樹立し、同日、蒋政権が日本と断交するという形で、台湾と日本との正式の外交関係が切れた。日本は、蒋政権が国連を脱退するまで、つまり、最後の最後まで、国連の場で、蒋政権を支持してきた。「蒋介石恩義論」の延長である。日本の蒋政権支持は、中華人民共和国による台湾侵攻阻止に役立ったとみるむきもあるが、果たして本当だろうか。

台湾は日本にとって大事な貿易パートナーであり、安心できる投資先でもある。台湾が中華人民共和国の手中に入れば、日本は南で共産主義国と国境を接することになり、心理的にも脅威感が増大する。また交通面では、航空識別圏の問題で、空路不安が生じ、海の貿易航路でも安全性の問題が生じる。だから、日本としては、できるかぎり、台湾を中華人民共和国に渡したくはない。日本に取っ手の国益の発露である。国益の追求は、現今の国際社会では至極当然のことであって、非難すべきではない。ただ、蒋政権への強力なバックアップが、蒋介石の自信を強め、彼をして最後まで「一つの中国」に固執させ、「 自分こそ中国の唯一の正統政府」という神話をとりつづけることを可能にしてきたといえないだろうか。五八年に米国は蒋政権に「大陸反攻」を断念させたが、日本が、あの時点から蒋政権に対して、不即不離の形で、つまり、強力なバックアップをせずに、緩やかな政策をとっていたならば、蒋政権はあれだけの強気の「一つの中国」論を展開できなかったはずだ。「蒋介石恩義論」は蒋介石を不毛の強気に追いやっただけである。

台湾の隠された真相A
台湾経済の光と影 カネ余りに蝕まれる国民

米国は台湾経済の命鋼

八八年度の統計数字がまだ出ていないので断定的なことはいえないが、台湾の貿易総額は前年度よりもさらに伸び、一一二〇億ドル(二七%増)に達する見込みである。但し、貿易黒字は輸入促進策が功を奏して一二〇億ドル(四〇%減)に止まると見られる。台湾経済は依然として活況を呈しているのだ。台湾の貿易黒字は後述するように、専ら米国との貿易によるものであるので、台湾経済がもっとも直接的に影響を受けるのは米国からの圧力だ。もともと、戦後の台湾経済を蘇生させたのは米国であり、最初にそれは軍事・経済援助の形で、つぎに経済官僚・留学生の教育を通じて人材を育成した。政策面ではGS P(一般特恵関税制度)を台湾に適用することにより、台湾の対米輸出を容易にさせた。GSPを適用されてい る国の中で、台湾は最大の受益国であり、年間二〇億ドルに達する台湾製品がこの制度の適用を受けている。台 米断交後もこの制度からは除外されなかった。ちなみに、該当する業種はスポーツ用品、クリスマス装飾品、鉄鋼製品、浴室用品などである。

七九年一月一日に台米間の正式外交関係は断絶したが、その際に立法された米国の国内法「台湾関係法」は、これから「離れ行く国」とは思えないほどに、米国は経済面でも配慮をした。三年という期限付きとはいえ、米国の「海外民間投資協会」を通じての保証をつづけたのである。これについて若干説明しよう。後進国への投資は政情不安があるため、米国の投資家は諸外国の投資家同様、二の足を踏みがちである。それで米国は対外援助法をつくり、国民平均所得一〇〇〇ドル以下の後進国への投資には、「海外民間投資協会」が保険や再保険の形でこれを保証した。米国の投資家にとっては、安心この上ない。米 国人の台湾投資には、このような保証が一役買っていたのだが、台湾の平均所得は七六年には、上限を突破して 一一二二ドルになったにもかかわらず、特例として援助法は適用されつづけた。その後、台湾との断交を機会に 、援助法の適用をやめてもいいはずであり、しかも断交の前の年、平均所得は上限の五〇パーセントを越し、一五五九ドルに達していたから、なおさらである。それでありながら、断交した七九年からさらに三年も適用を延 長したのである。米国の採ったこの措置は、米中国交によって、台湾に将来はないと判断しがちな諸国の投資家 に安心感を与えた。この点は見落されがちだが、爾後の台湾の安定と繁栄に大きく貢献している。

米国の巨大な市場も、台湾に大きく貢献している。台湾の輸出は米国市場を母体として成長したといっても過言ではない。国内市場の小さい台湾にとって、米国は台湾の「腹」としての役割を果たし、台湾製品を消化した。その結果、台湾の外貨保有高は八二年から急カーブを描いて上昇し、八七年にも西独と二、三位を争うほどになった。最高は八七年の七六七億ドルで、八八年十一月には七三五億ドルに減ったとはいえ、二、三位争いは依然としてつづいている。

外貨保有高の急増はいうまでもなく、八二年から急増した貿易黒字のしからしめるものであり、しかもそのほとんどが対米貿易黒字に由来するものだ。たとえば八二年の対米黒字には四二億ドルで、台湾の貿易黒字の一二七パーセントに達している。対米黒字がなかったら、台湾の貿易収支は赤字に転落したことを、この数字は示している。八三年の対米黒字は九八億ドル(八九%)、八七年は一六〇億ドル(八四%)となっている。米国は一国で台湾の貿易黒字を支え、台湾の外貨保有高を積み上げているのだ。

対米貿易これ以上の不均衡は危険

米国は八九年に、台湾からGSPによる優遇をとりはずすので、該当する業種(前出)は若干の影響を受けるが、台湾と競争関係にある韓国、香港、シンガポールも同時にはずされるので、打撃は大きくはないと予想できる。

このほかにも、米国は日本にたいするのと同じように、台湾にも農産物市場の開放を求めているが、食糧確保が国の安全保障と密切に絡んでいるだけに、単なる貿易の不均衡解消以上の難問である。

自由貿易の理念からいえば、農産物市場も開放すべきであろう。生産性の低い農業部門へは補助金政策で対処できるであろうし、生産性の高い部門への転業を援助することによって、工業化への進展に役立たせることもできよう。だが絶えざる中国からの武力侵攻の脅威にさらされている台湾は農業部門を確保せねばならない事情がある。武力侵攻に至らなくても、海上封鎖に備えなくてはならない。事実、中国の高官は、「中国は台湾海峡を封鎖する能力がある」と公言してはばからないのだ。農業をつぶしてしまっては、一旦緩急のさい、食糧に窮してしまう。たしかに、香港は食糧から飲料水に至るまで、外部に 頼り、それでも繁栄は維持してきたが、香港は独立を維持する必要はないのだ。やがては中国の領土になるのだ から、農業に頭を悩まされる必要はない。逆にいえば、「水」でさえ確保できないのだから、「独立」を欲して も、それができなかったといえないこともない。台湾内部についていえば、戦後このかた、農民は犠牲を強いられつづけてきた。工業化は農民を相対的に困窮させ、生活環境も破壊されてきた。農民の生活向上を急テンポに計らねばならないのに、これ以上、犠牲を強いるわけにはいかないはずだ。農民の権利意識も著しい高揚をみせている。

台湾は、農産物市場の開放要求を引っ込めてもらうよう、米国を説得すべきだ。貿易上の不均衡は農産物市場の開放では解決できない。それにもかかわらず、米国政府が強硬な姿勢をとっているのは、若干の議員への業者の圧力が、政府にはねかえり、外交に反映されたからだ。外交上の強硬姿勢は、えてして国連演説がそうであるように、相手国の譲歩を得るためではなくて、国内向けの場合が多々ある。時間が問題を解決してくれるはずだ。米国市場依存の輸出構造(八七年は四四%)を台湾側の企業努力によって分散し、さらに、米国からの輸入(八 七年は二二%)を大幅に増やすべきだろう。台湾の防衛は基本的には、郷土を守り抜く台湾人の気概に頼るしか ないが、国際的には、米国が台湾の安全について、発言する可能性を特に持っている国である。米国は台湾にと って、経済に止まらず、軍事的にも極めて重要な国である。台湾はこの際、対米貿易均衡策を講じるべきだ。台湾は日本の生産財に慣れ親しんできたが、若干の修正は必要である。

日本への期待はほどほどに

ところで、台湾は若干の国を除いて、共産主義国を含め、世界のほとんどの国と貿易をしている。産油国を別にすれば、おしなべて台湾側の黒字になっている。英国、カナダ、西独とて例外ではない。では、これらの国ぐにとの貿易で生じた黒字はどこへ行ったか。日本へである。台日間の貿易は、終戦直後の数年を別にすれば、一貫して日本側の出超である。

日本の対外貿易に占める台湾の比率は五パーセントだが、日本の貿易黒字に占める台湾の比率は八二年が一二パーセント(二四億ドル)、八四年が七パーセント(三三億ドル)、八六年が四パーセント(三七億ドル)八七年が六パーセント(五八億ドル)となっている。換言すれば、日本が世界から稼いでいる外貨の平均七パーセント、全体の一四分の一は台湾からだという勘定になる。

稼ぐのは悪いことではない。商売というものは、売る方も、買う方も、それぞれにメリットがあるから成立するのである。先月号で触れたように、台湾には日本製品を好む傾向がある。消費性向がそうなっているから、対日赤字が厖大になるのは当然だ。もっとも、日本人から物を買うのは王侯気分が味わえて気持ちが良いが、日本人に物を売るときは、一転して奴隷になったような気がして、滅入るものだ。日本人は「商業民族」ではなくて、「物売り民族」だ。外国の輸出業者やメーカーの企業努力が足りない面があるのは確かだが、対日輸出は、相手が「物売り民族」であるだけに、非関税障壁は連峯のように壘 々と重なりあっている。実際、企業努力をしても、この連峯を突破するのは容易ではない。

教えくれない日本のハイテク技術

八八年一二月に、台湾側が大型の経済代表団を組んで訪日、日本側に台湾からの輸入促進、併せてハイテクの移転を求めたが、日本側の態度は剣もほろほろだった。現在の台湾製品程度では輸入するに足る魅力がなかったからであろうが、台湾側をどうあつかおうと、台湾への輸出に悪い影響を与えないとの日本側の自信が窺える。日本からハイテクを教えてもらうという台湾側の願望に至ってはナンセンスだ。外国にハイテクを教えることの恐れしさを、日本は米国から教わった経験から、当の日本人は身によく沁みている。日本は米国から教わっても、外国には教えるはずはないのだ。

台湾のある国会議員は、国会の場で、「国からスパイを派遣して韓国から軍艦建造の技術を盗め」と叫んだ。これは国営の造船コンス公司の不甲斐なさをなじるのが本意だったとはいえ、暴言であることに違いはない。技術は買えるが、ハイテクは自分で開発すべきものだ。ハイテクは「ハイ・ハイテク」が生まれてから、はじめて技術として外国に売られる。特に日本がそうだ。それがわからないから門前払いを喰うのだ。 ハイテクが欲しければ、米国から買うとよい。それは貿易が収支の形をとって、台米間の収支のインバランスを是正する役割の一端を果たすはずだ。大体、台湾は官民を問わず、長期的展望に立つ研究開発には不熱心だ。研究開発は多大の投資を要する「カネ食い虫」だが、それは益虫だ。長期的展望に立つものであれば、金額は一層 厖大になる。日本の研究者は「愛国心」に燃えているから招聘は難しいかも知れないが、米国人は報酬の面で折 り合えば、応ずるだろう。そもそも台湾自体、うなるほどの人材がいるではないか。これらの人材が今、不満に 思っているのは、高度の設備と、潤沢な研究費がないことだ。

外貨七〇〇億ドルの行方

「国有財産」として外貨を保有するのは、決して悪いことではない。中国が武力侵攻してきたとき苦労せずに武器が調達できるという利点がある。だが、現状のところ、弊害も大きい。信じ難いことだが、七〇〇億ドルを超す外貨はすべて、「個人」の名義で諸外国の銀行に預金されている。中国政府に接収されるのを防ぐためだというが、こんな目茶苦茶なことはない。「個人」とはいっても、複数というが、この人たちの名前が「何の何兵衛」で、どの銀行にどのくらい預金しているのか、全く公表されていないのだ。一般人への公表はおろか、副総統の李登輝すら知らされていず、かれが八八年一月に総統になって から、中央銀行総裁を呼びつけて正し、それでようやくわかったという。防止策をとっているであろうが、個人 名義になっている以上、持ち逃げの可能性がつきまとう。それでなくても、その「個人」がもらえる利得は計り 知れない。その「個人」が望めば、たとえ莫大な借金申し込みであっても、簡単にできるはずだ。銀行にしてみれば、踏み倒されたとしても、帳消しにすることができるのだから。

カネ余りで土地、証券ブーム

外貨は「外貨預金」もできるが、台湾ドル元の「元高」傾向もあって、台湾元に換えられる。それは国債や「儲蓄券」を購買する形で中央銀行に一部吸い上げられるが、投資先が少ないから、土地投機や株式投機に回る。 土地ブームについては東京をはじめとする日本の各都市で経験されていることだから、その弊害は贅言を要しま い。ただ日本とは違って、国民党には「平均地権」という、かれらが信奉しているはずの三民主義の定めている土地政策がある。上昇分は社会の共同努力の成果だから、土地所有者に帰するのではなくて、公けに帰すること になっているはずだ。これでは土地投機に走るはずはない。だが実際には八六年から八八年にかけての三年で、 台北市は四倍、台北県は七倍、全島平均で三倍も土地が暴騰している。国民党関係者が土地投機に走っているから、「平均地権」政策を適用するわけにはいかないのだ。五〇年代に国民党が地主の農地所有を制限し、上限を超した部分を公営の会社株式で以て買い上げ、農民に転売する形で、農地改革を成功させることができたのは、当時の国民党幹部が大陸から逃げ込んだ人たちであり、台湾に土地を持っていなかったからである。いまでは、かれらは都市に宅地建物を所有しているので、自分の懐を痛める政策をとるわけにはいかないのだ。

株式投機も同じである。株価は収益率を反映して上下するものだが、カネ余りのため、株価はどんどん上昇する。買えば必ずもうかるから、さらに買い足す。もうかる方へと一方通行だから、株価は文字通り、ウナギ登りだ。公務員や会社員は仕事に手がつかず、主婦はなけ無しのお札を握って、証券会社の店頭に張りつめ、大学生も授業を抛り出すしまつだ。この過熱ぶりに業を煮やした新任の財政部長(大蔵大臣)郭婉容は立ち上がった。台湾最初の女性部長でもある。彼女は「八九年元旦から、株の売買利益に課税する」と宣言した。「投資奨励条例」によって、十数年前から、非課税になっていたのに、課税さ れるとなれば株は暴落する。事実、連日ストップ安になった。零細投資者はデモに走り、大投資家は政府をつつ く。国会議員は証券会社を経営、投機事業にも手を出しているので、財政部長郭婉容を吊し上げる。新聞記者は 禁止されているが具文に等しいインサイダー取引きの余録にあずかっているから、財政部長の「暴政」を面白おかしく嘲笑する。果ては総統になって半年しかたたない総統李登輝の差金だとまで、はやし立てられるに及び、郭婉容は全面的に降伏した。

カネ余り現象は農民、労働者には及んでいないが、害毒だけは確実に及んでいる。まともに働いてはどうにもならない。投機の力こそないが、バクチだけは参加可能だ。かくて「ターチャロー大家楽」や「リョホチャイ六合彩」と呼ばれる、数字当ての違法バクチが成年人口の七割を席捲したといわれる。

従来では、畑仕事を嫌う女子は工場で働くが、いまでは工場を嫌がり、水商売や春をひさぐ商売に転じる者もけっこういるという。カネは着実に台湾人を悪くさせている。遅くなりすげては、中国の武力侵攻がなくても台湾は滅びてしまうかも知れない。

公害防止装置を大量に導入し、大都市に地下鉄などの大型建設を進め、また、地方の環境整備に、外貨を大いに活用すべきだ。それは遊資の吸い上げに貢献するはずだ。米国から優秀な頭脳(米国籍台湾人技術者を含めて)を誘致するとともに、設備も米国から購入すれば、なおさらよい。米国との摩擦解消、台湾農業の確保、それに台湾社会を堕落から救い、実業家の虚業化を防ぐことになるからだ。

台湾の隠された真相B
中国大陸訪問、条件付き解禁の思惑

「二つの中国」の紛らわしさ

どの国も自国を理解してもらうために、政府広報に力を入れている。しかし、世界は狭くなったとはいえ、広いのだ。小国のばあい、自国が地球上のどのあたりにあるのかを、世界の人びとに周知させることだけでも、たいへんな仕事である。その国の事情、となるといっそう難しい。

近隣の国であっても、国名が紛らわしいと、区別がつきにくくなるものだ。「中国」と「台湾」これは実にわかりやすい。ところが、「中華人民共和国 (People’s Republic of China)」と「中華民国 (Republic of China)」とでは、にわかに区別しがたい。さらに両方とも、「中国(China)とはわが国のことだと主張するとなれば、専門知識がないと、どっちのことをいっているのか、判断しにくいであろう。

空港に行ってみよう。

発着便掲示板はスペースに限りがあるので、航空会社の名称はいずれも略称を使用している。海外旅行に慣れている人は別にして、それがどの航空会社を指しているのか、なかなかわからないものだ。CALがどこで、CA(CAAC)がどれを指すのか、とまどうのはあたりまえである。しかし、フルネームだったら、直ちにわかるだろう。少なくとも、わかりやすくなるはずだ。NWよりも North West’UAよりもUnited Airlineのほうがわかりやすいように。

そこでクイズ。

「China Air Lines」と「Civil Aviation Administration of China」’ 「中華航空」と「中国民航」。北京へ飛びたいが、これらのいずれに搭乗しても行けるのだろうか。これが一番目のクイズ。いかがでしょうか。 答えはノーである。

では二番目のクイズ、北京へ行くにはどの航空機に乗ればいいのか。

答えは、CAAC(Civil Aviation Administration of China ’中国民航)である。CALChina Air Lines’中華航空)は台湾の国策航空会社であって、北京へは飛べない。

台湾の国民党政府は、今に至ってもなお、自分こそ中国の政府だと公式に主張しているので、名称の面で、こんな混淆が続いているのだ。台湾は八七年七月の戒厳令解除によって、言論の自由化が進捗しているが、それでも台湾の新聞を開くと、「中日関係」「中米関係」という表現がやたらと目につく。「中」とは中華人民共和国ではなくて、台湾を指しているのである。台日関係や台米関係の改善は、日中関係や米中関係の悪化を意味するばあいが多いだけに、「中」の乱用によって、かれらの言わんと欲していることを、わかりにくくしている。

ことし、北京でアジア開発銀行の総会が開かれるが、台湾が代表を派遣するかどうか、また中国が台湾からの代表を受け入れるかどうか、今のところ微妙な状勢にある。争点はただひとつ、台湾代表団の名称をChina Taipeiにするのか、それともChinese Taipeiにするのか、双方の折り合いがついていないからである。両者の違いはどこにあるか、部外者にとっては、その意味するところがなかなかわからないであろう。前者であれば、「中国台北」となり、後者だと「中華台北」になるのだという。両方とも、国名だととられかねない「台湾(Taiwan)という名称を避け、台湾の最大の都市台北の名称で以て台湾を表すとい う迂遠な表示のしかたをしているのだが、「中国台北」のばあい、国民党政府は中国の一地方政権になりさがってしまうが、「中華台北」だと、そんな意味にならないという。だから中国側は、台湾側が「China Taipei(中国台北 )を使用することを望み、他方、国民党政府側は「Chinese Taipei(中華台北)」を堅持しているのである。

読者諸賢、わたしの書いていることをご理解いただけただろうか。もういちど読み返されても、なかなか意味がつかめないかもしれない。実は、筆者もこれを書いている最中に、なんどとなく、こんがらがっているのだ。国民党による「中国」の乱用は、罪深い。

国民党側のこのような表向きの姿勢にもかかわらず、最近では、かれらの本心がチラホラ見えてきている。かれらが「中国台北」の使用を忌避しているのは、中国大陸と一線を画し、「中国(China)」とは中華人民共和国そのものであると、間接的に意思表示していると思えるからである。国民党政権の中国離れが進行しているといってよい。この観点から捉えると、八七年七月の戒厳令解除以降にみられる、国民党政権の中国大陸親族訪問条件つき解禁政策は、第三次国共合作の前触れではなくて、対中緊張緩和政策の一環にすぎないことがわかる。

台中間にさまざまの人物往来と貿易の緩和

国民党政権は八七年十一月二日から、現役軍人と公務員とを除き、中国大陸に三親等以内の親族がいる者に、正式に大陸訪問することを許可した。八八年夏に至って、大陸の中国人が、台湾在住の親族の葬式参加、もしくは重病人の見舞いのための訪台を許可した。十二月には、米国留学中の大陸中国人学生に台湾訪問を許可した。 このような政策の変更に伴って、台湾島内で奇妙な風景が見られる。

台湾の東北部、宜蘭県にターケー礁渓という町がある。一〇〇〇メートル級の雪の山脈を背に、ここから平野になり、川をちょっと下れば太平洋に入る風光明媚な温泉場だ。湯煙りの隙間から灯が洩れるころになると、湯治客めあてのバーから嬌声が響いてくる。酔客相手のホステスは地元出身とは限らない。台北から流れてきたのもいるのだが、驚くべきことに、つい最近、中国から密航してきた、 人民中国のムスメたちも混ざっているのだ。ホステスだけではない。台北市内の建築現場には、これも最近、密航してきた人民中国の男たちが労働者の中に混ざっている。目と鼻の先にある与那国島が密入国の中継点になっ ているのだ。持続している経済繁栄の影響で、台湾は単純労働者が不足気味だ。フィリピンなど、東南アジアからの不法就労者は一万人に達するとみられているが、小企業経営者は、外国からの単純労働者を合法化し、輸入しないとやっていけないとボヤいている。だから、中国からの不法労働者やホステスの存在を知っていても、人びとは素知らぬ顔をしているのだ。

台湾と中国は対立状態が続いているが、従前から第三国経由の間接貿易は公然の秘密だった。また、五、六、年前から海上での非合法「直接貿易」、さらには台湾の船が中国の港湾に入って、こっそりと「直接貿易」をしていたが、それが密貿易の域をでていない以上、金額はたかが知れている。ところが、台湾が戒厳令を廃止した一九八七年になると、中国との「間接貿易」の制限が緩和され、同年の貿易高は一五億六〇〇〇万ドルに飛躍した。八八年には一挙に六〇%増えて、二五億ドルに達している。

中国訪問も大きな様変わりだ。

従来だと、中国訪問は禁止されているので、いろんな手段を講じ、それこそコソコソやらねばならなかった。戒 厳令撤廃後、十一月に条件つきながら、中国訪問が解禁されると、渡航申請が殺到した。その結果、中国訪問者は八八年十二月までの一年間、香港経由のみで四四万人近くになり、他の地域から中国入りした人を入れると、 五〇万人に達するであろう。

中国からの台湾訪問は、上述の制限があり、依然として厳しいが、緩和の方向にある。

民間交流緩和の思惑

台湾の人口二、〇〇〇万人のうち、八五%が台湾人であり、蒋介石の台湾占領に伴って、台湾に流入した中国人は約一三〇万人、台湾に渡来以降の自然増を入れると二六〇万人に達する。「在台大陸人」と称されるこの人たちにとって、中国大陸親戚訪問の解禁は福音だった。とくに、「一世」たちにとってはそうである。解禁のウワサがあった段階から、問い合わせが殺到した。四〇年も見ない故郷の山河、戦乱のため、やむをえず故郷に残したままになっている妻子や父母兄弟はどうしているだろうか、かれらは期待に胸をふくらませた。

親族の居場所を知っている者は、さっそく朗報を知らせ、居場所を知らない者は、消息をつかむため、手づる探しに奔走した。親族がすでに他界していることを知っていても、書類をでっち上げて申請した。親族訪問に名を借りて祖国を観光し、あわよくば投資、貿易の可能性を探るためである。

大陸訪問の解禁。ひょうたんから駒が出たとは、これをいうのであろう。

台湾は長期間、国民党政権の戒厳令下におかれていたため、国民党に反対する政治運動は許されなかった。そのため、諸外国に出た台湾人は、海外で独立運動、民主化運動、人権運動を展開した。国民党はかれらをブラックリストに入れ、台湾への帰国を禁止した。それでかれらは二年前から、「台湾人には台湾に帰る権利がある」をスローガンとする帰郷運動を続けてきたのである。

ここからヒントを受けた在台大陸人も「大陸へ帰る権利」を主張しはじめた。結果的には在台大陸人の要求が実現したが、台湾人の帰郷要求は無視されたままになっている。

諸外国に居住するブラックリスト中の台湾人の帰郷を許可しないが、在台大陸人の帰郷、つまり大陸訪問を許可するとの政策を立った国民党政権にはそれなりの打算があった。

ブラックリスト中の台湾人の帰台を許せば、台湾島内の台湾独立運動、民主化運動を助長する破目に陥る。したがって、許可するわけにはいかない。

在台大陸人をみるに、一世は望郷の念に駆けられたおり、かれらの欲求不満を解消する必要がある。それに二世の台湾化が相当に進んでいる。台湾総人口の八五%を占める台湾人のあいだで強まってきている台湾独立の要求に、二世が呼応すると、国民党政権の存続が危くなる。台湾が独立するにしても、国民党政権が牛耳る「中華民国体制」でなければならないのに、一人一票をモットーとする「台湾共和国体制」をめざす台湾独立運動では困るわけだ。ここで大陸訪問解禁を通じて、中国ブームをおこせば、台湾ナショナリズムを冷却する作用が期待できる。それに台湾台湾経済は大陸よりもはるかに進んでいるから 、大陸訪問者は自分の目でこれを確め、進歩をもたらした国民党政権をいっそう支持するようになるはずだ。訪問者による比較を通じて、共産党支配下の中国人への宣伝にもなる。

台湾からの訪問者を受け入れた中国側も計算した。台湾の人たちも中国人だ。中国を見ないと、中国人であることを忘れるだろうが、祖国の広大な山河を自分の目で確かめれば、中国人意識が自然と湧きおこるに違いない。これは中国の統一に大きく役立つはずだ。

他方、台湾人の政党である民進党の考え方はこうだ。民進党がブラックリスト中の海外台湾人の帰台を主張しながら、在台大陸人の大陸帰郷に反対するのでは理屈が通らないし、在台大陸人の支持も得たい。大陸訪問の解禁によって、台湾と中国は交戦状態にはないことが明らかになるし、国民党政権が中国を代表するとの神話が完全に崩壊する。これは台湾の民主化促進にプラスすると読んだ。

大陸訪問の解禁は、複雑に交差する思惑の中で進められたのである。結論的にいえば、ここで述べた三つの勢力は、みなそれぞれの期待する成果を、ある程度手に入れた。では、大陸帰郷者は何を得ただろうか。 中国は面積が広大であるため、雄壮な景観、優美な景色にこと欠かない。歴代王朝が集めた文物は質量ともに豊 富だ。台湾という孤島で暮らしてきた人たちにとって珍しさが先立つし、在台大陸人一世にとっては懐かしさで いっぱいだ。親族との再会に恵まれた人たちはいっそう幸せだったに違いない。未確認情報だが、中国訪問者の うち、二%ほどが、そのまま中国に住みつき、台湾にもどらないと決心したとのことである。しかし、国民党政 権が予測した五%よりは残留者が少なかったといえる。

大陸帰郷者の悲喜劇

「故郷は遠くにありて、遥かに望むもの」とは、言い得て妙である。帰郷者のほとんどは、中国大陸を見て、その後進ぶりに驚いた。穴を掘り、囲いをしただけで、扉のないトイレ。あとは言うまい。怠惰な民衆、再会を喜ぶどころか、遠路からやってきたこの親族に品物をねだる様は、乞食とそうは違わないことに、ほとんどの帰郷者は落胆した。

台北市在住のあるビルオーナーは、現金やみやげをどっさり持って帰郷した。三週間滞在の予定だったが、実家にとどまったのは三日だけで、あとはもっぱら観光地めぐりでウサを晴らしたという。父母はすでに亡く、妻は再婚している。兄弟姉妹の一族がむらがり、みやげや予定していた現金をすっかり分け与えても満足してもらえずに、着ている洋服から、皮靴までくれないかと要求されて、閉口したという。

この人は大金持ちだから、まだよい。台湾では恵まれない階層に属する退役軍人は、ミエから、ありがねをはたいて、みやげを買い、いそいそと帰郷したが、対面した親戚は、見知らぬ人ばかりで、情が湧いてこない。四〇年の歳月は、かれを「浦島太郎」にしてしまったのだ。見知らぬ親戚たちは、こもごもに台湾からカネや品物を送って欲しいと要求する。親戚たちは錯覚しているようだ。かれの台湾での生活の困窮ぶりを知らないのだ。しかし、実情を説明するには、ミエがじゃました。かれは決心した。二度と帰郷すまいと。

もっと悲惨なのは、大陸妻がまだ生存している人たちだ。かれらは台湾でも結婚している。大陸の妻子とは、思い出があるから帰郷したのだが、台湾の妻子とは現実にいっしょに生活している。中国も台湾も、法的に二重結婚を禁止している。このパズルはどう解けばよいのか。国民党政権は、中国訪問を解禁したが、立法措置がついていけなかった。中国大陸を「外国」とみなせば、自分の「正統政府」という主張が崩れる。中国大陸を「国内」とみなせば、台湾の法律と、共産党政府の法律との整合性をどうするか、これも難問だ。遺産相続が絡むだけに、なおさら面倒である。

法律の再調整を欠くまま、国民党政権の最高裁は、八八年十二月に@元貞という在台大陸人の台湾での婚姻を無効だと判決した。かれの台湾妻は一瞬にして「同居人」になり、子女は「非嫡出子」になってしまた。台湾に渡ってから、台湾で結婚した在台大陸人は数十万人にのぼるという。その相当数が大陸でも結婚しており、配偶者の一部はまだ生存しているので、社会問題化している。台湾での在台資産相続は、台湾在住の家族が三分の二、大陸在住の家族は三分の一にとどめるべきだという意見など、実にかまびすしい。

こういう問題から、台湾資本の大陸投資、さらになによりも台湾の安全保障問題、国防問題など、波紋は広がる一方である。

台湾の隠された真相C
「自由中国」の万年国会議員

世界でもっとも幸せな国会議員

ふだん、どんなにいばっている国会議員でも、選挙のときには、米搗きバッタのように、出会う人ごとにペコペコと頭を下げる。「サルは木から落ちてもサルだが、国会議員は木から落ちたら、ただの人になってしまう」からだ。だから国会議員は選挙がこわい。胃がキリキリと痛むような選挙戦をいくどとなく、くぐり抜け、有権者による洗礼を受けて、政治家は伸びていく。

日本や米国、それにその他の国ぐにの国会議員が台湾を訪問して一様にうらやましがることがひとつある。国会議員の全面改選がないことだ。

国民党政権は制度上、つぎの三つの国会を持っている。

国民大会。これは正副総統の選挙機関で、そのメンバーを国民大会代表といい、国大代表と略称される。任期は六年で、六年ごとに大会を開いて正副総統を選出する。

立法院。そのメンバーを立法委員と称し、任期は三年で、立法にたずさわる。

監察院。オンブズマン、つまり、行政監察をつかさどる機関であって、そのメンバーは監察委員と称され、任期は六年である。その昔、国民党が中国大陸を支配していた当時、一九四七年から四八年にかけて、この三つの国会のメンバーが選出された。このときに選出されたメンバーが、その後一度も改選されることなく、四十年後の今日でも、台湾で、国会議員として留任している。諸外国の国会議員がうらやましがるのは当然だ。

国民党はどんな芸当をやって、こうした離れ業をやることができたのだろうか。また、どうしてこんな無理なことを強行せねばならなかったのか。現在、台湾ではこの「万年国会」、「万年議員」の問題が大きく政治問題化してきているので、この問題を考えてみよう。

二つの世界一=国会議員の任期と戒厳令

中国大陸で第一回国会議員選挙が行われたその二年後の一九四九年に国民党は国共内戦に敗れて台湾に逃げ込んだ。この年の十月に中華人民共和国が樹立されたが、台湾に籠った国民党は、「中華民国政府」こそ中国の正統政府だという虚構を維持しつづけた。

一九五一年に任期三年の立法委員の任期が切れるので、国民党は台湾で立法委員の全面改選をせねばならなくなった。だが改選すれば、唯一の支配地域である台湾でしか選挙ができないから、台湾全人口の八五%を占める台湾人が国会を抑えてしまう。そこで蒋介石は、「大法官会議」(最高裁裁判官会議)に憲法解釈を命じ、「つぎの選挙で国大代表が選出されるまで、国大代表はその職務を行使できる」という結論を出させた。そして立法院も監察院もそれに準ずるとされた。その結果、四十年後の今日に至るまで、三つの国会は、いずれも、一度たりとも全面改選はおこなわれなかったのである。国会議員の任期の長 さについていえば、これは世界一に違いない。 国会の全面改選をやらねば、民衆は不満を持ち、これに反抗するはずだ。この反抗を防ぐために登場したのが戒厳令である。一九五〇年に発布された戒厳令は、一九八七年まで、三十八年にわたって継続された。これも世界 一のロングランだろう。

日本人という異民族が台湾を半世紀にわたって支配した当時、台湾で戒厳令をしいたのは、台湾領有当初、一八九五年から九六年にかけての数ヵ月と、日露戦争当時、バルチック艦隊が台湾近海を通ってやってくるという風評があってからしかれたものとあわせて二回、両方で一年あまりだった。

国民党政権も台湾で二回、戒厳令をしき、一回目を計算に入れなくても、二回目だけで三十八年になる。換言すれば、国民党政権が台湾を支配してきた過去四十三年のあいだ。ずっと戒厳令をしいていたといって過言ではない。

台湾旅行をしたことのある人なら、誰も知っているように、夜間外出禁止など、戒厳令にまつわる禁令にお目にかかったことはない。台北市の繁華街は不夜城さながらだ。

戒厳令と不夜城との同居、これはまたどうしてだろうか。このパズルを解くのは至って簡単だ。戒厳令発布の唯一の目的は、憲法で定められている言論、集会、政治結社の自由を停止することにある。これによって国会全面改選要求や、その他諸々の国民党政権への批判を封じ、政権を維持してゆく。これが唯一の狙いなのだ。

これらの「法的措置」をハードウェアとすれば、台湾全体に網の目のように張りめぐらされている特務(秘密警察)網はソフトウェアだ。国家安全局をトップに、台湾警備総司令部、、司法行政部(現在は法務部)調査局、国防部情報局、警察局から憲兵隊、それに国民党の各支部、民衆服務站に至るまで、百花繚乱たるものがあり、民衆は声をひそめねばならなかった。

政府批判への刑罰も重い。「反乱扉」として処断されるので、懲役十年はザラであり、無期懲役、死刑も珍しくはなかった。

だから民衆は政治問題についてはひたすら口をつぐみ、商売や事業に励んだのである。政治的圧制が台湾の経済繁栄をもたらしたとは実に皮肉だ。

万年総統に父子承継

「万年国会」は「万年総統」につながる。

「万年国会」のおかげで蒋介石は死亡するまで総統の座を守ることができ、その子、蒋経国は総統の位を継ぐことができた。

国民党が制定した「中華民国憲法」によれば、総統の三選はできないはずだが、どうして蒋介石は五選でき、その死亡に至るまで総統でありつづけることができたのか。

一九六〇年に蒋介石の二回目の任期が切れるので、蒋介石は同年の三月に、上述の国民大会に命じ、憲法に「動員戡乱時期臨時条款」をつけ加えさせた。全国を動員して共産党の反乱を平定しようとしているこの時期においては、総統、副総統の任期は、憲法の制限を受けないことにしたのである。

国大代表はその地位を利用して、いろいろな特権にありつくことができるが、六年に一回、正副総統選挙に集まるだけだから、歳費はない。六年に一回、大会出席費が支給されるだけだ。そこでかれらは蒋介石に総統三選の途を拓いてやる見返りとして、立法委員並みの歳費を要求した。金額的には部次長(省次官)と同額である。そればかりか、官舎の支給も要求した。そのゴネぶりは蒋介石を憤激させたが、結局、それにも応じた。そして死亡に至るまで、蒋介石は五期二十八年にわたる任期を確保できたのである。七五年の五期目なかばに蒋介石は死に、副総統厳家淦が昇格し、三年ほど総統をつとめたが、しょせ んこれはワンポイントリリーフにすぎず、長男の蒋経国が七八年、国民大会から総統に選出された。蒋経国は二期目の中途で死亡したが、そうでもなければ、ずっと総統の座を占めつづけたにちがいない。なぜなら、蒋経国が死亡した一九八八年一月の段階で生存していた万年国大代表八百五十一名の平均年齢は七七・七五歳だったとはいえ、全議員が亡くなるまでは二十一世紀の到来をまたねばならないからである。

まやかしの国民代表

国会議員は、定期的に民意の洗礼を受けてこそ国民の代表だといえる。四十年も前に選出され、その時点において国民の代表ではありえても、四十年後も同じく国民の代表でありえるはずはない。いわんや、四十年前の「選挙」がどんなものであったか、疑問は多いのだ。

国民大会、立法院、監察院のメンバーの選挙が中国大陸でなされた当時、国共内戦はすでに始まっており、国民党政権が中国大陸全土を支配していたのではなかった。選挙めいたことができたのは、国民党支配下の地域に限られていた。

では、どの省で選挙がおこなわれ、どの省ではなされなかったのか。また、選挙がどういうやりかたでおこなわれたのか。筆者にはわからない。そもそも選挙に関する資料は発表されたことはなく、全貌は謎のままになっているからである。

便宜上、国大代表を例に挙げよう。

一九四七年十一月におこなわれた選挙では三千四十五名選出されるはずだったが、実際に「選出」されたのは二千九百六十一名であった。死亡、共産党支配下の中国大陸に残留するなどの理由により、台湾で開かれた最初の国民大会(一九五四年)では法定人数(半数)に達することが見込めなかったので、次点者から順に繰り上げ当選の措置がとられた。その実態は闇の中だが、自由時報の楊慧君記者が苦労して入手した福建省の選出例として八八年末現在生存している国大代表の得票数と、繰上げ当選者の得票数に関する貴重な資料があるので、これを次ページに掲げる。

福建省現存国大代表得票一覧表
名 前 当選別  得票数   名 前 当選別 得票数
陳聯芬 当選 140,117 謝伯 繰上 19,580
厳霊峯 76,564 張文成 13,895
曹挺光 71,755 林租培 13,688
江秀清 56,489 郭歩文 10,370
王兆畿 50,641 魏 耿 9,644
陳式鋭 48,931 余乃焜 6,503
何宜武 33,111 黄其禄 4,480
郭薫風 29,242 萬壽康 3,623
鍾国珍 19,595 鄒文謙 3,623
湯永年 16,913 許崇凱 1,495
魏兆基 4,267  楊育元 1,373
      陳文登 1,349

『自由時報』88年12月31日付き、楊慧君氏の票に基いて作成

福建省での選挙は、比較的にまともだったし、当選するには最低二万近くの票数が必要だった。それにもかかわらず、湯永年と魏兆基が、いずれも次点よりも少ない得票数でありながら当選できたのは謎である。

それに、繰り上げ当選が順繰りに進んだ結果、一三四九票の得票しかなかった泡沫候補の陳文登までが繰り上がるありさまだ。これでは理論的には自分の投じた一票だけで、いつかは国会議員になれるのだ。こういう言いかたは笑い話めいてくるが、実際には、それに近い例が出たのだ。つい最近に繰り上げ当選になった、同じく福建省の葉礼Aという人物の得票数は、なんとたったの七票しかなかったことが、監察委員林純子の調査によって明らかになった。

こんな人たちが中国大陸の代表と称し、総統、副総統の選挙人とした、こんごも台湾の政局を左右するのである。

国民党政権批判が重罪につながるとはいっても、任期があるはずの三つの国会が、果てしない「万年国会」であっては、民衆の不満は高まる。かくて一九六九年にそれぞれ若干名が「補選」された。補充選挙の意味である。だがその数はいたって少なく、総数からいうと、まさに「大海の中の一滴」である。この年に補選された者も一九四七、八年に選出された者と任期は同じだとされたので、この人たちも万年議員である。

一九七二年に至って、新しい血を注入するという理由で若干名を「増選」という名称で選出した。この「増選」の部分に、国大代表六年、立法委員三年、監察委員六年の任期を付し、任期切れのつど改選されることになっている。

六九年補選された議員、七二年に増選された議員のいずれも、四七、四八年に選出された者と同様、第一回の議員とされた。第二回はまだ出ていないので、第一回国会は一九四七、八年から今日まで在続しているわけである。

七二年の増選以降、選挙のほかに、総統が海外華僑から若干名の議員を任命することになった。こんな前代見聞の操作により、三つの国会はいずれも四ないし五種類の性質を持ち議員によって構成されることになる。第一回国会議員は計十三種類。

1 一九四七、八年の大陸時代に選出された議員で、いずれも万年議員である。

2 一九六九年の補選による万年議員。

3 一九七二年以降、三年もしくは六年ごとになされる増選による、任期の限られている議員。

4 一九七二年の増選以降、そのつど総統から任命される、任期のある華僑議員。

5 国大代表にかぎられるが、繰り上げ当選の万年議員。

立法委員は四種類、監察委員も四種類、国大代表は五種類だから、合計十三種類の国会議員がいることになる。

国会の全面改選を迫る台湾人

八七年に最初の台湾人政党、民進党が結成されてから、国会の全面改選が声高に叫ばれるようになった。この要求は立法院内での民進党系議員による要求のほか、街頭デモの形で進められた。ことしに入ってからは、一月十七日と十八日に民衆が立法院を包囲し、二十九日には八千人のデモ隊が台北市をねり歩いた。

「国会の全面改選」だけでは生ぬるい。現在の国会を廃止し、根本的に新しい国会を作るべきだと主張する運動も顕在化している。台湾政治受難者聯誼総会に(黄華会長)と「新潮流」グループがこれを推進しており、「新憲法、新国会、新国家」をスローガンに掲げ、昨年の十一月十五日から十二月二十五日までの四十日間、台湾の各地を回り、デモや講演会をおこない、民衆の奮起を促している。

なかでも注目されているのは、国民党内部でも、国会の全面改選を主張するグループが台頭していることだ。このグループは、改選を要する七二年以降に当選した国会議員が中心になっている。万年議員は改選がないので、民意に反する言動が実に多い。こういう人たちの言動は改選の洗礼を受ける国民党員候補者の当選を危くさせている。しかもこの万年議員は、「国会議員としての経歴が長い」という理由で、国会内の重要ポストを独占しているが、この人たちには最も大切な民意の基礎がないのだ。そういうわけで、改選を要する国民党籍の国会議員(ほとんどが台湾人)も国会の全面的改造を主張するようになった のである。

総統李登輝とて、思いは同じであろう。なぜなら、現在九百三十名もいる国大代表のうち、台湾で増選されたのはそのうちの八十四名だけで、万年国大代表は九割を占めており、これら万年国大代表が来年の総統改選時に、台湾人である李登輝を総統に選出する保証はないからである。だが、李登輝にはまだこれらの万年国会議員を抑え込むだけの力を持っていない。したがって、国会の改造に関して、李登輝は国民党保守派に妥協しつつ、徐々に進まざるをえないのだ。

ことしの一月二十六日に、立法院は、国民党による単独採決という強硬手段で、次の法案を通過させた。

1 万年議員の自発的退職を奨励し、自発的な退職者には、退職金(約三七〇万台湾元。勤続四十数年の次官なみ)を支給する。

2 増選部分の議員数を増やす。国大代表は一九九二年と九八年の二回に分け、最終的には三百七十五名を増選する。立法委員は八九年と九二年の二回に分け、監察委員は九〇年の改選時に五〇名増選する。

結局、国民大会八百余名、立法院二百余名、監察院三十余名、計一千余名の万年国会議員は自発的に退職しないかぎり、こんごも議員をつづけられることになったわけである。その間、選挙戦の洗礼を受けた議員が徐々に増え、九二年の段階で、増選部分がようやく五百七十五名に達する。

台湾の「国会」が欧米なみの定期的改選になるには二十一世紀を待たねばならないことになるのだ。政治的にめざめてきた台湾人は、果たして黙って待ち続けるだろうか。

台湾の隠された真相D
台湾出身・李登輝総統のジレンマ

土井社会党委員長の「台湾統一」発言

八七年の十一月に中国を訪問した日本社会党の土井たか子委員長は、趙紫陽中国共産党総書記に対して、「台湾の統一を促進するため積極的に行動すると述べ、具体的裏付けとして、これを国民運動に発展させると約束した」(東京新聞、同年十一月十七日付け)。

これは実に重大な発言である。内容の重大さもさることながら、発言者が野党第一党の現職委員長であるゆえに、事は重大である。この発言に社会党員はどう反応するか、また日本国民がどう反応するか。筆者は社会党の刊行物、それに雑誌や新聞各紙をたんねんに調べたが、この発言の不当さを指摘したものをみつけることができなかった。「中国による台湾統一」を日本国民が、当然だと思ってしまっているからだろうか。それとも、中国が四十年の長きにわたって叫んできたこのスローガンが、日本のマスコミによって紹介されつづけられてきたため、人びとはマヒしてしまい、これに反応することの馬鹿らしさを 感じているからだろうか。中国の台湾統一とは、台湾が中華人民共和国の領土になることであり、台湾二千万の 住民が、中華人民共和国政府の支配を受けることである。この問題を台湾の人たちがどう考えているか、またこの問題が将来どう展開するか、考えてみよう。

中国が台湾を征服できなかった理由

中国は確かに変わった。一九四九年の中華人民共和国建国以来、その国内政治は波瀾に富み、中国研究者の予想をしばしば覆したが台湾をその支配下に置きたいとの願望だけは、武力行使、平和会談、一国二制(一つの国、二つの制度)のスローガンに見られるような変化こそあれ、一貫して変わらなかった。それにもかかわらず、台湾は依然として中国の外にあり、見えうる将来、中国の支配下に入りそうもない。

ではなぜ、中華人民共和国は台湾を征服できなかったのか。過去のこの四十年をいくつかの段階に分けて述べねばならないが、端的にいえば、つぎのいくつかの原因が考えられる。

1 中国の海軍力が育っていず、渡洋作戦の経験がなかった。空軍にしても台湾海峡の制空権を持つに至っていない。

2 ソ連との緊張した長い国境線や辺彊の治安維持のため、兵力が分散している。

3 台湾に対する武力進攻が長期化した場合の軍事費負担が財政に悪影響を与える。

4 米国が長いあいだ台湾と同盟関係にあり、一九七九年にこの関係が解消したあとも、「台湾関係法」という国内法で、台湾を守っている。

5 台湾住民が中華人民共和国による支配を拒んでいる。

右の状況は、これから先も当分のあいだ、つづくはずだ。

中国は現在、国防、科学技術、工業、農業のいわゆる四つの近代化を進めており、これが順調に進めば、二十一世紀に入るころには一人あたりの国民所得が一〇〇〇ドルに達することを、中国政府は期待している。しかし、中国の積弊は深く、現在すでにインフレや経済制度の変化の伴う社会混乱が起こっており、目標達成は困難であろう。二十一世紀に入るころ、台湾の国民所得は一万二〇〇〇ドルになっている見通しであるので、台湾と中国の格差はひろがる一方のはずだ。

ともあれ、経済制度の変化により、中国の内部で、新しい矛盾が様々の形で噴出することはまちがいない。経済開放によって富裕になった階層と、その余録にあずかることができなかった貧困な階層の対立、経済特別区や経済開発区に指定されたために栄えた沿岸地域と停滞したままになっている内陸各省との対立が、新たな国内紛争の種になる。イデオロギー面では、改良主義に対する純粋共産主義グループの反撃という形で、闘争が展開されるであろう。換言すれば、中国の国内的ハーモニーは望めず、つねに爆弾を抱えている状態がつづく。対ソ関係は、珍宝島(ダマンスキー島)帰属問題に見られるように、改善されつつあるが、両国とも超大国であること、隣り合わせになっていること、歴史的紛争のタネ、たとえばシベ リア極東地域の領土問題などが山積しており、両国が真の友好関係に入ることは望めないと断定してよい。

台湾問題は、中華人民共和国政府にとっては重要な問題であるとはいっても、従来からこれは中国国内の内部引き締めに利用されてきた面が強く、中国民衆が台湾というこの馴染みのうすい島を獲得する強い意欲があることを示す証拠はない。台湾の国民党政権が、蒋介石時代の「大陸反攻」スローガンや、「国民党政府こそ中国の正統政府」という刺激的なスローガンを再び唱えないかぎり、蒋政権を中国大陸から追い出した当時のような敵意を、中国民衆のあいだに呼び起こすのは無理だ。

もちろん、戦争はつねに計算されつくしたうえで始められるものではなく、突発的に起こることもありうる。たとえば、台湾海峡での海軍もしくは空軍の小競合いが、引き金になることも考えられる。中国が台湾に対して武力行使に出る可能性が全くないわけではないのだ。中国は硬軟をおりまじえて、台湾人をゆさぶっているが、いつかは武力で以て攻めてくることを、台湾人は覚悟すべきだろう。

ところで、台湾側は中国による台湾「統一」をどう見ているだろうか。

国民党政権の腹は「国独」

「国独」とは聞きなれないことばだが、これは京都大学の台湾人留学生グループが七十年代に造った新語であり、いまではすっかり定着している。国民党による独立の意味である。台湾を中華民国という国名のまま、大陸の中華人民共和国からは独立した形で、存続させることを言う。

蒋介石は最後まで中国大陸の政権奪回を念願したが、この頑固さゆえに、国連の議席を追われた。一九七一年のことであり、岸信介元首相が蒋介石に「国独」を勧めて断られたのもこのころのことである。七五年に蒋介石が死亡したが、これは、ひとつの時代が終わったことを意味する。これ以降、国民党政権の台湾化が加速していったのである。この時期にスローガンは「政治七分、軍事三分」の割合で大陸を奪回することから、さらに後退して、「三民主義による中国統一」に変わったが、おざなりのものにすぎないことは、誰の目にも明らかである。

一九八〇年代に入ってからは、台湾経済は急速に発展していき、政権高官も、実業界も台湾の生存、存続に自信をつけた。中国大陸といっしょになることが、この人たちにとって、大きな苦痛と損失であることは極めて明白だが、台湾在住の大陸出身者にとっても同じであった。蒋介石とともに台湾に逃げ込んだ大陸出身者は台湾という異郷で生存していくには、国民党という保護者が必要だった。大陸出身者として特権を保持するためには、中国大陸奪還のスローガンが必要である。ところが、スローガンが色褪せ、二十年、三十年も経過すると、台湾人との間に儲けた子女は台湾化する。大陸出身者同士の間でできた子女もこの傾向から免れられなかった。ことしを基準にすると、ちょうど四十年になるのだ。中国大陸を知らな い中国大陸出身者が、いまでは年齢的にも、台湾社会の中堅になっている。質的変化が起こるのは当然であろう 。

変化の最たるものは、総統の座が初めて、生っ粋の台湾人に回ったことであろう。総統の座についた李登輝は、中国大陸なんか、見たこともないのである。そのかれの指導によって、八八年七月に改造された内閣の閣僚を台湾人が半数を占め、党のカナメである中央常務委員会のメンバーも台湾人が半数を占めた。

李登輝のアキレス腱は支持基盤がないことだ。総統は民選ではなく、万年国会のひとつである国民大会が選出する。前月号で触れたように、その構成員である国大代表のほとんどは四十二年前に中国大陸で選出された万年議員と称される人たちである。李登輝が八四年に副総統に選出されたのは、これらの万年議員の支持によるものではなく、当時の総統蒋経国が台湾人重視の姿勢を示すために、かれを推薦したからであった。蒋経国の死によって、李登輝が総統に昇格したが、任期は蒋経国の残存任期までであり、来年(一九九〇年)三月に切れる。李登輝が自分の力で総統に選出されるのは、全人口の八五%を占める台湾人の支持があっても役に立たない。国会の八〇数%を占める中国大陸出身のこれら万年議員の支持を獲得せ ねばならないのだ。学者であり、良識派でもある李登輝ほどの人物が、「私は台湾の総統ではなくて、全中国の総統である」という、小中学生でさえ笑い出すようなことを口にするのも、万年議員の票を獲得するためである 。李登輝自身、台湾は中華人民共和国とは別の独立国として存在してこそ、台湾民衆が生存していけることを知っている。だが、現在の「中華民国憲法」があるかぎり、また、万年議員が投票を独占しているかぎり、かれは万年議員の機嫌をとらねばならない。それで、かれは万年国会、万年議員の全面改選を要求する民主化運動に厳しい態度をとらざるをえなくなったのだ。民主化を要求する台湾人の側から見れば、せっかく台湾人の総統が誕生したのに、台湾人の民主化運動を弾圧するのでは意味がない、という不満が噴出する。総統李登輝への批判が台湾人の間で出始めているのは、こういう背景があるからである。

なぜ「国独」なのか

政治権力は麻薬のようなもので、一度その味をしめたら、なかなか手放せないといわれる。蒋介石の北伐成功(一九二七年)以降、国民党は四九年まで、中国大陸で政権を担ったとはいえ、当時の中国国内には、国民党政権に対抗する別の政府が常に併存していた。その上に、内戦や対外戦争が絶えなかった。その国民党が、小なりとも「一国」を完全に支配しえたのは、台湾時代(一九四五年以降)だけだ。政治権力に経済的利益、それこそ「政府経営ほどすばらし商売はない」というのが本当のところであろう。満州族は三百万人の人口で、三億の漢族を三世紀近くにわたり支配しえた。満州王朝は自分に忠誠を示すのであれば、ちゅうちょなく、漢族を将軍、宰相に起用した。この故事は、国民党にとっては、またとない前例だ。台 湾人である李登輝、林洋港(現司法院長)、黄尊秋(現監察院長)、劉濶才(現立法院長)の起用など、この文脈で捉えると、なんら不思議ではない。

しかし、満州王朝の漢族支配と国民党の台湾人支配には大きな違いがひとつある。台湾人は、王朝思想に染っていた当時の中国大陸の漢族とは違って、近代的教育を受け、人間としての権利意識にめざめた民族である。台湾人は第二次大戦後、国民党による台湾支配を通して中国人の本質を知り、中国との袂別を決心している。この点については、中華人民共和国の要人もよく認識しているはずだ。そもそも台湾の帰属については、大変な出費を伴う武力解決によらないでも解決できる。住民投票をやれば、簡単に結果がでてくるはずだ。しかし、中華人民共和国政府は一貫してこれに反対してきた。台湾人が「台湾の独立」を択ぶことをよく知っているからである。

国民党も住民投票に反対してきた。投票の結果は「台湾の独立」になるはずであり、台湾の独立が、民衆の意思によるものである以上、政府の構成も、国民の投票によって選出された国会の意志に基かねばならない。万年国会は解散され、それに伴って、従来のように万年国会を通して総統を選任できなくなるし、内閣を国民党の意のままにつくることもできなくなる。政治的、経済的特権を国民党は失ってしまうのだ。

だからこそ、国民党は、中華人民共和国とは別個の国として独立したい反面、民衆の独立意識を押さえねばならないのである。そして、現在の「中華民国体制」を維持しつつ、台湾の独立の実を挙げる。これが、「国独」のシナリオである。

台湾人の独立建国運動

国民党政権が台湾を占領した一年半後の一九四七年に、数万の台湾人を虐殺した「二二八事件」を契機にして、台湾人の独立建国運動がスタートした。国民党であろうと、共産党であろうと、台湾人は中国人の支配を受けたくない。台湾が中国の一部であることを欲しない。台湾人による台湾共和国を樹立する。これが台湾独立建国運動の理念である。様々な曲折を経てこの運動は、一九六〇年に結成された組織が、現在では台湾独立建国聯盟の名称の下に、世界各地で活動している。

台独聯盟(WUFI)と略称されるこの団体は台湾人による台湾共和国の樹立をめざしているが、「台湾人」についての定義は、時間の変化により、修正がなされている。

台湾人とは、中国国民党政権が一九四五年に台湾を占領する以前から台湾に住んでいた人たちを指す。これが当初の「台湾人」の定義であった。その後、国民党政権が連れてきた大陸出身者、ことにその二世立ちの台湾化が進んだことにかんがみて、一九七〇年代に定義を修正した。「台湾人として、台湾にアイデンティティを持つすべての人たち」、これが新しい定義である。この定義によれば、大陸出身者であっても、台湾にたいしてアイデンティティさえあれば、台湾人として平等に遇される。

日本統治時代、植民地統治批判をしたため、投獄された台湾人は、五、六回投獄された人でも、刑期の合計が一年たらずだった。ところが、国民党時代になって、政府批判をやれば、一回捕まっただけで、刑期十年というのはザラだる。そのため、台湾内部での独立運動は、地下活動の形式をとらざるをえなかった。公開活動の形をとるばあいには、民主化要求にとどまるが、それでも逮捕、重刑を覚悟せねばならなかった。

このような苦境でのたゆまない努力によって、一九八六年九月に禁令を破り、初の台湾人政党、「民主進歩党」(略称、民進党)が「台湾の将来は、台湾住民自決によって決定すべきこと」を党綱領に掲げて誕生した。翌八七年七月には、国民党政権は三十八年の長きにわたる戒厳令を廃止せざるをえなかった。

台湾基督教長老教会総会は早くも七七年には、「新しい独立国家」をつくるよう国民党政権に要求して、注目された。八七年には「台湾政治受難者聯誼総会」の綱領に、「台湾は独立すべき」ことを掲げたため、蔡有全牧師と許曹徳氏がそれぞれ重刑に処されたが、台湾人の独立要求はかえって強まり、一層公開化した。処刑を恐れずに、二十一年間を政治犯監獄で暮らした四九歳の黄華氏は八八年末に、「台湾新国家運動」の「全島四十日間デモ」を展開した。なかんずく、大陸出身者二世の鄭南榕氏は、自分の主宰する週刊政論誌『自由時代』で台湾独立をキャンペーン、新しい時代の展開を思わせるものがある。同誌ははことしの二月に、台湾独立建国聯盟主席許世楷博士の「台湾共和国憲法私案」を掲載し、検察処の呼び 出しに応じず、徹底抗戦を展開している。台湾人の独立への闘いは、一波ごとに大きなうねりをみせているのである。

台湾の隠された真相E(最終回)台湾独立への新しい動き

日本のように長い歴史を持ち、しかも安定した社会に住んでいる人びとは、国は未来永来永劫にわたって在続するものだと思いがちである。しかし、実際はそうではない。それぞれの事情によって違うが、国は人間と同様に、生まれたり死んでしまったりするものだ。十九世紀が終わるころ、国の数は三十七しかなかったが、第二次大戦開戦時には六十六になっていた。それが、いまでは百七十カ国に増えている。一世紀の間に四・六倍という増加ぶりである。他方、ベトナム共和国(南ベトナム)のように、滅亡していった国もある。世界史的にいえば、大帝国、超大国はこれからは出現しにくくなり、国の規模は小さくなっていく傾向にある。価値観の多様化、地方意識や種族意識の台頭が、自分の国を造る方向、つまりナショ ナリズムに向かうのに対して、従来存在していた国がそれに万遍なく対処するには荷が重過ぎるからである。

中国を例にとると、広大な領域、人類の五分の一の人口を擁していながら近代化できず、国としての統一維持に四苦八苦しているのは、従来、プラス面として評価されてきた広大な領域と厖大な人口が災いしているからである。過去の中華帝国の夢を追うかぎり、中国に未来はない。

そもそもチベットや新彊における動乱は、根強い反中華帝国のナショナリズムが存在しているからである。中華人民共和国はそれを許しがたい「分離独立運動」として捉え、弾圧しているところに問題がある。中華人民共和国政府は、発想を転換し、これらの地域の分離独立は、むしろ中国を身軽にするプラス面の方が大きいと考えるべきである。旧中華帝国の再統一は、もはや永遠に不可能だ。「中国の統一」という名を借りた「中華帝国の再現」は、すでに蒙古人民共和国になってしまっている外蒙古を併合しないかぎり、不可能である。それにはソ連と一戦を交える覚悟が必要である。台湾については、二千万に達する台湾の人びとの手ごわい抵抗を覚悟せねばならない。

では、台湾には中国に抵抗するだけの力があるだろうか。

ある。それは過去四十年の実績がそれを示している。国際的にも小国の抵抗能力を示す事例は多い。米ソといえば、自他ともに認める超大国である。だが、米国は北ベトナムを打ち負かせなかったし、米国の裏庭といわれるメキシコ湾にあるキューバをどうすることもできなかった。アフガンから手を引かざるをえなくなったソ連の事例は特に目新しい。

見えうる将来に、中国は台湾併合の野心を放棄しないであろうが、それは共産主義を唱えながら、実際には旧中華帝国の領土拡張思想を踏襲する中国支配階級の頑迷さがネックになっているからである。

台湾の将来は、台湾の独立以外には考えられないことは先月号で触れているが、この一ヵ月の間に、台湾では一〇〇パーセントの言論の自由、台湾の独立を求めて、著名な言論人である鄭南榕氏が、焼身自殺してその信念を訴えるという、台湾史上、初めての事件が起こり、他方、これとは別に、国民党政権もいくつかの政策転換を表明しているので、「独立」の問題を再び取り上げたい。

「一国両府」

国民党政権の外交部長連戦氏は四月八日、立法院予算委員会で、つぎのように発言している。

「国際組織への参加は政府の既定の目標である。現段階においては、地域的国際組織や経済貿易関係の国際組織への加入を主要目標にしているが、これで満足をしてはならない。視点を遠くに置き、国連に復帰することを究極的目標にすべきだ」。

白ロシアやウクライナの例外があるが、国連加盟は独立国を前提にしている。したがって、この発言は台湾を中国から独立したひとつの独立国にすることを「究極的目標」としていることを明らかにしたと解釈してよい。この方向を示す徴候は早くから見られたが、最近では三月初旬の李登輝氏のシンガポール訪問がその具体的事例だ。シンガポール側は、李登輝氏を「台湾から来た総統」というふうに表現し、かれ自身、帰台後の記者会見で、「これは受け入れられる表現だ」と語っている。またこの会見では、数回も「台湾の主権」を口にしている。「中華民国の主権」という表現ではなくて、「台湾の主権」という言いかたは、口をすべらしたではすまされない、重要な表現なのである。

連戦氏の国連加盟発言はもちろん総統李登輝氏の意を受けているが、だからといって、李登輝氏の記者会見での発言と重ね合わせて、李登輝氏の考えている独立は、「中華民国の独立」ではなくて、「台湾の独立」だと解釈するのは早計である。現在の李登輝政権が意図しているのは、あくまで「中華民国の独立」であり、それは中国大陸を含めない中華民国の独立、台湾を唯一の領土とする中華民国の独立、つまり、先月号で述べた「国独」なのである。

では、従来主張してきた建前、「中華民国は中国大陸をも含める」という虚構を国民党政権はどう修飾するか。この問題については、これまた李登輝氏の指示を受けた行政院長兪国華氏が、外交部に命じて研究中である。その結論はできつつあり、「一国両府」(一つの中国、二つの対等の政府)に落ち着くもようだ。

具体的にはこうなる。

「中国」という国があり、それが中国大陸と台湾とに国土は分裂した。中国大陸を中華人民共和国政府という政治的実体(Political entity)が有効に支配しており、台湾は中華民国政府という政治的実体が有効に支配している。この二つの政府の支配する領域には大小の違いこそあるが、それぞれの政府は独立した、対等の存在である。 では、これは中華人民共和国の唱える「一国両制」と、どう違うのか。

「一国両制」(一つの国、二つの制度)のばあい、「一つの国」という国とは、中華人民共和国であり、中華民国は存在しなくなる。中華人民共和国はあくまで共産主義体制であり、「中国香港」、「中国澳門」、「中国台北」などの行政特別区は資本主義体制をとってよい。「中国台北」とは、台湾のことをいう。

それにたいして、「一国両府」(一つの国、二つの政府)のばあい、「一つの国」にいう国とは、中華人民共和国でもなければ、中華民国でもない、抽象化された「中国」という漠然としたものである。そして台湾についての領土権はあくまで、この抽象化された「中国」に属するので、「一つの中国」という原則に合致するというのである。 国民党政権がいずれ正式に公表する「一国両府」の主張に、北京がどう反応するかは、実に興味深いが、猛烈に反 対することはまちがいない。「一国両府」は、実質的には「二つの中国」を意味するからだ。

このように今年に入り、国民党政権の大陸政策は一段と積極的になった。四月七日には、香港でなされてきた中国オリンピック委員会の交渉の結果が発表され、中国側の譲歩により、台湾の選手団は、「中華台北」の名称で、中国大陸で開催される国際的な協議大会に出場できるようになった。*イグザミナE 1989 Jun Page46 誤報

このように、北京が譲歩をしたのを見て、国民党政権はたたみかけるように、「一国両府」のアドバルーンをあげたのだ。さらにADB理事会への代表に、現職の財政部長(大蔵大臣)を指名し、中国での会議に出席するよう命じたことは、中華民国政府としての国民党政権の存在を、北京に間接的に認めさせる狙いを持っているといってよい。

鄭南榕氏の焼身自殺

このような事柄が進んでいたなかで四月七日午前九時五分、台北市の一角にある自由時代社の編集長室から火の手があがり百名近い保安警察の環視の下で、鄭南榕編集長が焼身自殺した。かれは「台湾共和国憲法草案」(津田塾大学許世楷教授起草)を自分の主宰する雑誌『自由時代』週刊に掲載したため、高等検察処から反乱罪容疑で出頭を命じられていた。これにたいして鄭南榕氏は、これは言論の自由に属するのであって、自分は一〇〇パーセントの言論の自由を要求すると声明し、出頭命令に応じず、「国民党がわたしを逮捕するのであれば、わたしの屍しか逮捕できない」と言い放った。かれはガソリン三罐を常時事務机の下におき、いざのときに備えていた。そして四月七日午前九時、保安警察が逮捕にやってきたのを見て、かれは室内にいた編集者や一人の娘(九歳)を追い出し、覚悟の自殺をしたのである。

かれは台湾独立運動者であり、自分は中国人ではなくて台湾人であると主張してきた。この主張から見ると、誰でも、かれが先祖代代から台湾に住んできた台湾人であると思うであろう。ところがなんと、かれの父親は中国福建省出身の中国人で、かれは一九四七年に台湾で生まれた二世なのである。台湾在住中国大陸出身者の二世が、死を賭してまで、台湾の独立を求めるまでに成長したのだ。この事実を国民党政権はなんと思うだろうか北京政府も驚いたに違いない。

もちろんこの事件が台湾社会に与えたショックは大きい。かれは至って健康、四十二歳という働き盛りであるうえに、かれの経営している出版社の規模は大きく、その妻、葉菊蘭さんは三大広告会社のひとつ「聯廣公司」の最上級社員であり、しかも家庭は至って円満であっただけに、かれの焼身自殺は、民主化への要求、独立への要求が、このようにまで深刻化していることを内外に示すものであった。

台湾最大の野党である民進党は、半旗を掲げてその死を悼み、「台湾共和国憲法支援会」を中心に、各地の活動家を網羅する葬儀委員会がつくられ、大規模な民主化・台湾独立運動を展開する動きを見せている。

鄭南榕氏がなぜ死を択び、そして死を控えて、何を考えていたのか。かれの最後の言論となった。死の一両日前になされたインタビューでかれはこう答えている。

@台湾の将来は独立が唯一の生きる途である。A国民党は「中国統一の神話」を借りて、台湾で政治的詐欺をやっている。B台湾人民が積極的に努力すれば、国際的に外交関係を樹立できるはずだ。Cそれは中国の阻止にあうといわれるが、台湾を中国の領土だと認めている国は極めて少ない。大多数の国は、中国の立場を認識するといっているだけだ。D台湾は、台湾の民意を反映する政治制度を造り上げねばならない。E充分な対論期間を経て公民投票をおこない、台湾の将来を決定すべきだ。F独立後の台湾が独裁へ走るのを防ぐため、いまから憲法草案の討論をすべきだ。G台湾は小さくはない。台湾人民は世界平和に貢献する能力を当然ながら、持っている。だがそれには前提がある。台湾は対外的には国際上の地位がなければならず、内部的には、民主的でなければならない。

「独立」と「民主」とを同時に進展させる。これがわたしの一貫した考え方だ。

最後に、「死を以て逮捕を拒否する現在の心境は」と問われ、「心境は至って穏やかだが、闘志は高揚している」とかれは答えている。

鄭南榕氏の死と台湾

「台湾の隠された真相」と題する六回にわたるこのシリーズの最終回に、筆者がひとりの言論人の死を取り上げたのは、これがごく最近に起こった事件であるからだけではない。数万の人間が戦死しても変化しなかった情勢が、たったひとりの人間の死で、がらりと変わった事例があるからだ。ベトナム戦争時、米国の軍事介入に抗議して焼身自殺した南ベトナムの一仏僧チクワン師がそうであり、これをきっかけにして、南ベトナム国内での反米気運が高まり、闘志も高揚した。

鄭南榕氏は仏僧でも宗教家でもないが、かれは非暴力主義者であり、台湾独立も平和手段を用いるべきだと主張してきた。そのかれが、逮捕にやってきた、かれの敵ともいえる保安警察、言論の自由を抑圧してきた国民党政権への抵抗手段として、自分の命を、自らの手で断つことを択んだ。抗議の対象、抵抗する対象こそ違うが、根底にはあるのはチクワン師と同様、同胞への愛情だ。鄭南榕氏のばあい、目撃者の証言によれば、死の瞬間でさえ呻き声すら挙げなかった。両手をひじ掛けに置き、背筋をまっすぐにして椅子に坐り、そのままの姿勢を死後までも保ちつづけたことに現場を訪れた人びとは、一様に驚嘆している。戒厳令解除後も、従来からの惰性で、国民党政権の意向に汲々としている新聞までが、かれを会津の白虎隊だと讃えたりするありさまだ。

こんが、鄭南榕氏の名は「台湾史」、「言論の自由」、「憲政史」の各分野で残るのはまちがいないが、むしろ、かれの死が台湾民主化運動や台湾独立運動のありかたに、どう影響するかが注目される。

戒厳令撤廃後の台湾は少しずつ民主化しているが、その速度は実に緩慢である。台湾人の勤勉さた、その高い能力のおかげで、台湾経済は進歩をつづけているが、労働者、農民にはそれに見合う収入がなく、社会福祉事業は依然としてなおざりにされ、自然環境の破壊により、生活は息苦しくなっている一面もある。

中国との関係では、「一国両府」政策は、従来より一歩進んでいるとはいえ、基本的には、「中華民国体制」の維持そのものであり、それは台湾住民の意思による、台湾住民のための国ではなく、主権については、中国とは完全に分離独立したものではない。

国際的には、貿易こそ発達していても、国交関係が狭く、独立国としての普遍的な承認が得られず、国際上の地位は依然として不安定である。

そもそも独立国としての安定した国際上の地位は、軍事力や国民の国家防衛への決意とともに、国家安全保障の要素である。そして、安定した国際上の地位は、台湾の完全な独立でしか得られないのだ。中華人民共和国が、完全な独立国としての台湾を容認するか、どうかは問題ではない。要は台湾自身の問題である。

中華人民共和国が台湾侵攻に成功するだけの能力をたくわえる前に、台湾は独立せねばならない。一旦、独立国としての既成事実ができあがれば、諸国の承認を得ることができ、これが台湾の安全を守る武器になるのである。


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