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国共合作――その歴史と展望
黄正憲  2002年9月10日

前言

さる7月の末元国府総統代理にまでなった李宗仁が、16年間にわたる海外亡命生活に終止符をうち、中共に帰順した、中共が大陸を制覇したために国外へ亡命した国府の高級官吏のうちには、その後中共に走ったものも少なくはないが、李宗仁は蒋介石の下で副総統をつとめたことがあるが故に特に注目に値する。

李宗仁は反共ではあったが、むしろ反蒋的存在であったため、このたびの李宗仁の帰順の決定は蒋介石とはー一応無関係でふる。しかしながら、“李宗仁の中共帰順は、亡命中国人の今後の動向について示唆を与えるものである。 1921年に中国共産党が創立されて以来、それはずっと国民党との葛藤を続けてきたが、犬猿の仲とも比される共産党と国民党との間にも二度、合作・協力関係にあった歴史がある。

第二次大戦終戦後間もなく国共の合作関係は再び名実ともにくずれたが、国共間の和平会談は継続している。中共にせよ、国府にせよ紛争点が多々ありながらも一致点もあり、ここに和平会談の必然性が生れてくる。はたして第三次国共合作は実現するであろうか。

歴史は必ずしも繰り返されるとは限らない。しかしながら、未来を占うには、過去をふり返りつつ現状を分析し、もって未来を占うよりほかはない。

第―次国共合作

辛亥革命10年後の1921年7月に、中国各地の共産主義者の各小グループが上海に集まって、第一期全国代表大会(一全大会)が開かれ、中国共産党が正式に創立された。1922年7月に同じく上海で開かれた二全大会においてコミンテルン加入が決定され、その直後、杭州で開かれた中央委員会において、コミンテルン代表マーリン(オランダ人、馬林、Hendrik Maring)の指導により、国民党との合作が決定された。この方針は1923年2月における三全大会で正式に承認された。

一方、中国国民党の孫文はソ連代表ヨッフェ(越飛、Adolf Abramovich loffe)の勧告により、軍閥利用の政策から転じて、労働者農民の間に根をおろし、もって全民的革命を行なうことを決心した。かくて、1924年1月の中国国民党第一期全国代表大会は「連ソ、容共労農扶助」政策を決定し、国共合作が正式に成立したのである。この大会で国民党の新中央執行委員が選出され、執行委に共産党の李大、譚平山、林祖涵の三名、候補委員に毛沢東ほか5名が任命された。そして、共産党員は個人資格て国民党の党籍をももち、いわゆる「党内合作」の方針がとられたのである。

共産党は国共合作後、その活動分野が広がり、5・30事件、沙基事件、北伐を通じて急速に膨張した。そのため、5・30事件直前の1925年3月に孫文が北京で客死した時から、国民党右派は公然と反共を叫びだした。共産党は逆にこれを利用し、国民党最高顧問ボロジン(ソ連人、鮑羅廷、Mikhai1 Markovich Borodin)を背景とする国民党左派の汪兆銘と提携し、国民党をゆすぶった。北伐の途中で共産党は国民党左派とともに漢口遷都を決行したので、軍隊を握る北伐軍総司令蒋介石は1927年4月12日、上海で反共クーデターを断行、南京に国民政府を樹立した。

武漢政府はその後、共産党の急激な改革要求に手を焼き、1927年7月、その反共的態度を明らかにし、ここに国共分裂をみたのである。

第二次国共合作

第二次国共合作は日本軍国主義の急進的な大陸膨脹政策の結果、中国の全面的抗日の要望を生んだことにより実現した。つまり、1936年12月、張学良によって西安に監禁された蒋介石は共産党代表周恩来に説得され、国共合作による抗日統一戦線の結成に同意し、翌1937年の蘆溝僑事件によって第二次国共合作が実現した。この時ソ連滞在中の蒋経国がスタ−リンの命を受けて急遽中国に帰り、父親を説得したことは第二次国共合作の成立に大きく役立ったことはいうまでもない。

かくて紅軍は国民革命軍の第八路軍に改編され、朱徳が総司令、彭徳懐がその副司令になった。

抗日民族統一戦線による8年にわたる抗日戦の当初、国民政府軍の敗北後退の後をうけて、共産党は日本占領地区にその粗織を伸ばした。共産党の拡張に不安を感じた国民党は1938年10月の武漢陥落後、反共作戦を展開、1941年1月には顧祝同軍による安徽の新四軍襲撃事件までに発展し、国共関係は著しく悪化した。国府軍による陝北の中共地区包囲態勢は1943年5月から終戦まで続けられたが、第二次大戦終了時には、共産党員は121万に達し、さらに正規軍90万、民兵250万、大小辺区18を数えるに至ったといわれら。一方、国府は華北、華中、広東周辺を日本軍に占領され国共の差は大いに縮まった。この勢力圏を背景に共産党は1945年4月の中共第4期全国代表大会において国民党一党専制に対し、各革命団体による連合政府の樹立を要求し、8月に終戦を迎えて、日本軍占領地区の接収をめぐっで国共は武力衝突した。ここに第二次国共合作は名実ともに終焉を告げたのである。

このように国共合作は二度とも分裂におわったが、互いにイデオロギーの違う二つの団体も、その都度、情勢や利害によっで合作することがあることを忘れてはならない。

列強の仲介による和平交渉

国共は終戦とともに日本占領地区争奪戦を演じたが、米駐華大使ハーレーの仲介で1945年8月29日から、重慶においで蒋・毛会談が行なわれ、内戦回避策が試みられた。国共両軍の衝突のためその成果は十分実行されなかったが、この年]2月にモスコーにおいて米英ソ三国外相会議の内戦停止呼びかけ、米大統領トルーマンの声明および、それに続くG.C.マーシャル特使の中国派遣によって、情勢は一時好転し、翌46年1月10日、国共停戦協定が結ばれ、国共両党および第三勢力をも含めて、民主化を目的とする政治協商会議がつくられた。(国民党8名、共産党7名、民主同盟9名、中国青年党5名、新党新派9名計38名)この会議で政府の改組などが、決定されたが、同年6月におこなわれた国民党二中全会はこの決議を否認し、再び国共内戦に突入した。

内戦は中共に有利に展開し、ついに1949年に蒋介石の国民党政府は台湾に逃れ、中共は人民共和国を樹立したのである。この間、1949年春、中共軍がすでに揚子江以北を占領し、南京も危機に瀕している状況下において和平交渉がおこなわれたが失敗に終っている。

中共と国典合作の必要性

蒋介石は台湾に逃げこむと、国民政府を台湾に移した。カイロおよび、ポツダム宣言で、台湾は「中華民国」に引き渡されることを予定され、そして国府軍が台湾の接収に当ったが、その後1951年サンフランシスコ平和条約、さらに1952年の日華平和条約に、台湾が「中華民国」の領土になることは規定されていない。だが蒋介石は台湾において着々とその基礎を固め「中国」の「正統政府」であることを主張し続けた。たまたま、米ソをそれぞれの頂点とする東西二大陣営の対立の激化から台湾にある国民政府と外交関係をもつ国も依然として多く、ここに「二つの中国」という事態が生じてきた。

中共は大陸を制覇した後も、国府の壊滅を呼号してきたが、大陸沿岸諸島で、そこを守備する国府軍と小競合いを演ずるのみで、台湾に攻めいる軍事力をもっていない。 1950年に勃発した朝鮮戦争以来、アメリカの第7艦隊が、台湾海峡で睨みをきかしているからである。

台湾を占領し、国府を壊滅しようとする中共にとって第7艦隊の存在はその希望を断つものである。他方、国府にとって第7艦隊の存在は中共の侵攻から守るための護身符ではあったが、それはまた国府を支援して大陸反攻をさせる意志のないアメリカの象徴でもある。アメリカの支援がなくては国府に大陸反攻を試みる力はない。ましてアメリカの意向に反し、そして第7艦隊のカーテンを破って大陸反攻を試みることはなおさら考えられないことである。

かくして、大陸沿岸諸島での小競合いを除き台湾海峡を挾んで、中共・国府の謬着状態が長期間つづくに至って、国共両方の意向に反し、「二つの中国」という概念が世界的に有力になってきた。

中共にとって、その「国内的」敵対勢力を一掃し、国連はおろか、その他すべての面において、名実ともに中国の唯一の政府として確立するには台湾の国府を消滅させなければならない。まして急激な国内改革に乗りだした中共にとっては、なおさらその必要がある。大陸における蒋介石の敗北は軍事的失敗よりは多分に政治的腐敗によるもので、民衆から離れた結果である。しかし蒋介石の存在は共産党の急激な改革に反対する大陸の一部勢力の象徴になりかねない。アメリカの軍事上を前にして、蒋介石を撃滅する可能性がない以上、政治工作に頼るほかはない。これが中共の国府に対する和平交渉となった原因と思われる。

この時点において、国府に対する和平交渉は種々の利点がある。つまり第三次国共合作にもちこむことができれば、兵を使わずして蒋介石によって象徴される反動勢力を―掃できるし、台湾をも手にいれることができる。例え、結果的に国共合作の実現をみなくとも国府に対するアフリカの疑心を生じさせることができる。米国・国府間に楔を打ちこむことができれば、国府の基礎が動揺し、その崩壊を招くかもしれない。こうして、1955年から、中共は国府に対する呼びかけを始めた。

国共合作への呼びかけの始まり

国共の接触の始まりはジュネーブの米中会談(1955.8.1)の始まった一週間後といわれる(香港新生晩報、1956.4.3)。その前までは中共の台湾政策は武力一本槍であった。例えば1954年8月の「台湾解放に関する各党派共同宣言」では、台湾「解放」のためあくまで蒋介石一味を一掃すると強調し、武力行使を辞さぬ構えをみせた。事実翌55年1月には一江山島を占領し、続いて国府軍をして大陳島より撤兵せざるをえない窮地に追いこんだ。それが4月に至って大きな変化をみせるようになったのである。

1955年4月、インドネシアのバンドンで開かれたA・A諸国会議で、中共首相周恩来は「適当なあっせん者が現れれば、台湾問題解決のため米国と直接話合ってもよい」と発言し、まず国府に恐慌をおこさせた。5月13日には「台湾解放に葉戦争方式と平和方式の二つの方式がある」と今後のいきかたを暗示した。5月31日の新華社電は蒋介石を蒋匪と呼ばずに「蒋介石」と呼称したことは、蒋を中国人民の敵とし、「蒋匪」と呼称し続けてきた中共にとっては異例なことだあった。

7月30日、第一期全国人民代表大会第二回会議の終了に当って、周首相は「……事情が許せば中国共産党は平和手段で台湾の解放を求める気でいる。中国共産党は台湾の平和的解放の具体的措置を決めるため、台湾地方の責任ある当局と交渉にはいる意思がある。…中国共産党は『二つの中国』には反対である」と演説したが、これは、国府当局に対する初めての直接的呼びかけであるあろう。先に5月ごろ、訪印中の周首相はメノン印度外相に対し、中共は「内政基礎の上にたって蒋介石総統と話しあう用意がある」と語ったが、これはメノンが間接的に公表したもので、中共の直接的呼びかけとはいえない。又3月に香港より大陸に投じた元国府陸軍副総司令衛立煌を大歓迎したり、5月18日、飛行機で中共に逃亡した国府空軍何偉欽中尉に賞金千元を与え「国府軍は何を見習うべきか」と声明したことなどは投降の進めであって、政治的解決への呼びかけとはいえない。国府に対する中共の合作への呼びかけは7月30日の第一期全国人民代表大会での周首相の演説に始まるといえる。

第三次国共合作下の交渉の噂

1956年になると香港、マカオを中心に国共合作の風評が流れだした。その発端となったのが1月2日付けのロンドンから発行されているDaily Heraldである。その伝える国共合作の仲介者は英人モーリス•コーヘン (General Morris Cohen)である。

ここでコーヘンの略歴について述べよう。1880年代に英国に生まれ、1908年にカナダ西部に移住、エドモントンのチャイナ•タウンのボスになる。その後孫文とつながりをもち孫文の護衛、財政部長格になる。そして呉鉄城、宋子文、孫科、宋慶齢、宋美齢とも親しくなる。しかし蒋介石だけは彼の接近を喜ばず、孫文の死後蒋と分かれる。1948、49年ごろは広州英文新報の特派員として香港に滞在。50年にロンドンに帰る。

このような経歴をもつコーヘンが1954年のジュネーブ会議の際、ジュネーブにいて周恩来に会った。翌55年には中共駐英大使F郷に三度ばかり会談し、同年12月初旬、ニューデリーで宋慶齢と会談した後、14日に香港に到着。16日にこっそり中共入りしたことが香港政庁によって確認されている。その目的が中共首脳部との話しあいだったといわれる。

コーヘンが個人的に蒋父子とはつながりがない以上、その行動がどこまで国府を代表するかは疑問であり、国府を代表する行動とはいえない。

コーヘンのほかに噂にのぼっているのが、蒋経国の部下であった曹聚仁である。香港南洋商報記者(香港徳輔道中、東亜大楼3号室在住)曹聚仁は数度にわたって蒋経国に書面で勧告した。

曹聚仁は蒋経国が江西省南部に社会主義政策に基く模範地区をつくったとき、経国の機関紙である正気日報を主催したから、曹•蒋の。関係は深い。

曹自身は「国共平和会談への道はすでに開かれている」と語っているが蒋経国に手紙を出したことについては否定している。もっとも、曹は当事在米中の胡適にも書簡を送り、自分が南京•上海で見たことを語り、そして胡適に北京へ行ってみるよう勧め、その際自分が案内すると申しいでていることからみると、蒋経国に手紙を送ったことは事実であろう。ただ蒋経国ないし、国府側がこれに返答したかどうかは別である。

胡適の例からもわかるように、この時期の呼びかけは蒋介石やその一派に限らず、その他の旧国府の首脳、例えば李宗仁などにも向けられた。ことに李宗仁については、李の息のかかった広西派の人びとを通じて、李済など中共側についた元国府要人との間に話が進められ、李の北京入りについて下交渉が行なわれていることが伝えられていた。

コーヘンにせよ、曹聚仁の動きにせよ、中共側が一方的に進めたトリックであるかもしれない。しかし、第二次国共合作の前夜、つまり西安事件直後の国共交渉、蘆溝橋事変前の蘆山会議で事実上の調停役を演じたのは蒋介石の密使張冲であり、当時何人も張冲の存在さえ知らなかったほどの細心さがみられた。第三次国共合作の場合には、少なくとも国府側には、前ほどの「自由」はない。国府の生命線を握るアメリカが介在するからである。このような状況下で、交渉が行なわれているとしたら、交渉要因が知れるようなことがないよう万全の注意が払われることは当然であろう。

謀略から現実へ

中共の合作への呼びかけと前後して、国府内部自体に変化がみられた。それはいわゆる親米自由主義的中国人の台頭である。最もこれは親米自由主義的中国人がだんだん勢力をもってくるようになったというのではない。ただこの人たちの国府批判が時がたつにつれ露骨になってきただけのことである。

親米的で軍隊をもつ孫立人は1955年6月に粛清されたが、(台湾青年第10号、中国難民問題特集を参照)皮肉にも親米派はこれを境に国府批判の度を強めていくのである。中共にとって蒋介石は憎むべき敵である。だが中共の見るところでは蒋介石にはまだわずかながらもアメリカに屈しないだけの土性骨がある。後に(1961年6月)周恩来は宇都宮代議士にその蒋介石観を話したが、こういう考えがにじみでている。それにくらべ、台湾の親米的中国人はなおさら我慢できない傀儡であろう。ともあれ、台湾の国府内部での葛藤は中共の当初の単なる謀略としての国共合作への呼びかけをして現実味を帯びさせることになった。アメリカが蒋介石支持から親米的中国人自由主義分子の支持に乗り移れば、蒋介石は中共と合作しないこともないからである。しかも、もっと悪いことに台湾人がだんだんと独立の主張を強くしていった。1949年の2・28事件以来、台湾人はひっそりとしてたいした動きをみせていないが、このころから、独立を望む声がだんだん大きくなってきたのである。中共の呼びかけは一段と活発になりそして具体化していく。

中共は国共がこれまで二回の協力合作関係にあったことを強調し、国民党Q軍政人士が遅疑することなく、台湾平和解決の道をとるよう呼びかけ、「過去の罪を問わない」ことを強調、「台湾を平和に解放する道を進みたいと思う人は、誰であろうとも、またかつて多くの罪を犯した者でも、寛大にあつかい、過去を追求しない」(1956年1月30日、中国人民政治協商会議での周酋相の演説)とまでいうようになった。また、「台湾当局は適当と考えるときに、北京かあるいはその他適当な所に代表を派遣し、話合いを始めるよう希望する」(1956年6月28日、周首相の人民代表大会での演説)と具体的になり、「国府要人が大陸の進歩した状況を見てくること」をも要望した。(1956年7月6日)

これに対し国府党局は心中はともあれ、一応反駁はしている。国府スポークスマンは記者会見で、中共の平和会談に応ずる条件として次の五点を挙げた。

1.中国大陸からすべてのロシア人を追いだすこと。

2.すべでの集団農場をやめて、土地を原所有者に返すこと。

3.押収した工業商業上の資産をすべてもとの所有者に返すこと。

4.大陸の傀儡政権を解散すること。

5.国府に忠誠をつくすこと。

これは国府の拒絶の姿勢をしめすものであるが、中共の合作への呼びかけは、その始めから国府系中国人に些少ながら効果をあげている。例えば香港の国府系新聞星島日報は社説で国共が両方の相異点について交渉せよと呼応した(1956年1月3日号)。また中共の計算通り、アメリカ側も国府に対して不安を覚えたようである。副大統領ニクソンはI956年7月台湾を訪問し、8日台北で蒋介石に大統領アイゼンハワーの親書を渡したが、この親書で、アイゼンハワーは蒋介石の「断固とした反共態度に感激した」とおだてている。「今までずっと共産主義と戦ってきた蒋介石」に今さらという感がないでもない。だが中共との対決上、「中国の正統政府」がどうしても必要であった。ここで国共合作をやられては困る。こうして、アメリカ共和党政府は内心蒋介石父子の、民主主義とは緑の遠い秘密警察による独裁に手を焼きながらも、蒋父子に対する気兼ねから、その後1957年からl969年にかけて強まっていく親米自由主義的中国人の「自由中国」運動に援助をひかえる破目になっていくのである。

逆にいえば、当初アメリカと蒋介石とを離間するために立てられた国共合作の謀略は、かえって蒋介石のアメリカに対する脅迫用武器となった。アメリカ政府が「台湾における民主化」を実現するための「圧力」をかけると、その都度、国共合作のヨロイをちらつかせる。「大陸反攻には足りないが、治安維持には多すぎる国府軍」を維持するための軍事援助を減らしたくとも減らせない。国共合作は巨人アメリカのアキレス腱になった。

「自由中国運勤」と台湾独立と国共合作

「自由中国運動」とは反共を主旨としながら反国民党政府というアンティ・テーゼで出発した。それは半月刊「自由中国」(1949年創刊)を根城に1956年に始められた。首脳は元国民党中央委雷震、文化人朱文伯、夏濤声などで、胡適は総帥格に祭りあげられていた。この人たちは「大陸を中共から取り返すには、武力によるのではなく、真の民主政治による」として、国民党の恐怖政治に反対した。

「民主主義」、それは国府のスボンサーであるアメリカの(自国内での?)政治理念でもあるため、「自由中国運動」は蒋政権にとっては脅威である。しかも台湾人が「自由中国運動」を台湾独立への第一段階と計算し、「自由中国運動」へ積極的に参加することによって、この運動を幅厚いものにした。かかる情勢下で中共は国共合作が単に米・蒋離間策に終らないという可能性を見いだしたに違いない。 1957年からの国共合作説は以前にもまして真実性と具体性を帯びてきた。

同年2月ごろ、香港で「中国問題解決の道」というパンフレットが撒かれた。「蒋介石よ、即時退位すべし、しからずんば罪を万世に残さん」、「台湾を米国の不沈艦にせよ、そのためには胡適国府主席、蒋廷黻行政院長、呉国G国連代表、兪大維国防部長、孫立人参謀総長の線で大改造が必要」を内容とするこのパンフレツトは、「自由中国運動」の指導者の考える人事につながるだけに国府を痛く刺激した。中共にとっても「アメリカ帝国主義者の申し子」であるこの人たちにくらべれば蒋介石はまだいいほうである。このバンフレットの正体は不明ではあるが、「自由中国運動」が海外の中国人に影響を与えていることは明白であった。数日後北京放送は「アメリカが台湾での反蒋運動を支持している」と報じた。(1957.2.27)。一方台湾でも反米気運が高まり、5月24日、蒋経国は退役軍人などその配下をして、アメリカ大使館を襲撃させた。(この時大使館文書の10%が慎重に焼かれ、残りの90%はその破損をつくろうことが、できたと時の米駐台大使は書いている。Karl Rankin China Assignment. P.307)

この事件は蒋経国に対する中共の態度を研究するのに示唆的である。種々の徴候から、この事件は蒋経国の指示によるにちがいないというのが一般的見方であるにもかかわらず中共はあえて「台湾人民の反米行動」とした。もし、1957年において中共に米・蒋間の離間を図る意思があるなら、そのまま率直に蒋経国を讃えたら効果的ではなかったか。中共がそうしなかったことは蒋経国の温存を願っている証拠にほかならない。

蒋経国と中共との黙契

1921年から13年間、ソ連に留学したが、これは人間形成の上で最とも大切な期間である。この時、経国はコムソモールに入党した。この党籍をその後放棄していないから、現在実際的に共産主義を信奉しているかどうかはともかく、少なくとも形式上共産党員である。 1937年中国に帰った経国は、江西省第四区行政監督専員になり、そこで社会主義模範区をつくった。経国には共産主義と一戦を交えた経歴はない。彼の「戦歴」は「打老虎」として知られている、1948年の中国人財閥に対する粛清である。

この粛清の目的は、内乱のどさくさに紛れて、金融操縦を通じて巨利を貪っている浙江財閥をこらしめるためのみではなく、当時中央銀行などに残存していた金塊を確保するためでもあった。後にこの金塊が台湾で国府の余命をつなぐのに役に立ったことからみても蒋経国の目先がきいていることがわかろう。

中国に帰った後、経国と中共との間にどのような接触があったかはしられていない。ただ、少なくとも、1954年に蒋経国が親米派の孫立人将軍を粛清した時から、中共は経国に対して好感をもちだしたことはたしかであり、1955年来の国共合作の予備会談が、蒋経国を軸にして動きはじめたこともまた事実である。

国共合作に対する国府側の公式的な態度や声明がどうであれ、会談は秘密裏に進められていった。外部に洩れ伝えられていた国共合作の条件は次のようなものだといわれている。

中共の条件:

1.台湾は中共に統一、蒋介石は北京政府副主席と台湾省自治区主席を兼任。

2.国民党の軍隊は現状を維持、ただし解放軍に編入され、蒋介石が中共国防委員会副主席として統率。

3.国民党の軍政人員をはじめ、海外の同胞は自由に帰国できる。

4.国連代表は中共から派遣。

5.国民党は李済Dの国民党革命委員会と民社党、青年党は民主同盟と協議してそれぞれ合併ないしは独自の政党となす。

6.宗教の自由と個人財産は保証する。

国府の条件:

1.国共間の交渉は第三国の介入を許さないこと。また中共の代表団をまず台湾に派遣する。

2.中共は愛国の誠意をしめすため、向ソ一辺倒の政策を放棄する。

3.中国人の大陸出入の自由を認める。

4.一切の政治犯のおよび強制労働者の全面釈放。

5.大陸の難民救済に台湾代表の入国を認める。

6.「中華民国」の国号の回復。

7.国家の一切の問題は国是会議によって決める。

このような条件が伝えられている最中に国民党革命委員会(中共系)は、かつて国共間の調停役であった張治中を中親に「平和解放台湾工作委員会を組織した。そのメンバーには邵力子、翁文H、黄紹Iら旧国民党メンバー10名が配置された。

張治中将軍は1946年に国共会談大きな危機に直面した際、南京で中共との交渉に当り、1949年にも国民党代表団長として北京で奔走し、そのまま北京に居残ったという経歴をもつ。邵力子は国共双方から好好爺として好かれている。

かかる体制で迎えたのが1958年10月の金門大砲戦である。中共は20日から大砲撃を金門に加える一方香港の仲介者を通じて経国に平和交渉を申しいれた。この時、中共は次の七条件を出した。

1.台湾政府の職にあるものは北京の干渉を受けずさしあたってその職にとどまる。

2.台湾の兵力は沿岸諸島のそれを含め、現状維持とする。ただしその名称は統一司令部のものにはいるよう改める。

3.台湾は中国の一省であることを共同声明する。

4.の声明の結果、台湾は中共の支配を受けいれる。

5.蒋総統は自由行動を保障され、台湾に留まってもよく、本土に戻っても外国にいってもよい。

6.米華相互防衛条約を廃棄する。

7.その他の問題は国府と中共との協議で解決する。

このような条件を経国がそのまま呑んだとはいえないによ。この時機に国共双方が、かなりの合意点に達したとみていい。というのは、その後の国共の行き方から、次のようなことが考えられるがらである。

第一に、この砲撃に際して、アメリカの艦船は金門の三浬川内にはいらず、金門防衛の気持ちがないことをしめした。中共にもし金門を攻略する意思があれば、できたはずである。しかし、中共はそうしなかった。

第二に、国府軍の補給を中共はこれを許し妨害を加えない旨、国府に通告をしている。

第三に、以後の砲撃はあったとしても隔日に行なわれるようになり、国府軍は安心して休息できる。

もしこれが戦争といえるなら、こんな奇妙な戦争はない。との角度からみても、中共に金門・馬祖などの大陸沿岸諸島をとる意思がないことをしめしている。これは国共間になにかの約束が成立しているとみるべきであろう。

たしかに、中共の出したし条件のうち、いくつかは実行されていない。それはアメリカの第7艦隊や、米華条約の規定などがあるためである。

1954年に締結された米華相互防衛条約の第2条に、締約国は単独に自助により、締約国の領土保全および政治的安定に対して外部から指導される共産主義者の破壊活動に抵抗する個別的能力を維持し発展させることができることが規定されている。

これを敷衍すれば、アメリカは国共合作に対して、これを外部の共産主義者による破壊活動と断定し、単独に派兵して鎮圧する法的根拠をもつ、しかも、アメリカは機動性に富んだ軍事力のうえに、沖繩、フィリピンなど台湾の近隣に基地をもつほか、台湾海峡を第7艦隊が巡邏している。このような情勢下に国共合作が声明されようなら、たちまちにして、アメリカ軍の出動を呼ぶ。このような理由から、国共合作は暗黙裏に、相互了解の形でしがおこなわれ得ないのである。

ところで、金門の大砲戦はまた別な意味でたいへん興味深い事件でもある。

この年の10月21日から23日にかけて、アメリカ国務長官ダレスが蒋介石と台北で会談することになっていた。会談に先だってダレスは台湾海峡に信頼のおける停戦を継続する状態が生まれれば、金門島にいる国府軍の制限ないし、撤退を国府に納得させたかった。そこで会談の始まる前日の20日に中共は金門に大砲撃を始めた。これは「中共の武力に屈して撤退することは我慢できない」というアメリカの「英雄主義」の盲点をついた巧みな戦術である。その結果、ダレスは金門などから撤兵することを蒋介石に説得することをやめた。こうして、金門などの沿岸諸島は、中共国府が、「一つの中国」を叫ぶ根拠として残された。

米ソの雪どけと「二つの中国」

国府は国際間の緊張状態を巧みに利用して自己保存をはかってきたが、国府にとって不幸なことに、米ソ間に和平ムードがただよってきた。1959年9月にフルシチョフがアメリカを訪問し、アイゼンハワー大統領と三日間にわたり、キャンプ・デービッドで会談した。アイクはフ首相に対し、中国問題の解決策について、「二つの中国」案について具体的な方策を出しつつ熱心に説得し、フ首相もまたこれに同意した。

この会談後、アメリカは「二つの中国」を公然とうちだし、フ首相も帰途北京にたちよってI0月2日、毛沢東と会談した。この時、フ首相は、ロシア革命後にシベリアで出現した「極東共和国」の例を挙げ、毛に「二つの中国」を認めよと説いた。

「二つの中国」の名称がどうであれ、それは「一つの中国、一つの台湾」の内容をもつ。もちろん、この「一つの台湾」というのは、「蒋介石を頂点とする、国府の統冶による台湾」のことであるが、時がたつにつれ、やがては台湾人の台湾となろう。あるいは時間の経過をまたずに、台湾人によってその支配がくつがえされるかもしれない。この事態は国府はもとより、中共の恐れるところでもある。後に明らかにされたところによると、この時中共はフルシチョフ・毛会談の内容を早急に国府側に通報したといわれる。(注:l963年9月21日、国府の理論家で蒋介石の側近である陶希聖は、北投の政工幹校高級班での講義で、こう話している。“共匪はフルシチョフが台湾独立に傾いていると、われわれに通報してきたが、われわれは相手にしなかった”。

国連で台湾問題を解決する際、ソ連が反対すれば、その可能性は薄い、だが、ソ連がいまや「二つの中国」に傾いたというのであるから、たいへんなことである。万一、台湾で住民投票がおこなわれるようなことがあれば、中共を支持するのは、二百万の中国人難民しかいないから、中共は惨敗する。これは中共がずっと台湾における住民投票に反対してきた理由である。中共はしばしば「アメリカは台湾独立国や、中台国を樹立しようと企図しあるいは台湾で公民投票をおこなって、信託統治を実施しようとしている」とこじつけていっているのは、むしろ住民投票に自信がないからである。(例えば、1960.9.5、英BBC記者フェリックス・グリーンが周恩来にテレビ・インタービューした時の周発言にもみられる)。

アメリカの台湾政策の転換

1960年はいろいろな意味で台湾にとって変化の多い年であった。台湾島内では反国府の気運がとみに高潮した年である。台湾人の一部有識者が、「自由中国運動」者と結び、反対党結成に乗りだした。その時の勢いからみれば、反対党が結成されれば、国民党が少数党になることは必至であった。

たまたま、蒋介石と並んでアジアの三大獨裁者といわれる李承晩が打倒されたことは、一層反対党運動に乗りだした人々に勇気を与えた。それにΓ台湾は一つの独立国として承認されるであろう」と言明し、「金門・馬祖からの撤兵」を主張していたケネディ上院議員が、アメリカ大統領に当選し、「一つの独立した台湾と―つの独立した中国によってしか、中国のこの局面を解決することはできない」とするチェスター・ボールズが、ァメリカの極東政策を担当することになったのである。これらの諸要素は台湾人の志気を鼓舞するのに役立った。 アメリカの政策は、ケネディの死後も大きな転換があったとはいえない。むしろ長期的には、その方向へ向かっている。その当面の政策は「国府の存在による「―つの台湾」ではあるが、国府・中其のいずれも、それが「台湾人の台湾」へ転換することを恐れていることは依然としてかわりはない。

この間、国府が「大陸反攻」を本気で実行するかのような構えをみせたこともあった。

たとえば、中共では1959年以来3年連続の不作のため、1962年5月に、約6万人の難民が、一挙に香港に流れこむという事件が発生した。この年の3月、国府は徴兵動員令を出し、次年度の現役徴兵をくりあげ実施し、また軍人の退役をも停止した。他方、国防特別予算による国防税の税率を引きあげるほか、“思想犯”の一斉検挙を行なうなど、一連の臨戦体制をしいた。

これなどは、十数年来、叫びつづけてきた「大陸反攻の」スローガンと同じく、在台中国人難民に対する一種のポーズにすぎない。国府当局は「大陸反攻」などできるとは思っていないのだ。いかにして「一つの中国」を固持し、台湾を中国の領土として保有するかが、今日の問題である。そのためには、「大陸反攻」を叫ぶことによって、台湾が中国の「領土」であることを内外にしめすことが肝要なのである。

国共合作はすでに成立

1958年以降の国共双方の動きをみるに、国共合昨がすでに成立していると断定せざるを 得ない。中共は1962年以後も、絶えず国共合作を呼びかけているが、それはむしろ、国共 合作の話し合いがすでに一致点に到達していることを隠すためのものとしか思えない。

1962年8月12日に、ロンドン・オブザーバーの記者、ブラッドウォース(Dennis Bloodworth)が、根拠ある情報として伝えた国共合作がすでに成立したというニュ一スは、かなり正確なものであると思える。ブラッドウォース氏がすっぱぬいた国共合作の条件は、国府にとって、目下考えられる最上のものであるし、事実、その後の推移とはいささかの矛盾をもしめしていない。その条件は次の通りである。

1.蒋介石の存命中は国共双方とも攻撃をさしひかえる。

2.蒋介石の死後、台湾は国府の統冶下におかれるが、チベットと同様な中共政府下の自治区になる。

3.約10年ないし20年後に独立国となるかあるいは中国本土に帰属するかを決める住民投票を実施する。

4.国府が占有している金門・馬祖などの沿岸諸島を攻撃せず、金門島とこれに面する中国本土の厦門を一つの緩衡行政地区とし、本土と台湾との通行の自由を保証する。

国府が依然として「大陸反攻」を叫び、中共が依然として「台湾解放」を叫んでいる今日において、国共合作がすでに成立していると主張することは、奇異にきこえるかもしれないしかしながら、。李宗仁に対する工作が1955年に始められたとき、誰もが、この多金持の将軍が、安楽な亡命生活をなげうって大陸に帰るとは思わなかった。それから10年、この間、李宗仁と中共との交渉が進展しているという報道があっても、デマとしかうけとられなかったが、現実に李宗仁が北京に現われて、人びとは唖然とした。国府にしても同じことがいえる。ある日突然に、国府が中共と共同声明でも発表したならば、人びとは再び驚くことになろう。

国共合作に伴う諸問題

では、国共合作はどのような時期になってから、公開されるであろうか。その際、台湾でどのような反応がおこるであろうか。 国府にとって、もっとも望ましいことは、台湾人の協力と支持を得て、永久に台湾を支配することである。その支配が継続できる限り、国共合作をやる必要はない。そして例え台湾人の支持が得られなくとも、台湾人をおさえていくことができる限り、国共合作をやる必要もない。しかし、台湾を台湾人にとられる危険にそなえて、中共と暗密裏に手を結んでおくことは必要である。「国共合作成立」の公開的声明は、最後の最後にならないと行なわないのは当然であろう。

もちろん、その時でも、米華相互防衛条約や、第7艦隊が依然として存在していようし、これらは障害になる。したがって、国府は、その前に、米華相互防衛条約は「実質的には国府による大陸反攻の足かせになっている」という名目のもとに、事前に改訂ないしは廃棄をもくろむであろう。条約は「主権国家」である以上、道義上の問題は別として、一方的にこれを破棄できる。もし、国府がこれを破棄すれば、アメリカは、国共合昨をおさえるための「法的根拠」を失なう。

たとえ、条約の破棄までいかなくとも、総統や、首相に当る行政院長が、国共合作を声明すれば、アメリカは、米華条約第2条に基いて行動をおこす根拠を失う。なぜならば、このばあい、総統や行政院長の声明は「国家」や「政府」の代表であるたてまえから、「外部の共産主義者によって指導される破壊活動」であると解釈できないからである。

したがって、今後、国共合作推進勢力い中心である蒋経国は、行政院長になることをねらうだろうし、たとえ行政院長にならなくとも、その最も信頼するものを、その座におくであろう。蒋介石が生存している限り、総統の座は蒋介石が連任しようが、その死に備えて、経国の腹心が副総統の座におかれることは間違いない。蒋介石が死ねば、問題なく、蒋経国が必ず総統の座につくように工作するであろう。

そして国共合作の声明かだされた後も第7艦隊の壁は依然として残るが、この時、国共合作勢力が苦しむと同じく、アメリカも苦しむことになる。つまり、アメリカが台湾に出兵するなら、それは「法的根拠」なしの強行出兵ということになるからである、その際、アメリカは、台湾や台湾人に深い理解をもたない国々から「内政干渉」と非難されることを覚悟しなければなるまい。

では国共合作が声明された際、台湾にいる人たちはどんな反応をしめすであろうか。

在台中国人のうち、共産よ義を嫌う上層官吏や、富裕な人たちは、競って諸国へ亡命するであろうが、大多数をしめる中国人難民が国共合作を支持することは聞違いない。

これら難民は自発的に海外に発展した華僑とは違い、やひをえず台湾に流れてきた。その台湾には台湾人と中国人との対立があるのみならず、台湾では家庭をもつこともできず生活も苦しい。しかも、その将来は不安定てあり、いついかなる危険がふりかかるかもしれない。それにくらべると、大陸は自分の故郷てあり、その故国はいまや強国になっている。それが共産主義国であるにしても、自分には目下のところ共産主義の統治下におかれても失うものはない。自由、それは大陸にはないが、台湾にもない。そんなものは“生活”すらもないこれら中国人難民にとってはたいした問題ではない。

では台湾人の反応はどうか。国共合作という異常な変化に、いままで、時がたてば台湾は台湾人のものになると信じていたものは、はじめて事態の厳重さに驚き、戦うことを決意するであろう。いままで国府を支持したものも国府のこの決定に対して抵抗するであろうが、そのうち、「大中国主義」をもつものは、合作に賛成するかもしわないが、この数はいたって少ない。大部分の台湾人は混乱に乗じて蜂起するであろう。

中共は機に乗じて金門・馬祖に攻撃をかけて、これを占領し、そこに駐屯する6万の台湾人兵士を捕虜にし、大陸に連行して洗脳を試みることは必然である。そしてそのうち、洗脳に成功したものを「人道主義に基く」ことを理由に台湾に返し、将来台湾で内乱を醸成することに備えるであろう。


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