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いかにして中華民国体制は生まれたか(一)
中華民国体制の終結なくして、台湾の新生なし
黄文雄  

中華民国建国の父は袁世凱

中華民国という「体制」(国体)の成立は辛亥革命がきっかけであったことは万人が認めるところであるが、「国父孫文」がそれをつくったという説は、あきらかに歴史の捏造である。それは国民党史観からくる歴史認識であるが、孫文を「国父」と称したために、このようなイメージが定着したのであろう。

昨年十月、私は台北の立法院で、はじめて宣伝用の中華民国建国史の映画をみた。冒頭から孫文が辛亥革命を指導して中華民国が建国された、とする画面と説明が出た。私はすぐ日本人研究者たちに、「あれはまっ赤な嘘だ」と注意を喚起した。

辛亥革命の発端となった「武昌起義」が起きたとき、孫文はアメリカにいて、新聞を読んで支那で革命が起きたことを知った。

辛亥革命が起こる前、中国南部の雑多な革命団体の寄せ集めであった革命同盟会は、実質的にはすでに空中分解し、孫文は革命の同志たちから追放同然の身で、革命運動から離れて遠いアメリカで、一人ひっそりと失意の中でくらしていた。というのは、せっかく頭山満がまとめた広東人の興中会、湖南人の華興会、浙江人の光復会の三派連からなる革命同盟会は、孫文の独善的な革命路線についていけなかったからである。孫文の辺境革命蜂起は、失敗と無益な犠牲を出すばかりで、中部革命やら首都革命やらで三派が対立し、言語もなかなか通じないので、意志の疎通もスムーズにいかず、国旗を井田旗にするか、青天白日旗にするか、その他にするかの対立で感情的にもなり、ことに孫文の不透明な革命資金の使い方が、「孫文の罪状」として章炳麟、陶成章等に告発され、とうとう同盟会は空中分解してしまったのだ。中国人にとっては革命の理想よりも金の切れ目が縁の切れ目だ。

辛亥革命の指揮官、黎元洪は孫文一派とまったく関係ないだけでなく、革命軍の急先鋒は黄興、宋教仁一派とも関係が薄い。孫文にとって辛亥革命は蚊屋の外だっただけでなく、その後の第三革命(雲南起義)も日本亡命中に新聞記者のインタビューではじめて知ったのである。彼が革命に奔走したことは事実であるが、その後で孫文がつくった中華革命党も、自尊心をもつ人間なら誰もついていかれなかった。

たしかに急きょ海外から祖国にかけつけて、臨時大総統の争奪戦では孫文の多数派工作が成功じた。だが、臨時政府を維持する経済力も軍事力もなかったため、二ヶ月しかもたなかった。やむをえず実力者の袁世凱に政府ごと売らざるをえなかったのである。

政府をつくるにはまず、それなりの政治・軍事的実力が前提で、ことに馬上天下をとるしか道のない易姓革命の国、中国ではなおさらであろう。

力の世界である中国の行方をきめるのは、国会議員の数ではなく、各地の「督軍」であった。しかし、孫文一派はせいぜい上海と広州しかとれなかった。それどころか、孫文が臨時大総統になった後、革命軍の拠点はつぎつぎと袁世凱軍に逆襲され、とうとう臨時首都の南京まで守れなくなった。革命の地盤さえ守れなかったから、もちろん日本の財閥をはじめ、外国に約束した鉱山や鉄道の利権も反古になり、新政府を維持する資金も入らなくなった。孫文の臨時政府は、袁世凱に売らざるをえなかったのだ。

中華民国の成立には、いくつかの共通の合意、つまり民意を代表するかたちの国会議員大多数の合意が必要であった。二千余年来の一君万民制が否定され、共和体制がとられることになったからである。宣統皇帝は「外国君主待遇」を受ける条件で退位した。国号については黄遵憲の「華夏」、劉師培の「大夏」、梁啓超の「中国」の他に「支那」や「大中華帝国」という提案もあったが、章炳麟の「中華民国」が採用された。孫文の「駆逐韃靼、回復中華」という大漢民族主義も否定され、康有為、梁啓超等の中華民族主義が主流となった。

孫文一派は臨時政府を維持する力がなかっただけでなく、反乱者として外国に亡命せざるをえなかった。中華民国体制を確立したのは孫文ではなく、袁世凱なのである。秦の始皇帝が中華帝国の国父であるように、袁世凱こそが中華民国建国の父なのだ。

孫文の性格を引き継いだ国民党の悲劇

孫文の三民主義が辛亥革命の指導原理であり、三民主義の理念に中国の民衆が共鳴したから、中華民国の建国に成功したと、今でも学者たちまでが主張しているが、それは歴史の捏造か無知である。

孫文が清末に革命を唱え、改革派の維新派と対立しつづけたのは事実だ。しかし、孫文の大言壮語と空想妄想は、科挙に落第した読書人にとっては魅力的だったかもしれないが、同盟会機関誌「民報」編集長の章炳麟は、しばしば孫文の空論の掲載を拒否した。

「三民主義」なるものは、近代西洋思想のちぐはぐなよせあつめで、さまざまな美味しい具をのせた中華五目ソバのようなものであり、しかもそのほとんどは民国以後に孫文一派の革命党員が彼の論文をかきあつめて添削したものである。革命前の指導原理ではなく、革命後の国造りのために、じょじょにつくられたのが「孫文の三民主義」なのだ。

「北洋軍閥」は、誤解、あるいは「醜化」されている場合が多い。たしかに北洋軍閥の中には無学文盲もいた。しかし、彼らの多くは保守的なエリートで、軍官学校出身のプ口も多い。それに比べ、南方の革命党員といわれる者のほとんどは、「幇会」すなわちチャイナマフィアである。孫文等の知識人革命家は、チャイナマフィアの反満洲人、反北方人の感情を煽り、そそのかして、暴動と略奪をくりかえし、全国一斉蜂起の夢をみながら、うつつをぬかしていたので、革命同盟会内でも、無益な犠牲を批判され、政敵の維新派の梁啓超からは「犬の遠吠え」とからかわれた。

孫文の革命は、すべてが失敗、政権をつくってもすぐ崩壊した。同盟会を結成するとき、陳天華に「失敗の革命家」として同志たちに紹介されている。孫は十回革命を起こして十回とも失敗したが、孫が参加しなかった辛亥革命と雲南起義は成功した。

孫文がつくった臨時政府はすぐ崩壊し、彼が三度つくった広州政府は崩壊して、彼が北京で亡くなった後、三度目の広州政府は分裂をくりかえしながらも存続して、南京政府にとってかわれた。

孫文は神戸にまわって頭山満と会い、北京に行く前に、張作霖の顧問町野武馬大佐を介して天津で張作霖に会った。孫文は張にさんざん説教されたが、反論もできず、退出した。それから間もなく、孫文は「革命いまだ成ならず」という言葉を残して、北京で死んだ。

ではなぜ、孫文がやった革命も彼がつくった政権もすべてが失敗したのに、彼が残したマフィアを主体とする国民党は、いまなお台湾に最大の政党として残っているのだろうか。

孫文革命の最大の特徴は、他力本願である。つまり、本人は安全地帯から無学文盲のチャイナマフィアをそそのかして先頭に立たせ、「一犬日を吠ゆれば、万犬嘘を吠ゆる」形にしたのである。そして、まだ自分の手に入っていない鉱山や鉄道、満洲の地までを先売りして資金をつくり、その金で革命をやろうとしたのだ。日米の資本家がもうその手にのらないと見たら、レーニンに手紙を書いて援助を求め、それが後の「国共合作」につながったのである。

誰が政府をつくろうと、孫文はすべて気にいらなかったので、手段を選ばず政敵を暗殺させた。孫文を親分とする「支那暗殺団」は同志まで消した。北一輝は、宋教仁の暗殺も「孫文がやらせた」と告発している。広州政府をつくるときも、自前の革命軍がなかったので、孫文は各地から軍閥や匪賊を集め、広州市民に対する略奪を認めただけでなく、広州商団大虐殺までやらせた。これでは市民に支持されるわけがないので、広州政府は北京政府とはりあう力はなかった。孫文革命が不成功に終ったのは当然のことであるが、もっとも悲劇的なことは、国民党がこの孫文的な性格を今日に至るまで引きずっていることである。

中華民国体制は20世紀版の五代十国

中華民国の建国当初、六〇〇前後の政党があった。二千余年にわたる一君万民制を中華世界から消そうとすれば、今後の国体がいったいどんなものになるのか、百家争鳴が避けられない。袁世凱の中華帝国の復活や張勲の宣統皇帝の復辟、あるいは軍閥同士の内戦、革命派の内戦、省対省、県対県、さらには村対村の械闘から、個人的な対立まで、大混乱におちいってしまった。

中華民国の内戦は、中国史上に類例をみない空前の人間同士の殺し合いであった。唐の後の「五代十国」の内乱に類似しているが、社会争乱の状況は、五代以上の天下大乱であった。

ではなぜ、中華民国の時代に入ると、突如天下大乱になったのだろうか。それは、文明、文化、政治、社会、経済の要因からその根源をさぐってみなければならない。

北洋軍閥と南方革命軍閥の対決は、たんに南京政府や広東政権と北京政権の中華民国の政権をめぐる争奪だけではなく、その背後には文明、文化的に「南船北馬」に象徴される黄河文明と長江文明の対立があった。春秋時代の尊王攘夷の「夷」とは楚越を指すものであり、南北の対決は蒋介石の北伐後に至るまで、南人と北人の文化摩擦としてつづいた。中国内部にひそむ文明の衝突である。

近現代中国の「五代十国」への回帰は、実質的には三国時代の魏、蜀、呉のように三つの勢力によって、鼎立、三分されている。北方の保守、穏健の軍閥と、南方の革命急進の幇会との対峙以外にも、中部、西南の「連省自治派」の一大勢力との対立もあった。

「連邦自治」派とは、いわゆる連邦政府派で、辛亥革命後、黎元洪革命軍司令官が各省に最初に呼びかけたのが連邦政府を組織することであった。章炳麟も梁啓超も陳独秀も、さらに毛沢東も胡適も、一時は「連省自治」派であった。

湖南と湖北の戦争は、連邦派と北洋軍の戦争で、広西と広東の戦争は連邦派の陳炯明と革命統一派孫文との戦争であった。中国各地に乱立した政権の対立は、蒋介石の北伐からいっそう激化し、やがて汪精衛の南京政府と蒋介石の重慶政府、毛沢東の延安政府の三国鼎立の時代を迎える。

新「五代十国」時代にはいくつかの政治的特色がある。

どの政府であろうと、あるいはそのボスが大統領、大元帥、主席と自称しようと、自派以外の政府を認めようとせず、自分たちの政府だけが中国の全人民を代表すると言い張って譲らなかった。

これらの政権間のことは、「武力行使」以外では何一つ決められなかった。たとえば、一九二二年に湖南全省の住民投票で賛成千八百万票以上、反対五七万票で「湖南省憲法」が制定され、「自治政府」が樹立されたが、国民党革命統一派の武力によってつぶされた。

武力以外ではいかなる問題も解決できないから、中華民国の時代は史上空前の天下大乱の時代であった。

中華民国の内戦は、北洋軍閥の内戦、革命軍閥の内戦、国共内戦だけに止まらず、国民党内部の戦いの激しさも、その他の内戦にひけをとらなかった。たとえば、国民党内紛の中原大戦で双方が動員した兵力は百五十万人で、戦死者は三〇万人以上である。林語堂によれば、国民党内戦の七年間、死傷者は三千万人を超えたという。これは一君万民判が失われた後の中華民国体制の悲劇ではなかっただろうか。

権力者が中味を決める中華民国体制

蒋介石の率いる国民党軍が北伐途上、党内戦と政府乱立をくりかえしながらも、武力によって中国を統一したとき、章炳麟は「中華民国は死んだ」と声明を出した。中華民国は蒋介石の国民党軍によって滅ぼされたのだ。それ以後、蒋介石の統一によって政治弾圧が強化され、中華世界の諸矛盾がいっきょに爆発、噴出した。抗日反日が昂進する一方で、本格的な階級対立による中国人の殺し合いが激化、国共内戦に突入した。中国人は水平的殺し合いから上下垂直的階級闘争に入ったのである。

蒋介石国民党主席に滅ぼされた北京の中華民国から南京の中華民国第二共和国制に移行したのだとする学者もいるが、それはあくまでも学者の高論卓説ならぬ空想妄想の観念的遊びであって、国民党主導下の中華民国のどこに「共和」があろうか。そこには「協和」も「共和」も「共存」の影さえなかった。

国民党支配下の中華民国時代は、広州政府時代からすでに一党多派、多政府の集団で、北伐後から日中戦争に至るまで、ほとんど一国多政府の対立、鼎立状態だから、民権どころか、政府としての機能さえはたせなかった。

やっと戦後、蒋介石が総統として選出されたが、蒋介石一家主導下の中華民国体制は、国民党が一党で強行に樹立した中華民国政府であって、共産党をはじとめする有力な諸党派から反対され、そのまま国共内戦に突入している。

それは、中国共産党の中華人民共和国とまったく同じような中国国民党の中華民国である。いわゆる「党国」体制、つまり党=国の国家であり体制である。それは、外からそう呼ばれたからではなく、国民党政府関係者も「党国」と自称していた。

九〇年代初頭、野党民進党議員時代の謝長廷氏は、一時国民党の逮捕をさけて、つくば大学中央図書館にこもり、戦後国民党主導下の立法院、国民大会選挙当時の実情調査をしたことがある。氏から直接聞いた話では、二票だけで当選したのもいた。二票といえば夫婦二人だけ投票しても当選、といういかにずさんな選挙であったかがわかる。

中華世界というのは、一君万民制の歴史伝統が長く、易姓革命の原理によって王朝交替する社会だから、革命によってだけで伝統的体制が簡単にかえられるものではないことは歴史が証明している。

しかし、同じく「党国」体制であっても、中国人民にどっちの方が大きな災禍をもたらしたかは別として、私は中国共産党の「党国」体制の方がいくぶんか正直であると評価する。というのは、中華人民共和国体制は、「世界革命、人類解放、国家死滅」の理想をかかげ、マルクス・レーニン・毛沢東思想の原理にもずいている。プロレタリア独裁=党独裁であっても、独裁専制を隠さない。今日至ってもあいかわらず「四つの堅持」を掲げながら、三権分立、多党制、私有制を絶対に採用しないと強調してはばからない。蒋一家の独裁は、白色テロの時代に「自由中国」を強調する羊頭狗肉の「党国」体制だったのに比べ、共産党の方がいくぶんか正直である。

もっと悪いのは、すでに枯れた「三民主義」を花として飾る中華民国体制である。

「三民主義」は、近代思想のつぎはぎの主義主張であり、時代錯誤の空想妄想だから、国民に強制的に学習させないと思想として生きられない。

「三民主義」そのものは、近現代の政治、経済、社会原理にもとずいてできたものではなく、ただこうすべきだ、ああすべきだという政治主張にすぎない。だから教祖の孫文をはじめ、その門徒衆たちも、「三民主義」中毒で、頑迷な独裁者になり、偽善者になったことは、国民党の「党国」体制がすでに証明している。まして「五権分立」は、じつに滑稽にして乱雑である。権力分散は、五権分立やら十権分立やら、ただ分立、乱立すれば好いものではない。民主主義の原理は、現在、いかなる国であろうと、三権分立である。五権分立がもたらしたのは、権力争奪による相互専制と政治的混乱にほかならない。現に中華民国体制は、総統制か内閣制かということさえ政治権力、とくに軍や特務組織を誰が握っているのかによって決められてきたのだ。

中華民国体制の終結を

台湾の中華民国体制は、中国時代の体制とちがって、中国国民党というよりも蒋介石父子によってつくられた「党、政、軍、特」四位一体の「党国」体制であった。

それは、住民、あるいは国民によって生れた体制ではなく、台湾人にとっては外から移植された外来政権であった。かつて李登輝総統も司馬遼太郎氏との対談で、国民党政権は「外来政権」であると語っている。

外来政権ではあっても、時代とともにじょじょに土着していくこともありうる。人類史上、いわゆる征服王朝というものは、つねにそういう運命を辿っている。清王朝もその一つである。

二期目の李登輝総統と陳水扁総統は、直接選挙から生れ、はじめての平和的政党交替を達成したものの、李総統は中華民国体制の終結者にはならなかったし、陳総統も中華民国体制の継承者としてふるまっているところをみると、最後の中華民国総統とならないどころが、体制延命の守護神となるのだろうか。

民進党の一部の幹部はかつて中華民国体制の終結を口にしたこともあったが、現在は中華民国体制を継承して、ミイラ取りがミイラになっている。

辛亥革命以来九〇年、中華民国体制は、あたかも不死身の怪獣のように、倒れても追われても、さまざまな型に生まれ変わって生きのこっている。「外来政権」としての中華民国体制も半世紀以上に経ち、三民主義の害に毒されながらも、土着化がすすみ、「中華民国在台湾」という二重構造も崩壊しつつあり、党国体制も終結せんとしている。

しかし、「国家」としての存在は、年とともに、土着化とともに、ますます危機が深刻化していく。

七〇年代の初頭、中華民国政府が国連から追放されてから、国際的な国家としての認知は、年とともに減少している。

たしかに中華民国は、主権独立国家であると主張し、国民国家の条件もそなている。少くとも、現在世界二〇〇前後の国家の中で、台湾よりも近代国家としての条件をそなえている国は、それほど多くない。

しかし、独立国家であろうと、主権国家であろうと、国際的認知が必要である。もちろん、国際法だけではなく、国際力学も、それを決める不可欠の条件の一つであろう。

中華民国は、国際社会ではすでに死亡宣告、あるいは除籍されている。しかし、中華民国体制は、この体制の終結を綱領に掲げている民進党政権に擁護されている現実をみても、中華民国体制の安楽死は、簡単ではなさそうだ。

時代錯誤の体制が予想以上に長生できるのは、それなりの国内外の理由があろう。「存在するものが真理」という名言もある。

台湾は近い将来、一つの独立・主権国家として国際的に認知されることについて、私はむしろ楽観的で、時代と時間は台湾人にとっては有利であると確信している。「統一」「武力行使」あるいは「統合」の声が出ていても、私はあいかわらずそう確信している。その確信は、近代人としての理性への信頼の他に、数世紀来、人類がえいえいとして築いてきた民主、自由、人権という共通の価値体系は、十数億の中国人の「歴史使命」とか「民族の大義」の吶喊につぶされることはないと確信しているからだ。

中国覇権主義に対抗する最大の武器は、すべての中華文化、中華意識を拒否する台湾人意識、そして一人ひとりの台湾人が人間としての尊厳を守ることであることを最後に強調したい。


台湾独立建国聯盟ウェブサイト /WUFI Web-site
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