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『台湾青年』創刊のころ
廖建龍/台湾・中国問題専門家  2002年8月1日

原載 台湾青年 第500号 停刊記念号 2002年6月5日発行


人間の運命はひとつの出会いで決まり、それが人生を形づくることがある。私は台北下町の商家の一せがれ、国民政府の悪政を実体験する前に日本に留学した。一九五〇年代末の東京でのんびり学生生活を楽しんでいたとき、ある台湾留学生に連れられて王育徳さんの千早町のお宅を訪ねた。この出会いが私の運命を決定した。六畳間の書斎で四、五名の留学生が王さんを囲んで互いに若い血潮を沸かして天下国家を論じ合うのは、じつに爽快だった。私を除くと、みんな悪政をくぐり抜けてきた一騎当千の尖兵だった。議論のあと決まってご馳走になる王夫人心尽くしの台湾料理も、下宿生活の私どもにとってじつにうまかった。こうしてお宅に何度も通い、皆と議論し、王夫人の手料理を頂くうちに、王さんが「雑誌をつくろう」と提案し、それが自然にに決まったとき、サムライは七人だったと覚えている。

編集会議は年長者の王さんが主宰するが、いつも社説の内容をめぐって議論が白熱した。要するに、社会と政治と革命を学ぶ勉強会だった。しかし、文章となると、王さんは殊の外厳しかった。原稿はみな一大論文の意気込みで書いて来るのだが、その都度律儀な王さんに文章を丁寧に直されて戻され、書き直しを繰り返した。だれもが、とても一途で真面目で謙虚だった。私は化学が専門で、農業経済は門外漢だったが、独学で経済専門書を一生懸命読みこなしながら書き上げた「台湾農業に関する一分析」が、耕英のペンネームで巻頭に載せられた『台湾青年』創刊号を手にしたとき、非常に興奮した。六畳間で全員が祝杯を挙げて喜び合った「素晴らしきかな青春」であった。

いったん「台湾青年社」として旗揚げすると、同志が続々と集まってきた。なかでも鄭飛龍が膨大な台湾のナマの現地資料を携えて参加したのは、大きな力になった。。私は一層励み、若さと情熱にまかせて「台湾の経済」を書き続けた。第六号「二二八特集号」は公開刊行物で初の豊富な資料に基づいた事件解明、画期的力作だった。事件の歴史的政治的位置付けをめぐって何回も議論してまとめた社説?と?は、皆の政治思想の出発点となった。以後は皆、反体制政治運動をまっしぐらに進んだ。国民政府を難民同盟と断じた第十号「中国人難民問題特集」は、当時としては斬新かつ鋭い視点をもった新説だった。体制側は再び大きな衝撃を受けた。この新説は、現在定説となった「国府は外来政権」のオリジナル学説だと自負している。この号で在米台湾人の独立運動組織UFI(United Formosans for Independence )と共同声明を出し、台湾青年社は独立運動を目指す結社であることを明確化する。私も編集長梁彰海として、入ったばかりの宋重陽に助けられながら学業と運動に没頭して行った。

『台湾青年』との思い出は尽きない。創刊号「台湾の農業」(耕英)から四九九号「台湾の半導体産業」(廖建龍)まで、変貌する「台湾」を追いかけてはや四十二年、よくも長生きし、根もよく続いた。『台湾青年』はなくなるが、廖建龍本人は四九七号「新しい民主政治の実験を進めている台湾」で、「台湾」に新たな視点を据えたばかりである。「台湾」との取っ組み合いは、もはやライフワーク、天命のような気でいる。


台湾独立建国聯盟ウェブサイト /WUFI Web-site
World United Formosans for Independence

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