トップぺージ
台湾民主基金会の催しに参加して

台湾の自由のために台湾人と共に闘って42年

宗像 隆幸/アジア安保フォーラム幹事   2003年12月17日

台湾政府が2003年に設立した財団法人・台湾民主基金会(王金平董事長)は、台湾の民主化に貢献した外国人を招待して、2003年12月6日 〜12日まで「感恩與巡禮」を催した。

日本からは大野正男弁護士(元最高裁判所裁判官)、大島孝一・元「台湾の政治犯を救う会」代表、手塚登志雄・同事務局長、小林正成・ 台湾独立建国聯盟執行員と私の5人、アメリカやカナダなどから40人ほどが参加した。2日間のシンポジウムの他、陳水扁総統との会見、呂 秀蓮副総統主催の晩餐会、謝長廷・高雄市長主催の晩餐会、人権記念晩会や総統府、慈林民主紀念館、台南神学院、布農部落屋の参観など 多彩な催しが行われた。

アメリカやカナダからの参加者の多くは教会関係者で、戒厳令時代の台湾に滞在して台湾人の人権擁護に努力した人びとが多く、民主化し た台湾の変貌に驚き、大変喜んでいた。

以下に掲載するのは、今回の催しに私が提出した文章であり、台湾民主基金会発行の冊子には中文訳が掲載されている。

台湾の自由のために台湾人と共に闘って42年

私の人生を決定した運命の出会い

1959年の暮れ、私は留学生として東京に来た許世楷さん(津田塾大学名誉教授、元台湾独立建國聯盟主席)と知り合った。私が会った 初めての台湾人であり、それまで私は台湾のことを殆ど何も知らなかった。彼から台湾の社会情勢を聞いて、私は驚いた。「自由・民主」 をとなえている蒋介石政権が、共産党独裁政権と変わらない専制独裁政権であることを知ったからである。蒋政権は恐怖を与えることによ って台湾人の反抗を抑え込むために、いかなる反政府活動を行ったことのない人々まで大量に逮捕投獄をしているという。その殆どが知識人 であるため、大学を卒業した若者たちは競って留学生という形で国外に逃れており、彼もその一人であると語った。若い台湾人が外国に出 る手段はそれ以外になかったのだ。

1960年に東京で台湾人留学生が、台湾に自由で民主的な独立国家を創建することを目指して、台湾青年社を創設し、日本語の機関誌『 台湾青年』を創刊した。翌年、許世楷さんは私に『台湾青年』の編集を手伝ってくれないかと頼んだ。私は古代ギリシア・ローマの歴史が 大好きで、日本語に翻訳されている古典を片っぱしから読み、彼らの思想と生き方に心酔し、自由のために闘うことは命を懸ける価値のあ ることだと信じていたので、喜んで台湾青年社に参加した。この台湾青年社で、故王育徳教授や黄昭堂さん(台湾独立建国聯盟主席)など 、多数の台湾人と友達になった。

1964年6月、われわれは内部に潜入していた国民党のスパイを査問したことが原因で、黄昭堂さんや許世楷さんなど私を含め7人が東 京の警視庁に逮捕された。われわれは26日間留置されたあと仮釈放され、裁判の結果、監禁強要罪などで執行猶予付きの有罪判決を受け た。日本の警察の取り調べは、もちろん拷問があるわけではなく、自白も強要されなかったので、われわれは取り調べに当たった警官たち と親しくなった。後年、その警官たちからの呼びかけで、われわれは「同窓会」と称して一夜の宴を共にしたほどである。

1967年、一度は台湾を見ておきたいと思った私は、台湾へ観光旅行に行った。台湾に着いたのが8月20日、8月25日に高雄で私は 何者かに尾行されていることに気づいた。8月27日、帰国する日の朝、二人の私服警官が國賓大飯店に宿泊していた私を訪ねてきた。て っきり逮捕に来たものと思ったが、警官は私のパスポートを見て、ありきたりの会話を交わしただけで出て行った。その日、東京に戻って きたら、仲間の林啓旭さん(故人)と張榮魁さんが強制退去令を受けて入国管理事務所に収容されていた。仲間たちは入国管理事務所の前 でハンガーストライキを行い、日本の学者や弁護士、評論家などが二人の救援活動に立ち上がり、マスコミも大きく報道していた。

「そうだったのか、私を逮捕すると騒ぎがますます大きくなるから、逮捕しなかったのだな」と納得した。東京地方裁判所がわれわれの要 求を受け入れて、強制送還の執行停止を命じたので、林・張の二人は釈放された。

ところが翌1968年3月26日、入国管理局は仲間の柳文卿さんを収容すると、翌朝、中華航空機で彼を台湾に強制送還してしまった。 われわれは、東京地方裁判所が午前中には柳文卿の強制送還執行停止命令を出してくれることを知っていたので、2〜3時間、時間を稼ご うと思って、羽田空港で彼を中華航空機に乗せるのを阻止しようとしたが、黄昭堂さんなど10人とも逮捕されてしまった。

前年に林・張の強制送還が執行停止になったにもかかわらず、このような強引な強制送還を行ったことで、日本の入管行政に批判が集中し 、またわれわれが起こした不法強制送還に対する裁判で、入管局長と蒋政権の間に密約があったことも判明したので、台湾人独立運動者に 対する強制送還はこれが最後になった。

彭明敏博士の台湾脱出

1964年9月、彭明敏博士は謝聰敏さん、魏廷朝さんと共に「台湾自救宣言」事件で逮捕された。彭博士は国際的にも著名な学者だった ので、欧米諸国はこの言論弾圧事件を厳しく批判した。その結果、彭先生は翌年11月に特赦で釈放されたが、特務機関の厳しい監視下に おかれていた。1968年から私は彭先生と秘密ルートで文通していた。1969年2月、彭先生の米人の使者が東京に来て私と会った。 一緒に会ったのは黄昭堂さんと横堀洋一さん(われわれの共通の友人で当時、共同通信記者、自宅軟禁下の彭先生に会ったことがある)の 3人である。その使者は、彭先生の「身辺に危機が迫っているようだ。再投獄されるか、暗殺される可能性もある。もし、台湾から脱出す る方法があるなら、たとえ命の危険を冒しても脱出したい」という伝言を伝えた。方法はこれから考えればよいと思って、私は即座に「わ かりました。引き受けましょう」と答えた。極秘を要する仕事だったので、脱出の準備は私一人で行うことにした。翌1970年1月3日 、彭先生は香港を経てスウェーデンへ亡命することに成功した。1月5日、彭先生から「SUCCESS」とだけ書かれたコペンハーゲン 発の電報を受けとったときの感激は今も忘れられない。

米国の大失策 ――蒋政権の国連追放

1949年に中華人民共和国が成立した後も、台湾しか統治していない蒋政権が中国代表として国連安保理事会の常任理事国の地位を占め ていた。しかし、われわれはこのような異常な事態が何時までも続くはずはないと思っていた。中華人民共和国が安保理常任理事国として 国連に加盟する時が、台湾が民主化に向かって歩き始める歴史的転換点になると期待していたのだ。蒋政権が国連の一般議席まで奪われる ことは全く予想していなかった。双方が国連加盟国になれば、国際社会は中国と台湾に別々の国家が存在している現実を公認することになる 。そうなれば、中国選出議員が改選されることもなく、国会を支配している万年議員制度は遠からず廃止され、台湾は民主化に向かうと信 じていたのである。

1971年7月に米国は、「中国封じ込め政策」を転換して、「中華人民共和国を安保理常任理事国として国連に加盟させ、中華民國は一 般の加盟国として国連に残す」方針を発表した。

蒋政権が安保理常任理事国のポストを返上すれば、そのとたんに「中国代表権問題」は消滅して、蒋政権は一般議席に残れたのである。も はや蒋政権が安保理常任理事国のポストを守ることは不可能なことが明白だったのだから、まだ中華民國と国交を持ち、米華条約で台湾を 防衛していた米国が「それ以外に方法はない」と強く迫れば、蒋介石はそうせざるをえなかったのだ。事実、蒋介石も内心ではそう思って いたはずだ。当時、蒋政権の外交部長だった周書楷は、国民党幹部の会合で「国連総会に残ることが重要であり、総会に残れば、北京は入 ってこないかもしれないし、たとえ北京が国連に加盟したとしても、われわれは総会にとどまることが必要だ」と語っている。『聨合報』 も9月15日の社説で、「国連はわれわれにとって非常に大きな財産であり、固守するに値する陣地である。」と書いている。絶対的な独 裁者であった蒋介石の意に背いて、周書楷がそんな発言をしたり、『聨合報』がこのような社説を書けるわけがない。

日本政府も少しはお手伝いすべきだと思った私は、佐藤栄作首相に蒋介石にアドバイスすべきであるという手紙を書いた(この手紙は『台 湾青年』1971年10月号に掲載)。

この手紙と関係があったかどうかわからないが、私は佐藤首相が実兄の岸信介元首相を特使として蒋介石総統に会わせたことを後に知った 。岸元首相が蒋総統に「中華民國は安保理常任理事国を辞退して、台湾代表の資格で国連に残るべきだ」と話したところ、蒋介石は顔色を 変えて岸をにらみつけたという。内心はどうであろうと、独裁者が外国の代表に向かって、自分の責任になるようなことを言うわけはない 。米国も蒋介石のそのような反応を本心と見誤って、「逆重要事項」提案という愚策を演じたのであろう。台湾の歴史を狂わせた米国の大 失敗である。

ここまでは拙著『台湾独立運動私記』(文藝春秋刊、中文訳は前衛出版社刊)に詳しく書いてあるので、関心のある方はそれを読んでいた だきたい。

台湾独立聯盟の成立と機関誌の役割

国連から追放された蒋政権は、国民に対する監視と弾圧を強化して、台湾内部で中国の正統政府という虚構を固守し、万年議員に国会を支 配し続けさせた。われわれも台湾民主化の戦いが長期化することを覚悟せざるをえなかった。

台湾独立というのは、中国(中華人民共和国)からの独立ではない。中国は台湾を統治したこともなければ、現実に統治していないのだか ら、「中国からの独立」という非現実的なことがあるはずはない。台湾独立とは、中国から占領軍として台湾に渡ってきて、台湾を支配し ている外来政権からの独立である。この外来政権は、本国を失ったものの、台湾を植民地と同じやり方で支配していた。1960年代は、 列強の植民地だったアジア、アフリカ諸国が独立運動を展開し、次々に独立国家を創建していた時代であった。だから、われわれはこの外来 政権からの独立を「台湾独立」と呼んだのである。われわれは、この外来政権の支配体制を「中華民國体制」と名付けた。そして、この中 華民國体制を「中華民國政府は中国の正統政府であるという虚構の下で、中国から来た国民党の権力者たちが台湾人を支配している政治構 造」と定義した。台湾人は人口の87%という圧倒的多数を占めているのだから、台湾人の間にこのような台湾の現実に対する認識と自由 ・民主の思想が広まれば、かならず中華民國体制を崩壊させて自由で民主的な国家を創建できる、とわれわれは信じた。そのためには、欧 州諸国と日本で台湾独立運動を行っている各組織間の関係を緊密化し、基本的な理念や戦略を統一して、その思想を台湾内部に広めねばな らない。そのために、台湾独立運動の機関誌が重要な役割を果たすことになった。

1960年代の前半までは、多くの台湾人留学生が日本文を読むことができた。しかし、1960年代の後半になると、日本以外の国に留 学した台湾人の中で日本文を読める人は少なくなった。そこで、われわれは月刊『台湾青年』を1966年10月号から中文版とし、日文 版の月刊『台湾』を1967年1月に創刊した。『台湾青年』は中文版となったことで、欧米諸国の台湾人留学生の間でも広く読まれるよ うになった。そして、1970年1月、日・米・欧・加の台湾独立運動組織が統合して台湾独立聯盟(1976年に南米の組織も参加、1 987年に台湾独立建國聯盟と改称)が成立し、『台湾青年』はその機関誌となった。その後、台独聯盟米国本部が、中文版の『台独月刊 』を創刊したので、『台湾青年』は1973年4月号から日文版に戻し、双方の重要な論文は日文と中文に翻訳して両機関誌に掲載した。 こうして、日本と欧米に散在する独立運動組織の間で基本的な理念と戦略が統一され、それが次第に台湾内部に浸透して行ったのである。

台湾民主化の背景

1970年頃から、台湾内部でも大きな変化が生じていた。最大の変化は、目覚ましい経済発展である。蒋政権が台湾を占領したとき、台 湾に存在した重要な産業の殆どは日本人が残して行ったものであった。蒋政権はそれらを「敵性資産」として接収した。しかし、台湾の経 済発展の主力となったのは、これらの大企業ではなく、台湾人の中小企業だった。台湾人企業家たちの多くは、市場を世界に求めた。これ らの輸出産業が台湾の経済発展を牽引したのである。こうして台湾人の経済力が強まったために、外来政権が従来どおりのやり方で台湾人 を支配することは困難になった。蒋介石時代の台湾は、「格子なき牢獄」と言われたように、国際社会との人的交流も情報の交換も厳しく 制限されていた。しかし、輸出産業が経済発展の主力となったために、国際社会との交流を遮断できなくなったのである。さらに、情報技 術の進歩でFAXが登場したりして、台湾と外国の間の情報交換が飛躍的に発展した。台湾独立運動や自由・民主の思想が台湾に滔々と流れ 込むようになったのである。台湾で民主化運動が高まり、1986年に民主進歩党が結成されるに至った背景に、台湾のこのような変化が あったことは間違いなかろう。

台独聯盟幹部の台湾潜入作戦

台湾で民主化運動が高まるにつれて、蒋経國政権は在外台湾独立運動の主要メンバーをブラックリストに入れて、台湾に帰ることを禁じる ようになった。彼らが帰国して台湾の民主化運動に合流することを恐れたからであろう。かつては帰国した台湾独立運動のメンバーを発見 すると喜んで逮捕し、時には外国政府と取引して独立運動者を強制送還させることまでやったのに、蒋政権は台湾独立運動者に対する政策 を180度転換したのである。

1988年1月には蒋経國総統が死去し、台湾人の李登輝副総統が総統に昇格して、台湾の民主化は実行段階に入った。しかし、まだ旧勢 力の力が強く、台湾独立運動者のブラックリストは解除されなかった。

1990年1月1日、台湾独立建國聯盟は中央委員会声明を発表し、その中で「台湾独立建國聯盟指導部を2年以内に台湾に移転する方針 」を発表した。台独聯盟の幹部達がいろいろな手段で台湾に潜入し、逮捕されて獄中闘争を行うことで、台湾独立を主張しただけで叛乱罪 に該当すると定めていた刑法を改正させ、ブラックリストを廃止させることが目的である。1990年7月、台独聯盟米国本部副主席の李 應元さん(民進党副秘書長)は単独で台湾に潜入し、ときどき新聞記者と会って自分が台湾にいることを誇示する写真まで公表したが、彼 が逮捕されたのは翌年9月のことであった。李應元さんの支援者たちが彼を1年以上も匿い続けたことは人々を驚かせたが、同時に特務機関 の能力がひどく減退していることも印象づけられた。

1991年8月、張燦 ・台独聯盟総本部主席が米国から私に会いに来て、台湾に潜入する本隊(張主席、何康美・欧州本部主席、周叔夜 ・南米本部主席、陳重光・元米国本部主席の4人)の潜入作戦を準備してくれと言う。私は日本人のパスポートを利用することにした。日 本人盟員の小林正成さんが、4人分の日本人のパスポートを取得するのに必要な書類を揃えてくれた。当時のいきさつから、張主席が台湾 の空港で逮捕されることは予想されていたので、3人が先に台湾へ潜入した後で、張主席は台湾に向かった。12月7日に張主席は桃園空 港で逮捕されたが、張主席と親しい米国の有力議員やフィリピン外相などが直ちに台湾政府に抗議した。日本政府も帰国の自由を奪われて いるためにやむなく用いた手段であることを認めて、日本人パスポートの不正使用を黙認した。32年前には彭明敏博士の台湾脱出作戦を 行ったが、今回は逆に台湾潜入作戦であった。私は時代の変化の大きさを痛感させられた。

台湾の命運を賭けた総統選挙

李登輝先生が総統になって以来、着実に民主化が推進され、台湾は自由な社会になった。立法委員は普通選挙で選出され、総統も国民の直 接選挙で選ばれるようになったことによって、外来の権力者たちが台湾人を支配する政治構造は崩壊した。しかし、この政治構造の前提と なった虚構はまだ残っている。蒋介石政権がまだ中国の中央政府だった時代に、中国のために中国で制定された中華民國憲法が、いまだに 台湾で使用されているのだ。中華民國は中国大陸全土に領土主権を有すると定めたこの憲法が存在する限り、中華人民共和国は何時でも台 湾を併合する大義名分を有するのである。中国が台湾憲法の制定に猛反対しているのは、台湾を併合する大義名分が失われるからだ。台湾 の統一派が中華民國憲法に固執しているのは、台湾憲法が制定されて台湾国が創建されたら、中国との統一が不可能になるからである。

台湾憲法に基づいて台湾国が創建されたら、国際社会も台湾と中国が相異なる二つの国家である現実を認めざるをえない。国際法は他国に 対する武力による威嚇と武力行使を固く禁じている。他国に対して武力を行使すれば、それは明白な侵略である。そのような侵略を放置し たら、国際社会の秩序は根底から崩壊するので、国際社会はそのような侵略を黙認することはできないのだ。ひとたび台湾国が創建された ら、世界の他の国々と同じように、台湾は国際社会による安全保障の恩恵を受けられるようになるのである。

2004年3月の総統選挙は、独立派と統一派の戦いとなった。台湾の将来は、全てこの選挙にかかっている。台湾の命運を賭けたこの総 統選挙で、台湾の国民が賢明な判断を下されることを祈ってやまない。


台湾独立建国聯盟ウェブサイト /WUFI Web-site
World United Formosans for Independence

ご意見はwufidata@wufi.org.twあてにお送りください。
そのばあい〔言論広場〕に転載します。
お手紙を掲載されたくないばあいは、その旨を明記してください。
あなた様のご光臨とご支持に感謝します。