| 巨星墜つ──末次一郎先生逝去 「日本でただ一人の国士」 「歴代総理の指南役」 |
| 宗像 隆幸/アジア安保フォーラム幹事 |
平成十年十一月二十五日、数え年七十七歳の末次一郎先生の喜寿を祝うパーティーが、東京の芝パークホテルで開かれた。喜寿祝いの前に同しホテルで、新樹会(青年運動の指導者組識、末次一郎代表幹事)の記念講演会が開かれ、「正念場の日本」と題して末次先生がお話しになった。 そのとき末次先生は、「先日、自衛隊の観閲式に行ったが、観閲官の小潮首相が防衛庁の汚職のことをくどくど話していた。あんな話しは一言でいいのに、あれじゃ自衛官の士気が落ちる」と、愛弟子の小渕首相への小言も話された。新樹会という身内の会合だったから、末次先生は小渕首相への愛情を込めてこんな話しもされたのであろう。 この喜寿祝いの発起人代表でもある小渕首相は、当然駆けつけてくるはずであるが、ちょうど中国の江沢民主席が来日した日で、彼はすでに迎賓館に入っていたから、時間の調整がつくかなと少し心配だった。末次先生の講演が終って、喜寿祝いの会場に移るためにホテルの玄関前を通ると、すでに小渕首相は到着して、全国から集まった新樹会の代表たちに囲まれていた。 まっ先に挨拶に立った小渕首相は、「私は早稲田大学の学生の頃から末次先生の御指導を受け、お叱りを受けたり励まされたりしながら、ここまでやってきました。」というようなことを軽妙な口調で語って会場を沸かせたあと、一転して厳粛な表情で、「私の知る限り、末次先生は日本でただ一人の国士」と言って、これまたいかにも小渕さんらしく、「国士とは国家の侍のことです」とわざわざ注釈を加えた上で、「私は末次先生を日本でただ一人の国士と思っております。」と語った。 政財界のお歴々が集まっている席であり、その中には二人や三人、自分も国士だと自負している人もいたであろう。「思いやり」の小渕さんのことだから、そんなことは百も承知の上だったに違いない。しかし、末次先生と比較すれば、国士と言えるような人物が他にいるはずはないと思ったからこそ、小渕首相は末次先生を日本でただ一人の国士と断言してはばからなかったのであろう。 陸軍中野学校出身の青年将校だった末次先生は、敗戦直後に、戦死した仲間に代わって戦後処理を行うことと、日本を立て直すための人材を育てるために青年教育に尽力することを、生涯の仕事と決意された。まず末次先生は、同し志を持つ青年たちを集めて健青会を組織し、海外に取り残された人びとの引き揚げ促進と引き揚げ者の援護活動を行われた。 サンフランシスコ平和条約の発効で日本が独立を回復した昭和二十七年、末次先生はフィリピンのキリノ大統領に、モンテンルパの刑務所で服役していた百二十人の戦犯を、五十九人の死刑囚は無期懲役に減刑した上で、全員日本に送還して巣鴨プリズンで服役させるよう嘆願し、この願いは翌年かなえられた。 台湾入の戦犯も末次先生のお世話になっている。台湾入戦犯は、敵として戦った蒋介石の支配する台湾に帰ることを望まなかった。そこで末次先生は、彼らの住居として企業に寮を提供させたり、職を探してあげたり、さらには政府から援助金を引き出して彼らに分配し、各自にその半額を拠出させてタクシー会社を設立させたりした。当時、タクシー会社の免許を取るのは大変だったが、末次先生が政府と交渉して免許を出させたのである。 また米軍が健青会の人びとに対しては巣鴨プリンズンヘの出入りの自由を認めていたので、末次先生たちはそこで服役していた岸信介(後の首相)や賀屋興宣などの大物政治家とも親しくなった。そのことが、その後の末次先生の活躍の大きな力になった。 沖縄返還で末次先生の果たされた役割が大きかったことはよく知られている。昭和四十三年に末次先生は沖縄基地問題研究会を組織し、米国から有力な学者、元軍幹部、外交関係者などをこの研究会に招いて討論した結果、「核抜き、本土並み、七二年返還」という結論を導き出し、それを日米両政府が受け入れて、昭和四十七年(一九七二年)の沖縄返還が実現したのである。 すると末次先生は、「残る戦後処理問題は北方領土だ」と、その後三十年近くにわたって、ソ連、ロシアとの交渉に取り組まれた。いまだに解決の見通しはたっていないが、けっして諦めない末次先生の粘り強さは比類なきものであった。 末次先生の各方面での活躍を見て政治家になることを勧めた有力政治家も少なくなかったという。とくに佐藤栄作首相は、自民党の組織と経理の責任者を末次先生に会わせて、票の心配も金の心配も要らないから衆議院選挙に立候補せよと勧めたそうだ。末次先生は私にこう話されたことがある。「あのときだけは少し心が揺らいだね。それで一晩考えさせて下さいと言って帰ったんだ。そしてじっくり考えた結果、やはりそんな欲を出してはいけないと思って、翌日、断わりに行ったよ。」 西郷南洲遺訓にこんな言葉がある。 「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」 このような人物こそ、真の国士というのであろう。「時代が人を生む」と言うように、幕末明治維新の時代には、日本にも多数の国士が現れた。しかし、豊かで平和ボケと言われる今日の日本には、真の国士は現れようがないのかもしれない。末次先生を師と仰ぐ人は数多くいても、艱難を共にして国事に当たる仲間の国士が存在しないことを、末次先生は淋しく感じておられたのではなかろうか。 長年にわたって「土下座外交」と言われてきた日本の中国に対する外交姿勢を立て直したのも、末次先生の力が大きかったと思う。平成十年七月、小渕さんが首相に就任したとき、九月六日に予定されていた江沢民訪日をめぐって、日中間で交渉が行われていた。 まず中国が日本に要求したのは、その年の六月三〇日、訪中したクリントン米大統領が上海で語った「三つのノー」(@「二つの中国」や「一つの中国、一つの台湾」政策を支持しない。A台湾独立を支持しない。B国連など主権国家で構成される国際組織への台湾の加盟を支持しない)を、小渕首相が認めることであった。@とAは日本もずっと認めてきたことであったが、新しく米大統領が認めたBについては、日本には日本の立場があるとして、小渕首相は受け入れを拒否した。 中国にとって、これは全く予想外だったようである。中国は日本をなめきっていたが、アメリ力には一目も二目も置いている。米国の大統領がわざわざ中国に来て「三つのノー」を表明したのだから、中国の国家元首が訪日したとき、日本の首相が「三つのノー」を表明するのは当然と思い込んでいたのである。つづいて、日米安保条約の適用対象から台湾をはずすことを表明せよという要求も、かつて日本が中国で行ったことに対する謝罪を日中共同声明に書き入れよという要求も、小渕首相は拒否した 怒り心頭に発した江沢民は、八月二十一日に訪日を無期延期すると発表した。中国の国家元首の訪日は史上初めてのことであり、また日中友好平和条約締結二十周年を記念するものでもあったから、訪日を無期延期すれば、日本が困ると踏んだのであろう。ところが日本政府の反応は、「お国にもいろいろ御都合がおありでしょう。日本に来られるのは何時でもかまいません。御都合のよいときにおいで下さい。」という体のものだったので、江沢民はすっかりアテがはずれてしまった。 小渕さんが首相になる直前の六月に訪台した末次先生は、李登輝総統と二人でじっくり話し合っておられたので、台湾の立場はよく理解されていた。また末次先生は、日本の中国に対する屈辱的な外交姿勢を正すことが必要だと考えておられたので、小渕首相にアドヴァイスされたに違いない。 訪日延期を小渕首相に軽くかわされて、困ったのは江沢民の方であった。中国に対する第四次円借款(一九九六−二〇〇〇年度)の三年分がこの年で終わり、残り二年分の大枠も決まっていたが、最終決定は江沢民訪日時に行われることになっていたという事情もある。けっきょく彼は、十一月に来日することになった。 江沢民の訪日延期で順序が逆になり、韓国の金大中大統領が十月に来日した。金大中大統領は、日本の国会で行った演説で、日本の経済援助に対して深い感謝の意を表明し、戦後の日本が民主主義と経済の発展で成し遂げた業績を高く評価して、「アジア各国の国民に無限の可能性と希望の道標を示した」と、日本を称賛した。金大統領は友好ムードを振りまき、この訪日は大成功だった。朴正熙政権の時代から韓国の有力政治家との間に太いパイプを持っている末次先生の下工作が、この成功を生み出した大きな原因であると思う。 江沢民の来日は、金大中とは対照的であった。人民服姿で宮中晩餐会に現れた江沢民は、「日本軍国主義は対外侵略拡張の誤った道を歩み、中国人民とアジアの他の国ぐにの人民に大きな災難をもたらした。……われわれは痛ましい歴史の教訓を永遠に汲み取らなければなりません。」と語り、天皇の面前で天皇の父である昭和天皇の責任を追及し、その責任を永久に忘れてはならないと言い放ったのである。テレビでこの情況を見て、日本人が怒ったのは当然であつた。日本が供与した三千九百億円の円借款に対しても、江沢民は「感謝する」とは言わず、あたかも朝貢国に対するかのように「評価する」と言って日本を去った。 末次先生は、「江沢民は円借款に感謝するとは言わず、評価すると言った。永田町でも評判が悪いね。今回の円借款は竹下(登)君が約束してきたことだったから仕方がないが、五年分まとめて決めていた円借款を次から一年単位に変えて、だんだん減らしていこう。」とおっしゃった。事実、そのとおりになっている。 末次先生を師と仰いだ首相は、小渕さんだけではない。大宅賞作家の佐野真一氏は、小渕さんの伝記『凡宰伝』(文芸春秋刊)に、「歴代総理の政治指南役とも最後の黒幕ともいわれる末次」(一六七ページ)と書いている。功績はもっぱら政治家に帰し、自分は極力陰に隠れておられたから、末次先生は「黒幕」と見られたのであろうが「歴代総理の政治指南役」というのは的確な表現であると思う。 小渕首相の後を継いだ森喜朗首相が初めて衆議院議員に当選したとき、末次先生の友人だった父上が森さんをつれて先生を訪ね、「出来の悪い倅ですが、よろしく御指導をお願いします。」と頼んだという逸話も、永田町ではかなり有名らしい。森さんが首相になれたのも、末次先生の指導よろしきを得たせいかもしれない。末次先生は私利私欲がなく、党派からも超然としておられたから、戦後世代の保守政治家の多くが、末次先生を師と仰いだのも当然であつたと言えよう。 台湾の李登輝総統は、長年にわたって訪日を希望しながら、中国の意向に唯々諾々と従う日本の政治家や外務官僚の反対が強くて、なかなか果たせず、この四月に病気治療の名目でやっと日本に来ることができた。それでも何とか来日できたのは、これも末次先生の力が大きかったと思う。 昨年のー〇月三〇日、松本市で問かれたアジア・オープン・フォーラムの夕食会の席で、末次先生が黄昭堂さん(台湾総統府国策顧問、台湾独立建国聯盟主席)と私を、「ちょっと一服しませんか」とロビーに誘われた。李登輝さんがこのフォーラムヘの参加を希望をしながら来日できなかったことについて、末次先生は「今回は仕方がなかったが、来年はぜひ李登輝さんに来てもらいましょう」とおっしゃった。 いわゆる「ガス抜き」ってヤツだな、と私は思った。中国が李登輝さんの訪日に猛反対し、北京に招かれた折に李登輝訪日に反対することを約束してきた日本の政治家も数多く、彼らはとくに「中国の朱鎔基首相が来日した直後に李登輝さんの来日を認めるのは中国に対して刺激的すぎる」と強調していたので、ここは一応彼らの面子を立てておき、来年は李登輝さんの来日を実現するという意味だ、と私は解釈したのである。末次先生のおっしゃったことが、とりもなおさず森首相の考えでもあったことは、河野外相や外務官僚らの猛反対にもかかわらず、森首相の決断で李登輝さんの来日が実現したことで証明されている。 末次先生は相変わらずのヘビー・スモーカーで、このときもうまそうにタバコを吹かしておられた。末次先生が亡くなってから初めて知ったことであるが、何んと先生は平成十一年九月に医師から肺癌の告知を受け、「あと四、五年なんて生きることは無理」と宣告されていたのである。癌の告知を受けたあとも末次先生の超人的な活動に変わりはなく、数多い国内外の出張も従来どおりこなされていたので、そんなこととはつゆ知らなかった。 末次先生に最後にお会いしたのは、去る六月二〇日のことであった。李登輝さんの親友で陳水扁総統の資政(最高顧問)でもある奇美実業の許文龍会長は、東京に来られたら何時も末次先生に会っておられた。このときも許文龍会長から連絡を受けた私は、六月二〇日に末次先生の時間を空けていただいた。アジア安保フォーラムでの講演のために二十一日に来日する予定だった黄昭堂さんにも一日早く来てもらい、われわれは三人で末次先生にお会いした。 末次先生は何時もと変わりなく、にこにこしながらお話しになった。首相の靖国神社参拝も話題になり、末次先生は「イギリスのエリザベス女王が来日されたとき、靖国神社に参拝したいとおっしゃって下さったのに、外務省が止めたのは大失敗だった」と話されたことが印象に残っている。 その夜、台湾の羅福全駐日代表主催の招宴が開かれた。このときエレベーターまで数段の階段を、末次先生が秘書の遠藤さんの支えを借りて登られるのを見て、ずいぶん具合が悪いのだなと思った。しかし、それでも末次先生の話しぶりは普段と変わりなかつた。 蒋政権による独裁時代の後遺症で、台湾のマスコミの大半はいまだに「統一派」の支配下にあるが、その中で「独立」色の強い数少ない新聞の一つである『台湾日報』は、財政難に陥っている。そこで許文龍先生が、「私を含めてー〇人ほどの財界人が資金を出し合って、台湾日報がつぶれないように支えている」と、お話しになつた。すると末次先生は、戦後日本の新聞がみな左傾化してしまったので、財界人が協力して『産経新聞』をつくった話しをされた。 宴が終って末次先生を見送ったあと、許文龍先生が「私は病院を持っているからわかるんですが、末次先生の具合はかなり悪いですよ。」と心配しておられた。末次先生は昨年一〇月に癌が胃に転移したことを告知され、ついー〇日ほど前の六月十一日には肝臓にも転移したことを知らされて、自分の病状はよく知っておられたのである。 末次先生が台湾の許文龍先生に送られた六月二十六日付けの手紙がある。末次先生は書の達人であるが、便箋五枚に毛筆でしたためられたこの手紙には、いささかの乱れも見られない。その手紙の冒頭には、こう書かれている。
末次先生が倒れられたのは、この手紙を書かれてからわずか四日後の六月三十日のことであり、七月十一日に亡くなられた。 陳水扁総統の特使として末次先生の葬儀に参列するために来日された許文龍先生は、この手紙を見せて、「これは遺書だったんですね」とおっしゃった。そう、これは台湾への愛情を込めた末次先生の遺書だったに違いない。 末次先生の葬儀は七月三十日、中曾根康弘元首相を葬儀委員長とし、末次先生が指導あるいは深く関与してこられた十二団体と末次家の共催によって、東京都青山葬儀所においてとり行われ、猛暑の中にもかかわらず、約二千人が参列した。 末次先生には、正四位勲二等瑞宝章が授与された。末次先生の著書『昭和天皇をお偲びして』(平成十年展転社刊)には、昭和天皇や皇族の方々との心暖まる親密な交わりが記されているが、先生が亡くなった翌日、侍従を通して天皇陛下と皇后陛下の弔意が清子夫人に伝えられた。その中には、紀宮様のお言葉も加えられていたという。また、皇太子殿下と同妃殿下の弔意も侍従を通して、末次事務所に伝えられた。 台湾の陳水扁総統と李登輝前総統は、末次先生の葬儀に弔電と花輪を贈られた。葬儀に参列できなかった小泉首相の弔電につづいて、陳総統と李前総統の弔電が読み上げられた。また、外国の代表も三十人参列したが、その中で最初に焼香を指名されたのは許文龍総統特使で、次が台湾の羅福全駐日代表であった。 謹んで末次一郎先生の御冥福をお祈り申し上げます。 |
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