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わが三〇代の追想
池田 龍紀/近現代史研究家  2002年8月6日

原載 台湾青年 第500号 停刊記念号 2002年6月5日発行


私は拓殖大学の学生時代から『台湾青年』は知っていた。そこで王育徳先生のお名前も存じ上げていた。最初に関係者と接したのは、卒業後に某研究会事務局で手伝いをしていたおりであった。台湾問題について外務省アジア局中国課が非公式の部内研究会の記録をその研究会名で刊行したことがある。

当時は中華民國が健在の頃で、日本政府は北京政府の実在を公式に認めてはいなかった。現在では想像もつかないが、当時の中国課は、中華民國とは別に台湾を考えるための参考資料をアドバルーンであげた、ように記憶している。その売り込みに台湾青年社に連絡をとって、宋重陽編集長と接触した。背景は説明しなかったが、内容を見て、当時、五〇部だったか購入してくれた。

あれから、すでに四〇年近くたっているのではないか。

宋重陽氏と再会したのは、三〇歳になってからであった。それは二〇代後半の海外放浪から帰国してであった。宋氏は現在でもよく忘れるように、最初の出会いをほとんど忘れていたようだ。浪人をしていた私は、比較的に頻繁に会うようになった。とくに日中国交正常化と称する国内政治が姦しくなってからは、頻繁に会うことになった。

親中華民國派のNGO交流団体であった日華協力委員会というのがあった。岸信介の盟友というか友人の、一部では怪物視されていた矢次一夫(国策研究会)が事務局を構成していた。その向こうを張って日台協力委員会を作ったのは宗像隆幸氏であった。三〇代になって数年後に、偶然の機会から宋氏は宗像氏であることを知った。それまで、台湾人と思い込んでいたのである。

私は北京派を敵として日中議連粉砕学生行動委員会という名称で、一時は知人らと街宣活動を行った。それぞれの街宣車二台で恵比寿にあるLT貿易弁事処に、警察の街宣許可を取った上で、示威行動に出た。公安警備の係官が事務所の前でやめろ止めろと騒いだが、許可を取ってしまっているので迫力がなかった。

翌日の人民日報が一面に事件として取り上げ、当時は親北京派の閣内の急先鋒であった通産大臣田中角栄が閣議で問題にして、以後の示威は警備力に抑圧されることになった。そうなると、当方は一切の参加を止めた。税金で生きている人々と正面で戦っては息切れがする。ここで掛かった費用は、ガソリン代以外は、渋谷駅の売店で買った二百円の弁当が四つか五つであったろうか。

その最中に幾度か『台湾青年』に原稿を掲載した。支那名で出したこともある。今でもこの名前は大事にしている。ここで執筆したおりに常に念頭においていたのは、北京政府の国務総理周恩来であった。彼が有力な読者の一人であることを他から聞いていたからだ。彼の気配りから考えて、意図は伝わっていたと思う。


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