| 『台湾青年』初期の思い出 |
| 横堀 洋一/元共同通信編集委員・和洋女子大学教授 2002年8月4日 原載 台湾青年 第500号 停刊記念号 2002年6月5日発行 |
長い間、愛読してきた『台湾青年』がこの六月、第五〇〇号をもって停刊するという。小冊子とはいえ、日本にとっては最も身近かで強い絆をもつべきはずの台湾の出来事や主張を毎月、休むことなく伝えてくれたこのミニコミ誌(?)の停刊はやはり残念で、半世紀に近い間の出来事など、いろいろ回想すると、まことに感慨深い。 思えば『台湾青年』との出会いはすでに四十年あまりも昔のこと。大陸生まれ、台湾育ちの私自身、同じ世代で二十代の「青年」だったから、古い言葉を使えばすでに還暦をすぎ、古稀の歳を迎えようとするいま、精神だけは「青年」だとしてももはや熟年、「台湾青年」もブラックリストから解放され帰国を果たし、李登輝政権、民進党政権の登場から民主化、「正名運動』へと新段階に入ったといえよう。 自らを正しく勇気をもって「台湾」と呼ぼうと最近、台北や高雄で行なわれた大型デモ行進の先頭に立った、かつての台湾青年会委員長黄昭堂(昭和大学名誉教授)もいまや総統府の国策顧問、筆者が初めて会った当時はまだ黒髪に精悍な顔、ラフなレインコートをボガード風にひっかけた、自称「青年将校」の留学生だった。そのころ、マスコミの第一線で忙しく駆けまわっていた筆者は、たまたまマレーシアの独立式典にスカルノ・インドネシア大統領などとともに招かれ、独立国の元首なのみ扱いを受けた、東京の「台湾共和国臨時政府大統領」の廖文毅博士の「活躍」などと合わせ、日本における台湾独立運動を紹介して特集記事をまとめ、これに黄昭堂(筆名・黄有仁)の顔写真、『台湾青年』の表紙などを併載した。この記事は長崎新聞が一面トップに扱ったほか、全国の各紙が大きく掲載、国府大使館が早速、抗議し、これを掲載紙が無視、反論するなど思わぬ反響を呼んだ。黄昭堂はこの反響の大きさに脱帽、「もっとハンサムな顔写真を渡せばよかった」と悔しがった。そして「改めて話したいことがある」と帝国ホテルの昼食に誘ってきた。席上、彼から「数日後、台湾で大きな事件が起こるので注意して」との情報がもたらされた。 「すわ、何事ぞ」と一人、心中に収めて待機したが、それらしいことは何も起こらなかった。あとから本人に確かめると「語るのもお恥ずかしい。あることを決行しようとしたが、関係者が直前になって怖じ気ずき、中止した」とのことであった。 その後、一九六五年「臨時政府」の廖大統領が特務の転向工作にのせられて帰順、台湾青年会の方は海外の留学生らの間に組織をのばし、一九七〇年には各地の組織が台湾独立聯盟に結集され、「台湾自救宣言」を書いた台湾大学の彭明敏教授の逮捕と劇的な海外脱出などが波紋を呼んだ。この前後には柳文卿ら留学生の強制送還事件などもあり、これを生命がけで阻止しようとした同志らが逮捕され、羽田空港で制服係官らが柳文卿を総がかりで引きずり去った姿が、最近の瀋陽総領事館などのシーンと重なり、暗然たる記憶を呼び起こす。しかし、その後の台湾での動きと変化をみれば、正しい歴史の潮流は阻止出来ないと確信している。 |
台湾独立建国聯盟ウェブサイト /WUFI Web-site
World United Formosans for Independence
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